◎平泉-渡部論争
今から40年ほど前に起こった〈英語教育大論争〉、それはどんなものだったか。
外交官上がりで英語のできる政治家・平泉渉が、「平泉試案」というのをまとめて、日本の英語教育の改革を提唱した。
それに対し当時上智大で英語を教えていた渡部昇一が、文藝春秋社のオピニオン誌『諸君!』で反論した。
二人の論争は、日本の誌面論争では珍しく、双方が持論を粘り強く展開しながら半年の間継続し、共著『英語教育大論争』としてまとめられた。
平泉さんの改革案は正論で、日本に効果的な英語教育システムの定着を願う人の考えを代弁していた。日本の学校英語を〈外〉から見て、何とかしなくちゃ、と思う人は、だいたい、こんな提案に行きつくだろう。僕も共鳴する。すなわち:
英語は、他の教科と違う。本格的に読書聴話ができるまでに、音楽家やスポーツ選手の育成に匹敵する鍛錬が必要だ。それを全員に教えようというのはそもそも無謀であって、やる気のある生徒が大変な努力をするというやり方にするしかない。その比較的少数の者に、教え込むべきたくさんのことをしっかり教え込みたい。国民の一部に対してでも、実のある教育が成立しなければ、今後日本は国際的に立ちゆかなくなるだろう。
この「合理的」な視点に対し、渡辺さんの反論は、日本人の国民的プライドに訴えるものだった。彼は――
@外国語について知的に思考することが、知性の鍛錬にとってどれだけ効果があるかを指摘し、
Aその中で育まれた傑出した精神が、西洋の学知を吸収しながら、近代的な文化国家に日本を押し上げたことに誇りを持てと説き、
B教育の効果は、顕在化した量(テストのスコア)ではなく、今後に向けての潜在的な力をどれだけ蓄えたかで測るべきと主張した。
「英語学習は、他の学科では代えがたい、高級な精神修養」――という考えは、英語に傑出した日本人へのオマージュ(斎藤兆史『英語達人列伝』など)とともに、日本の英語教育界では、一定の人気を保持している。
◎すり替わった論点
前置きが長くなりましたが、この本は、40年前の論争から語り起こして、「平泉-渡部論争」が、いつのまにか、当初の知的なぶつかりあいではなく、「オーラルな教育への転換」か「文法訳読でいい」のかを論じる論争にすり替わってしまってしまった過程を跡づけています。
情報は豊かであって、いまだ健在である平泉・渡部両氏を始め関係者へのインタビューで事実を掘り起こし、当時の有識者の反応を拾い出しているので資料的な価値も高い。
それよりも、物事を深く考える人たちの議論が、何というか、日本人が英語に関して無意識の中に抱え込んでいる「モヤモヤ」によって引き下ろされていった過程が描き込まれている点が痛切に興味深いのです。その「モヤモヤ」とは、理性化されていない、矛盾した感情のことですが、分かりにくいですかね。説明しましょう――
たとえば日本人の「英語ペラペラ」願望って不条理だと思いませんか? どうしてラジオのDJは、ネイティブっぽくないとかっこ悪いのか。あるいは、日本人のDJだと、むしろカタカナ発音する方が好意的に受け止められるのか。
ヘンなことはたくさんあります。「英語は聞き流すだけの方がいいんだ」とか「勉強するからできなくなるんだ」とかいうメチャクチャな宣伝文句がはびこっていますが、そのインチキにお金を出してしまう人たちが、優秀な日本人の間にどうしてこんなに多いのかということも、十分に解明されていません。
昨今の改革のスローガンである「文法は教えるな」とか「英語は英語で」という文句も、冷静に考えると、同様にメチャクチャです。鳥飼さんはかねてから、「英文法」が忌み嫌われる非合理さと、「コミュニケーション」という言葉が、読み書きをすっとばした「会話」の意味だけで流通している無意味さについて、繰り返し発言してきました。この本でも、同じことを辛抱強く説いています。
◎病理解明の視点が必要
でも、心に病を抱えた人に、「あなたの考えはここが間違っている」といっても、なかなか通じません。「ブンポー」と「カイワ」の頑固な二分思考を、一般の日本人は、どうして、こんなに心の深いところで身につけてしまったのか。私たちのコンプレックスと強がりのありさまを分析しながら、日本人の心の痛みの歴史を追っていくような視点が必要かな、と思うのです。
じっさい鳥飼さんも、単に学者として知識を繰り出すだけでなく、一歩踏み込んだ書き方もしています。次の記述に注目――
「言いたいことがあったも空気を読んで黙る」が日本社会で生き延びるための知恵ともいえる。「沈黙は金」なのだ。少なくとも大人の姿を見て育つ子どもは、そう学ぶであろう。そうなると「言いたいことを言う力を鍛える」英語教育などは、現実にはありえないことを練習させていることになる(p. 189)
