木原善彦さま
公開礼状という形で失礼します。
お贈りいただいた『トマス・ピンチョン』、本日届き、ほぼ読了しました。
ご存じかもしれません。この企画、三浦玲一さんからメールで誘われましたが、にべなくお断りしました。
それが三浦氏への最後の言葉になってしまったのを心苦しく思っていました。
氏の冥福をお祈りするとともに、その後を引っぱっていただいたご苦労に感謝します。
参加を遠慮したのは『重力』に専念すべき時期だった以外に、以下の理由からです――
「作家ガイド」というのは、どうしてもコンパクトな記述を要求されるため、書き手の「論」が先行してしまう。
アカデミズムはそれでいいのですが、私のように、大学をやめ、スロータイムでリアルなピンチョンを表現するチャンスを与えられているものが、わざわざ飛び込む企画でもないように思えました。自分で用意した筋書きにピンチョンを押し込めるのは難しいです。巽さんのように、その筋書き自体が、キラキラと読ませるものであれば、それもいいんですけどね。
いや、不満ではなくて、
このガイドが、作家と作品への敬意にあふれた、優れた「ガイド」を含んでいることへの賛同の気持ちを表したかった。以下、3篇について。
麻生さんの講じる「歴史的メタフィクションとしての『メイスン&ディクスン』」。プロの研究者にこういっては失礼ですが、たいへんよく調べられているものを読む快感があります。アメリカ大陸に線を引くことの意味も、直感的に感じられるわけですが、それを丹念に文脈化してまとめておられる。ウィリアム・ピンチョンへの言及によって実際の歴史の細部を響かせる――そういうことを端折らずやっているところに労作ばかりを書くピンチョンへの「敬愛」が感じられると。
木原さんご自身の「ピンチョン節とは何か?」は、そう断っておられますが、以前に発表した例示を含み、それを膨らませた論ですね。
ピンチョンの英語の特徴を、スッキリと解説した文章で、僕にこういう、読者への親切な対し方は、たぶんできません。
造語を例に、ピンチョンの、言葉への attitude を例示しつつ、それを積み重ねて、最後に「作品のテーマ」と「文体的な仕掛け」とが呼応している点を見せる手際に、うなりました。
文構造を突きやぶるのではなく、文法の枠内で、ちょっとした仕掛けを設けて、ラディカルに可笑しい表現をものにしていく、『ヴァインランド』以降の「ピンチョン節」を、うまく整理されていると思います。僕に協力できる点があるとすれば、それは、『重力の虹』の、あるいはそれ以前の、シュルレアリスティックというかサイケデリックというか、後期とは異なる文章への、アナキスティックな態度を説明し、その混沌を通して、後期のより柔軟な規則性の発現を語るというところでしょうか(論文を書くつもりはありませんけどね)。
石割さんの「探求と電球−−「見ること」の変態」。『Lot 49』と『Gravity’s Rainbow』の対比づける視覚論、これも見事な構成。その変態が、実際、どのように作家自身の脱皮と絡むのかという点については、いまひとつ強力な検証がほしかったという感想はありますが、とにかく、自分の用意した形式のなかで、ふたつの小説が正確に語られている。小説のわくわくするところが、読者の共感を得るかたちで、ちゃんと治められている。さわやかに納得させられました。
ピンチョンは、正面から、巧く論じるのに、長い時間を必要とする作家です。
アメリカ文学史・批評史の一般的な知識と結びつける論考も、限られたシーンから持論を膨らませる論考もあっていいし、卒論を書こうとする学生の役には立つと思いますが、
一歩、制度から離れてみますと、ピンチョンテクスト自体が、論文生産のための技術を超えた、ある種より真剣なつきあいを要求するところがありますね。22歳で、アカデミズムから逃走し、ずっとインディペンデントでやってきた作家としての厚みに、その原因があるのだろうと、改めて感じます。
なお、『ブリーディング・エッジ』ですが、新潮社のKさんの後輩の、僕もよく知っているSさんを担当編集者として、『LAヴァイス』のペア(栩木+佐藤)で訳すとことになりました。『重力の虹』を含め、できあがったら、忌憚なく批評してください。
本日は、突然に失礼しました。12月に大阪大学へ集中講義に行くのを楽しみにしています。
サトチョン