前述(9月6日のタイトル「負の英語教育、清算を」)の読売紙上ディベートで、猪口孝さんがこう言っていた。──企業の英語公用化を云々しようにも、そんなのは企業の勝手。問題は中央官庁だ、「単純に国家公務員試験に〈TOEFL何点以上〉といった受験資格を儲け、日本語と英語のちゃんとできる人間だけが受験できるようにすればいい」。
ふむふむ、たしかに。だが、それより先に、英語を教える先生方(大学を含めて)の TOEFL スコアが awful では、わたしたちみんな woeful になるしかありません。
だけと先生にランキングをつけるのがむずかしい。それは先生がプレイヤーではなく、官吏だから。
公務員になるにも英語の試験はあるんです。いろいろあります。公務員のいろいろな試験に付随する「英語」の問題は、なんらかのルートを通して個人的に依頼された先生が片手間に作っている。その資格は大学の英語の先生であればよいようで、東大駒場で相部屋だった先生も、年長の先生からある筋の問題作成を譲り受けて作っていた。
ぼくは一度、助手か講師時代に、海外派遣の国費留学生の試験を担当したことがある。まじめな私は、海外へいく人たちの適性試験なのだからと、自由英作文の問題を出したら、英語の試験→採点→専門の面接をすべてを半日強で終わらせるシステムだったらしく、答案を読むのに時間が掛かって、本来の試験官(中根千枝さんが来ていた、もう30年も前のはなし)をずいぶん待たせてしまった。例年は「カッコの中に前置詞を入れよ」程度の問題だったとあとから聞いた。
要するに、この国のパブリックな仕事はいろいろすべて、官僚主義のもとでまわっているのである。官僚主義のいいところは、内部の人間がお互い傷つけ合わずにすむところだ。仕事ができる人もできない人もみんな平等。官僚主義というのは、封建主義を修正したものにすぎず、結局は身分制度であるから、競走原理は排除される。江戸時代は「生まれ」が競走を排除したが、近代日本は士農工商を廃止した。その代わり、子供たちに、過去の「科挙」に相当する東大入試以下の諸入試をくぐらせることで、大人が、特に役人が、安定を享受できるしくみを整えた。
官僚主義とは、「やる」ことと「やったことにする」ことを等価とする生き方/考え方である。
その結果「ちゃんとした仕事」と「いい加減な仕事」との間に差ができるが、その場合は「下に揃える」ことが要求される。官僚はひとつの仕事に3年以上いないのが原則だが、それは「仕事に長ける」ことが、システムにとってマイナスになるからだ。「あんたががんばると次の人がたいへんになる、世の中ローテーションで動いているんだから」という理屈である。
中学校・高等学校の英語の先生を生み出す制度は、また違っているのだが、ここでも英語力の競走には実際上なっていないことが、いままではそれで通ってきたものの、だんだんそれではすまない時代になってきた。
年金問題や、戸籍の仕事のいいかげんさとは、ちょっと比べものにならない「なあなあ」を放置してきたことの国家的損益を、国民はともかく、産業界が理解してしまう日は近いように思う。
英語のできない先生にはぼくも教わった。文法のできない国語の先生もいた。それでもみんな幸せだったShowa(笑話)の時代に、ぼくもノスタルジーは感じる。40になっても50になっても、キリキリ努力・切磋琢磨、というのもなにかとたいへんだから、文化というものは、そうしなくてもすむのであれば、安易な方向で収まるのが摂理。科挙による官僚制度というのは、なかなか過去完了になりそうもない、人間社会の本質にからむものなのであろう。(c佐藤良明:「引用」や「リンク張り」はご自由に)

