気がつけば9月が終わります。
『重力の虹』お待たせしています。
ブログなど書いている時間があったら、一パラグラフでも先に進もうと考えていましたが、お約束の季節になって、挨拶にまいりました。(キャジュアルな発言の場をもっているのが、どうも訳者だけのようなので)
で、マラソンに換算すると、42.195キロの40キロ付近をただいま通過中です。
とはいえ、一日進めるのは、だいたい150メートルくらいがいいところ。
遊んでるみたいで恐縮ですが、このマラソンの比喩、なかなかうまくできていて、この小説は全部で30500行くらいあって、42195メートルをこれで割ると、138センチ。だいたい一行が歩のストライドになります。しかしこの一行に、10とか13とかいう数の単語があって、それがつくるフレーズは飛び越しちゃいけない、掘り返し、植え直しでいかなくちゃならない。そうするとやっぱり、138センチを、亀のスピードで歩く感じになります。早いときで蛇か、ゴキブリ。
たとえばけさやったところに、こういう行がありました。
In her pack, Geli Tripping brings along a few of Tchitcherine's toenail clippings, a graying hair, a piece of bedsheet with a trace of his sperm, all tied in a white silk kerchief, next to a bit of Adam and Eve root and a loaf of bread baked from wheat she has rolled naked in and ground against the sun.
(最後から4つめのエピソードの冒頭。ペンギン版、p. 717)
本文で4行、長さ5メートルほどの文ですが、魔女見習いの少女ゲリーの包みの中身について書いてある。toenail は足の爪、graying hair は白髪交じりの髪(おっと、髪とは限らない、この文脈では体毛のイメージかも), spermは精液で、それがシーツにこびりついているところを切り取って、それらを包んだ白い絹のハンカチをキュッを結んだ。
何のために?
小説の筋がわかっていると、ピンとくる。333ページで退場してから、400ページ近く(ときどき記憶で言及される以外)ごぶさただった Geli なので、忘れてしまう読者もいるかもしれないですが、本書を愉しむためには、この魅力的な魔女っこゲリちゃんのことを憶えていないといけません。終戦のため会えなくなったチチェーリンを引き戻す魔法に、けなげに勤しんでいるシーンです。その細部を、ピンチョンがきちんと調べて書いているんだというところを見落とさなければ間違えない。
愛の魔法のお道具は、「アダムとイブの根」。なにか呪力がありそうな名前だが、調べてみると、これは「アプレクトルム・ヒエマレ」という以外に和名のないラン科の植物。その根はしばしば男や女の形に見えるからこの名がついたのだろう。この魔術には「愛のケーキ」も必要ならしく、その手順は、まず脱穀前の小麦の中を裸で転がる。それから籾殻を落とし、粉にして、焼いてパンにする。臼で挽くときは太陽が回る方向と逆(againt the sun=反時計回り)にする。
この訳で大丈夫か、ネットでウラをとるわけです。"ground again the sun" で検索すると、たとえばこういうページがヒットします。
http://www.northvegr.org/secondary%20sources/mythology/grimms%20teutonic%20mythology/03410.html
このなかに
Love-drinks have love-cakes to keep them company. Burchard describes how women, after rolling naked in wheat, took it to the mill, had it ground against the sun (ON. andsœlis, inverso ordine), and then baked it into bread.
という記述があって、ああ、ピンチョンは、ここから(グリム兄弟の兄ヤーコプの長大な民話神話研究 Teutonic Mythologyの 英訳から)知識を収奪したんだな、と推測できるわけです。20年前の国書訳では──まあインターネットもない時代でしたが──こういうこだわりの細部が、掘り返されてないんですね。旧訳の第4部が「すごく前衛的で、なんだかよくわからない」という印象があったとしたら、それは「裸になるのが彼女か小麦か」のレベルで挫折したり、粉を挽くのも魔術のうちであるという点に意識が及ばなかったりしているためです。
この小説は、複雑ですが、理路は整然としています。ふつう「理路」とは言わない論理の道筋までついています。あ、それをパラノイアというんでしたね。