言葉は違っても、人間の中身(イメージや思考の形)はそんなには違わない、ことを教えるのは、たしかに高級なことかもしれない。
群馬県に前橋市と高崎市の二つが隣接し合っていて、このふたつの市の住民は、同じアクセントで同じ言葉をしゃべっているくせに、なかなか「同じ」だという意識を持とうとしません。(あいつら/俺ら、という二分法、これはしつこいんですね。ひょっとしたら、それは社会集団をつくる哺乳動物の心に共通したもので、人間の思いの、いちばんの基盤をなすものなのかもしれません。)
そんな具合だから、「英語をしゃべるやつら」と「俺ら」が同じ心をもつ、なんて言い方は、過去の日本に、あまり行き場がありませんでした。幕末に、アメリカの軍艦に屈従させられた「傷」を抱え、戦後は戦後で、「カッコいい」ことと「英語的である」ことが等価であるようなコンプレックスの中で生きてきた私たちが、いまなお、Toeic に苦しめられるという状況下で、「英語も日本語も、同じじゃないか」というリベラルな気持ちを持つことが、なかなか難しいだろうということはわかります。
でも、だからこそ、そこに教育的な価値があるのだろうと思うんです。
よりグローバルな視野で考えてみましょう。
現在完了(What have you done? )と過去(What did you do?)の違いは微妙ですが、英語では保持されています。
フランス語からは消えました。フランス語の日常語では、かつてあった単純過去と複合過去(avoir + 過去分詞の形)の使い分けが、複合過去が全体を統一する形で、なしくずしになりました。いわば「完了形で過去形を代用する」ようになったわけです。
ドイツ語でも事情は似ていて、I saw に当たる日常語は、Ich sah よりも、Ich habe gesehen の形になるそうです。
いまの自分を起点にして語る完了的な思いが、より客観的・観察的な「単純過去」を押しのけるというのは、人の心の自然なんでしょうか。日本語にも、かつては複数の完了の助動詞、過去の助動詞があって、こんな区別がされていました。
夏は来ぬ──「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形: Summer has come.
来し方──「し」は過去の助動詞「き」の連体形:the direction we came from
でもその区別をぼくらはもはや言葉の上ではしていません。「てあり」に由来する「たり」が「た」となって、「夏は来たよ」「おれたちが来た方」と、かつてあった区別をなしくずしにして、それで何の混乱もきたさず生活しています。英語だって、本当はどっちだっていいんです。
──Look what you've done to him. ・・・247,000
──Look what you did to him. ・・・・・・140,000
どちらを使っても意味内容は変わりません。もちろん、使い分けの習慣が残っているところは、多々あります。
──When did you do it?・・・8,170,000
──When have you done it?・・・17,500
後者も英語としてまちがっていませんが、「いつ済ませたの?」というニュアンスが出ます。人生には、済ませるべきことって、ありますもんね。
そういう微妙なことは、学習者がその微妙な陰影を理解できる「母語」で教えてあげないと無理です。そもそも、ネイティブでそれを理解するって大変なんですよ。ふたつの実例をごらんください。最初のアメリカ人は、"I've read the article yesterday" という文が "Doesn't make any sense" だというウソを教えています。
http://www.youtube.com/watch?v=6IilS4SEqyA&NR=1&feature=fvwp
始まって 2分後くらいからご覧下さい。
こんな哲学的ダイアグラムを浜辺に書いて苦心しているイギリスの若者もいました。
http://www.youtube.com/watch?v=PkknB-9DDiM
こういうビデオを見ると、やはり、英語教育は、単に英語に堪能な人が英語でやってもだめ。日本語の英語教育の教科内容を刷新して、優れた日本語の思考力をもった日本人に英語教育をまかせないとだめ、という気になりませんか?
その優れた日本人は、完了形を教えるのに、「経験」だとか「継続」だとか、むずかしい漢語を使って生徒を脅すことはしないでしょう。日本語で組み上がる生徒の思いを、英語に接続することを目指して教えるでしょう。What did you done? や What have you do? という文を生徒が作ったら、その場ですぐ直してあげても、ここは「現在完了じゃなければバツ」などとけっして言わないでしょう。

