ミュージシャンの菊地成孔が高崎にきて、シネマテークという近所の映画館で、公開の対談をしました。第2部45分があっという間でした。
菊地さんは、ここ数年、ぺぺ・トルメント・アスカラールというグループを率いていますが、アフロのポリリズムと、マイルズ由来のジャズの計算と、記憶の彼方から来るようなあまい映画音楽のメロディを取り混ぜて、ハラハラ・ドキドキさせる、そんな21世紀の音楽家です。
バークレイ・スクールで学んできた理論を私塾で、大学で、テレビ番組(フジテレビ系有料チャンネル・ネクスト)で指南する教育家でもあります。
その菊地さんが言っていました。「音楽について言葉で語ることに、みんなすごい抵抗をもってるんですよ。なんか、音楽って、ただやるもんで、言葉にするのが禁止されてるみたいな。プロレスなんかは、とても豊かな言説の世界に開かれているのにね」
そうか、Shut up and play your guitar. というあれか。
プロレスばかりじゃない。野球もむかしからすごい。自分では打つことも投げることもできない人たちが、セオリーについては、ものすごい知識体系を持っていたりする。歴史や統計資料にすごく詳しい人たちもいる。
そんな話になったときに、急に気がついた。英語教育。これですよ。身体と知識の分離が制度化されている最たるもの。
かつての教室は、「権威による実践の制止とセオリーのはびこり」を特徴とした。英語の球を投げるのがあまり得意でない先生もまじって、すばらしい辞書をつくり、英語史の本を書いた。
その制度が時代的にたちゆかなくなって、どうなったかといえば、逆向きの信仰が盛り上がっただけ。「理屈をいうから英語は習得できないのだ。とにかく黙ってこれを聞き流せ」。ただ英語の入った教材を聴かせるだけが「スピード・ラーニング」なら、こんないい商売はない。生徒もラクだし、先生もロボットで十分である。
英語をたのしく聞いている人たちは、英語について言葉でガチャガチャいうな、と言い出すのだろうか。すでに言い出していそうである。
いや、ほんとうに怖いのは、人間の精神全体のうち、感覚に関わるものを、知性から切り離すイデオロギーである。感覚から切り離された知性は、AかBかを選択し、マニュアル通りに事を進めることしかできない。そういう人間を、誰が必要としているのか?
一方で、知性をオフにして感覚に流れることを推奨させる大衆は、マス・エンターテインメントの受動的な消費者になって、国際資本を回転させる役を果たす。なにか、うんといやらしい力が世の中を動かしているような気がする。
音楽をちゃんと語り、英語をちゃんと教えることは、21世紀初頭の世界のまがまがしさから、人間性を守る手立てとなるか。
音楽の知、身体の知は微細であり、簡単に言葉には乗らない。よほどのレベルに達しないと、正しい感覚を言葉に乗せることは無理がある。言葉の知もしかり。自国語でもそうだ。助詞について、まともな説明ができたらそれは言葉のアートである。
それでもsome や any 、that や one や it や 定冠詞、不定冠詞について、英語を習得する過程でなにかしらの「感覚」を語ることはできるだろう。それは、○×式の知性ではなく、むしろオーソドックスなコード展開のパターンのようなものとして語られるのではないかと思う。なぜD の調では、 Em7 のつぎに A7 が続くとエンディングの流れがいいのか、それをイメージとフィーリングの問題として説明し、それが通じるような学習空間が、英語教育にも作れたらいい。
もちろん英語を聴かせ、英語を弾かせながら、それをやる。目指すは英語の創作だ。憂鬱や官能をテーマにしたイングリッシュ・スクール。

