わからない映画、にしてしまっては勿体ないので、『インヒアレント・ヴァイス』を観に行く前に、どうぞ、予習をしてください。この映画、筋を事前に知っても「ネタバレ」とはならない、そういう映画ですのでご安心を。
(以前から掲示しているものです。クリックすると拡大します)
●中央の初老男がミッキー・ウルフマン。ユダヤ系の大物デベロッパー。
このミッキーと、ドッグの元カノ、シャスタが、どういうわけかくっつきました(『競売ナンバー49の叫び』では、同じカリフォルニアの土地開発で巨利を得たピアス・インヴェラリティが、エディパを恋人にしていましたね)。映画の冒頭で、久しぶりのシャスタがいきなりドックのオフィスに現れて、ミッキーの失踪について調べてくれといって去っていきます。
シャスタのヒッピー思想の影響かどうか、ミッキーはいままでの強欲を悔いて、人は無料で土地に住むのが本来の姿だと悟る(小説では、ネバダの砂漠に大規模な無料の居住施設を建設している)のですが、そんなことを〈かれら〉が許すはずはありません。〈かれら〉とは、アメリカを背後で操る、カネと権力の結託した反動勢力です。
ミッキーはクリスキロドンという施設に入れられてしまいます。金持ち向けの精神治療施設をよそおった、〈かれら〉による洗脳施設──ちょっとパラノイア的ですね。これぞピンチョンの世界。
ミッキーの妻スローンは、リッグズ・ウォーブリングという逞しい大男(ミッキーの雇った建築家)を愛人にしている。家にはお色気丸出しのメキシコ系メイド、ルスがいて、探偵ドックに味方します。
シャスタの次に、ドックのもとに依頼にきたのは、タリクという黒人。武装をめざす黒人過激派なのだだけれど、ム所で知りあったネオナチのグレン・チャーロックを捜してくれという依頼だ。グレンは、ミッキーに雇われたボディーガード団の一員。
“アタマがおかしく” なる前にミッキーがやっていたロス再開発の一環に、黒人居住区の壮大な宅地化の仕事があった。その名も立派な「チャンネル・ヴュー・エスエイツ」。この建設現場で “ペロペロ・スペシャル”の商売をやっていたのが、ジェイドとバンビで、その店に入ったドックは頭に一撃をくらう。気がつくと、同じ一味の仕業だろう、グレン・チャーロックは殺害された後だった。
ミッキーがヒッピーとくっついちゃうのもありえない話ですけど、ブラックパンサーと白人至上主義者との間に、武器供与の約束が成立するというのもありえない話で、でもそこをくっつけてしまうのがピンチョン。おまけにタリクはグレンの妹クランシーとできちゃいます。この「ありえなさ」、非常識的解放感、がピンチョンの味なんですね。
ウルフマンの一件ではFBIが動いていて、フラットウィード(つぶれたハッパ)とボーダーライン(境界性人格障害)という名前をもつ二人が、ドックに関心をもちます。ロス市警は腐敗しているものの、この一件で動き出した “ビッグフット” ビョルンセン刑事は、映画中もっとも大胆にヘンなやつで、フローズン・バナナを舐めながら、英文科の教授みたいな言葉づかいでヒッピーを虐め、でも根はいいやつで、演じるジョシュ・ブローリンのド迫力にはきっと圧倒されるでしょう。
ビッグフットとドックは、水と油の関係であるはずなのに、ピンチョンはここでも、相反するものをリンクさせ、二人の絆が強まっていく方向に話をもっていきます。ビッグフットの相棒が〈かれら〉に抹殺されていて、殺害を手掛けたのが、エイドリアンと彼の手下のパック・ビーバートン。パックはミッキー・ウルフマンに雇われた一人でもある。なぜか洗脳施設にもいて、シャスタのヌードが描かれたネクタイを持っているのだが、詳しい事は重要でない。〈かれら〉に使われる殺し屋、という理解で十分だ。
〈かれら〉──大文字の They──とは『重力の虹』に出てくる表記をサトチョンが勝手に借用しているものですが、こちらの話で、邪悪な影の支配者は「ゴールデン・ファング」というシンボルによって括られています。ピンチョンの小説では、実体を曖昧にしたまま、シンボルだけが浮遊するということがよくあるんです。『競売……』の「トリステロ」もそうでした。『V.』におけるV.(歴史を操る女)は、まさにそれ。
●Golden Fang(金の牙) は、具体的に、3つの現れ方をします。