ここ、大事なポイントでしょう。もう一点、これは僕の考えですが、こんな世間知も、日本の生徒たちはわきまえているのではないでしょうか――「英語らしい英語で答えちゃだめ。出る釘は打たれるから」。良い発音で、抑揚に注意して、英語の意味を英語で感じようとして、それに成功すると、まわりからいやーな目で見られがち。「日本人として、日本人らしく勉強して成績を上げる」のは構わないけれど、本物への同化を志し、それに成功すると「特別なこと」になる。「わーすごい、キコクみたい」となってしまう。
「あたしたち日本人だもの、英語がスラスラできるはずなんかない」という暗黙のメタ・メーセージが、教室内の規範として支配しているなかで、英語を学ぶとはどういうことか。状況はダブルバインディングです。
「英語は大事だ、しっかりやれ」という教師から言葉も、教師本人がコンプレックスを抱えている中で発せられれば、メッセージとして淀んでしまうでしょう。英語は受験にいちばん響く科目だし、Toeic のスコアがよくないと就職にも支障するという脅しがかかっている一方で、「英語で突出する」ことが、なんだかよくわからないけれどタブー視される空気が、学校の教室には、しばしば見いだされるのではないでしょうか。不健康です。先生も生徒も、すごくわだかまっている。他のおけいこ事なら、学校で教わるレベルを越えて邁進するのは当然だし、友達にすごいバレリーナとかサッカー選手がいるのは誇らしくても、英語だと、なかなかそうはいかない。
鳥飼さんが、中学校に講演に行ったとき、生徒達から「どうして英語を習わないといけないんですか」という質問が多発した、と書かれています。「英語は必要ないと思います」という主張も多く寄せられた。これは、ひょっとしたら、歪んだ環境で英語を学ばされることの苦痛の叫びなのではないかと僕は思いました。
昔の学校であれば、英語は、教えられたことを憶えれば、そのぶん点数になりました。努力が点数に跳ね返るという構図のなかで、生徒も先生も自信を持つことができました。たしかにそこで行われていたのは真の英語が身に付く勉強ではなかったかもしれない。しかし、心の健康がおかされるようなものではありませんでした。そこに「コミュニケーション重視」の圧力がかかってから、なにかいろいろスッキリしない、雰囲気の悪い世界になってしまったことを、生徒達も感じているようです。
辛いといえば、その辛さは先生たちの方が痛切であるにちがいありません。教師としての威厳を保つには「優秀な私から学べ」というメタメッセージを発するようにふるまわなくてはならない。しかし、この情報化社会で、それを装うのは辛い。
◎正直に向かい合おう
このジレンマは、明治以来のものでした。明治の方がもちろん教員の資格不足は大きかったはずですから。そうした辛い日本の教室から、せめて、これができるようにみんな頑張ろうという形で編み出されてきたものが、「受験に役立つ」という大きな価値を背負った「文法」や「英文解釈術」だったわけです。日本語の論理によって、英語を精査し、規則をあまさず書き込んだ、とても精緻な知識体系を「受験英語」は抱え持っていました。
ところが、それがダメだと言われる時代になってしまった。おまけに、口惜しかったら英語で授業をしてみろ、と追い打ちがかかる。
英語で生徒を導ける日本人の先生もたしかにいますが、数が限られています。とてもマス教育の現場にまでは十分に回せません。
深刻な現実に対して、もっと本質的な議論がもりあがるといい。英語を学ぶとは本来どういうことで、それがこれだけおかしなことになっている、改革、改革と叫ぶこと自体が症状の一部になってしまった深い文化の病理を暴くには、学者の理性的な言い聞かせ以上に、ドキュメンタリー作家による、もっと「えぐい」アプローチが必要になるような気がします。
英語の授業とは何だったのか。100年以上にわたって、日本の文化にしみついてきた、グローバルな視野からすると「へんなもの」を、どこからどう俎上に乗せていくのか−−考えるとクラクラしますが、とにかくたとえば学校にカメラを入れて徹底的なリアリズムで現実を撮るとか、そういう(フレドリック・ワイズマンのような)アーティストが、まず出てきてほしい。世の中が騒然とするようなことがないと、問題は可視化すらされない。ただ苦痛のみを積み上げているうちに、極端に単純化された解決法がファシスト的な力を持ってしまう社会になっていく−−というのが一番怖いシナリオです。