9月2日の『朝日』に千田潤一氏の記事がのって、なにかと話題になった。計算方式を示していないのでどのように事実なのかわからないが、とにかく「中学教員 560点」「高校教員 620点」という点数が暴露されていた。こんな点数でやっていられる英語関係の仕事は英語教師くらいだろうという皮肉や、大学の体制が今のままであってくれると、われわれToeic 推進者はハッピーです、みたいな嫌みに満ちた文章だったが、まあ、この種の論調は一部で強まっていくことだろう。「まじに鍛えなくては英語を学んだことにならない」という精神には、ぼくは賛成である。
千田さんのような考えに反発する人も多くて、たとえば
英語教育史の専門家、江利川春雄研究室のブログの文章は、これが「英語教育の哲学的探求をする人?」と思えるくらい感情的な言葉が使われている。
http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/18948548.html
僕の立場はこうだ。以下おおまかな概要を記す。誤解されやすいテーマなので、心配だが、だんだんとくわしく展開していきたい。
・19世紀の60年代、70年代は、帝国主義の圧迫の中で、日本語が危機に立たされた時代だったが、その危機を日本は克服し、「役に立たない」と言われる英語教育を通して、世界のすぐれた知性や発想に敏感に反応できる進化した日本語を発達させてきた。
・そのすばらしく柔軟な言葉をもつ国民は、誇りをもって、日本語の教育を続けるべし。われわれの伝統的な日本語オリエンティッドな英語学習は、義務教育として(国語のなかに取り入れて?)続けていけばいいのであって、それを教える先生には英語を使いこなせる必要はない。それよりしなやかな表現力、思考力を求める。
・ただし、企業の弱体化を防ぎ、結果国力を保つには、この国にも英語で論戦を張れる戦力が必要である。そのための訓練施設の設立と維持のために、税金と知性をどんどん投入すべし。
苦しんでまで英語を身につけたい日本人の若者の数はかぎられているが、いることはいる。経済や文化でトップになろうという人に、英語ができないのは大きなマイナスだ。若い時期にできれば3年の集中訓練をほどこしたいし、成人にも、短期中期の合宿トレーニングの便宜は与えたい。
藝術大学や音楽大学と同じような組織では数的に足らないと思う。スーパーイングリッシュランゲージハイスクールの発想も甘い(その種の、カタカナ英語を施策の合い言葉としているうちはダメだ)。外国語の習得は辛い。学校という明るく文化的なイメージにしておくより、軍隊のような、ほんとはおれたちだって日本語の青春を謳歌したいんだが、お国のために頑張ってるんだという悲壮感とプライドをもたせた方が成功する。
読売新聞(9月6日)のディベートにぼくは「早期に10万人、いずれは100万人」英語のちゃんとできる若者を鍛えたいと書いたが、100万人というのは、国の人口の1パーセント弱でたいした数ではない。これでは足らないかもしれない。(ちなみに日本の自衛隊員は、現在26万人いるだそうだ。)
ぼくがまだ漠然と想像している訓練施設は、モティベーションが高いものに限定し(たりないものは、一般の学校に帰していけばいい)、高校生、大学生、一般企業問わす、入隊者を受け入れ、メンタルケアも考えながら、イメージングと思考の英語化から始める合宿をほどこす。誰を運営のヘッドに据えるか、教員の質をどのようにして確保するかは、サッカーのナショナル・チームの監督を決めるにも似た、最重要課題となる。
ぼくは大学の内部改革をあきらめた身だが、そういう場所の設立のためにならまだご奉公したい気持があるのを、これを書きながら知った。われながら、ちょっとびっくり。
(c佐藤良明:「引用」や「リンク張り」はご自由に)