@船。美しいスクーナー帆船です。ミッキーとシャスタはこれに乗って、遠くへ連れて行かれた。この船は〈かれら〉による、ベトナム地域からのヘロインの輸送にも使われています。ヘロインの事業をマネージしている一人が、図の右上の、クロッカー・フェンウェイ。(その娘のジャポニカは家出の常習犯で、過去にドックは、フェンウェイからの依頼で彼女を連れ戻したことがある。)
A歯科医師の団体が税金逃れのために起ち上げたとされるオフィス。ドックとシャスタのシックスティーズの想い出の場所は、この時代、Golden Fang の建物──すごいですよ、金の牙の形をした巨大なビル──に変わってしまいました。その中ではコカイン狂いの歯科医ブラッドノイドが、女の尻を追っている。ヘロイン中毒患者は歯がボロボロになるので、歯医者のお得意さん──ということで、歯科医とヘロイン密輸は、Golden Fang のシンボルでつながる。
B後から分かるのですが、洗脳施設クリスキロドンは、ギリシャ語で「金の牙」の意味なのだそうです。
それぞれ別個と見えるものが、同じ記号でひとつになる。背後に、共通のエージェントが見えてくる。それってパラノイアですけど、ピンチョンの小説は、読者をその状態に誘いこむのです。
パラノイアに走ってしまいましょうか? こう考えるとスッキリしますよ──
アメリカという国は暴力的なカネの力で動いている。クロッカー・フェンウェイのような、裕福な土地持ちが、ニクソンのような政治家の後ろ盾となる一方、陰でいろいろ企んでいる。東南アジアからのヘロインは、人民をコントロールするためにも使われている。ヘロイン中毒のミュージシャンを標的に、彼が過剰摂取で死んだと見せかけ、マインドコントロールして密告者や、擬装騒乱者として使う。そうして反体制のヒッピーや活動家をつぶしていく──。(なにか、パラノイアというには、あまりに現実味がありすぎますかね。この映画には、ニクソン本人もでてきます。その演説を、〈かれら〉に操られるコーイが「やらせ」で妨害します。)
チャーリー・マンソンの事件を〈かれら〉が仕掛けたのではないにしても、60年代の希望を吹き消すようなことがこの時代、次々起こっていたことは知っておいていいと思います。『ヴァインランド』でも、連邦のカネが巻かれて、ヒッピーが密告者にされるようすが描かれました。
そんな暗い時代に、ひとすじの光を呼び込む存在が、ホアキン・フェニックス演じるドックなんですわ。
ドックが、一度壊れたコーイ・ハーリンゲンの家庭を修復する物語が、映画では小説以上にきわだっています。感動的。演じ手はオーウェン・ウィルソンとジェナ・マローン。かわいい幼女も出てきますよ。
そして映画では、相棒を失ったビッグフットとの奇妙な連携プレーによる逆襲(パックとエイドリアンへの復讐)も、見事なアクション・シーンとして描かれています。
●図の左下には、ドックの仲間が並んでいます。
不動産屋のリート伯母さん。(ドックの父母は小説には出てきますが、映画からはカット)
ベニチオ・デル・トロ演じる、オタク弁護士ソンチョ。彼は安カフェで「連邦政府=FBIが、マフィアの手からラスヴェガスを部分的に奪還するためミッキーを必要とし、彼を誘拐した」ことを伝えます。
デニス(実は「ディーニス」というのですが、これは penis ──英語だと「ピーニス」──と韻を踏むところが重要で、そのおばかな味は、日本語では出せない)。このヒッピーのダメ男は、小説だと、もっとおかしいです。
Dr. チューブサイドとその受け付けのペチュニア(監督のパートナー、マーヤ・ルドルフが演じている)、そしてドックのヒッピー仲間のうち、占星術にもウィージャ盤にも詳しく、精神的に頼りになるソルティレージュ(ミュージシャンのジョアナ・ニューサム)が語り手をつとめています。このアンダーソンのアイディアは成功しているといえるでしょう。
なおこの人物図には間違いが2つありました。
・中央トップのピザの晩餐会のようなシーンに「クリスキロドン」と書いてしまいましたが、ここはトパンガ・キャニオンにある、成功したサーフバンド「ザ・ボーズ」の屋敷です。
・ヒッピーをセックス・パートナーとしている、ペニー・キンボル(リース・ウエザースプーン)は地方検事補ですから所属は「検察局」でした。失礼をば。