むかし、といっても、20世紀が終わるくらいまでそうだったが、入試問題に文学研究の専門家くらいにしか関心をもてないような文章が載ることがあった。「メルヴィルのテクストにあっては超越主義的傾向がなんたらかんたら……」みたいな内容。だめだよ、19世紀のテキストばっか読んで、それで現実から閉じこもっている人に言葉の教育をまかせちゃ……という議論は、政治家や官僚の支持もとりつけて、「コミュニケーション英語」を合言葉に、「文学」の看板を掲げない学科への改組が進んだのが1990年代になってからのこと。
東大駒場の場合、「大学院重点化」で新たに立ちあがった「専攻」に文学の名がつくものはひとつもなかった。(ほぼ100名の語学専任──過半数は文学研究者──がいたにもかかわらず)。
文学系の先生は多くが「言語情報」という専攻にはりついた。かねてから言語学の専門家はスタッフの中にもいて(本郷の文学部にも)、その「最前線」だった認知科学系の若手研究者を「言語情報」に迎え入れる動きも強くあった。
それから15年ほどして、入試問題はどうなったでしょう。
さきの東大前期入試問題の1番(A)にこういう問題が登場したのは、認知科学の「重点化」と無関係ではないと思われます。で、そのクオリティは?
http://nyushi.yomiuri.co.jp/11/sokuho/tokyo/zenki/eigo/mon1.html
原文はこちらです。著者のスティーブン・ピンカーは「言語を生み出す本能」「思考する言語」といった著作で一般読者も多い、ハーバード大の先鋭的言語学者/認知発達心理学の専門家。
http://www.slate.com/id/2130334/
啓蒙書を数多く書いているピンカーから英文を引いてくるというのは、文章によっては悪くないと思います。しかし今回の内容は?
Cognitive psychology has shown that the mind best understands facts when they are woven into a conceptual fabric, such as a narrative, mental map, or intuitive theory. Disconnected facts in the mind are like unlinked pages on the Web: They might as well not exist. Science has to be taught in a way that knowledge is organized, one hopes permanently, in the minds of students.
これが(二段落目の、編集前の)原文です。
専門的な響きを避けて、入試問題文では、Cognitive(認知)をカットし、a narrative を a story にしていますが、"woven into a conceptual fabric" なんていう発想は、ネイティブでも大学院生以下はまずしません、できません。「マインドの中で、相互連結していない事実は、リンクなしのウェブページのようなもの」という比喩を直感的に把握できる非専門家がどのくらいいるでしょう。
英語自体が「ふつう」から遠いというだけではありません。その主張内容は、あまり説得力もなければ、実現可能性もないに等しい学者談議になっています。少なくとも学生が「うん、うん、そういうカリキュラムが組まれたら楽しいかも」と合意できるようなものではありません。
「科学教育のあり方について、各科目をバラバラに教えたのでは効果が少ない。認知心理学の成果からいうと、相互関連が必要だ。たとえば一つの提案だが、一本のタイムラインを設定したらどうだろう。ビックバンの物理学から始めて、地球形成の地学に移り、生物学をやってから、人類の誕生を迎え、それから世界史、哲学史を教える……」
採点していらっしゃる先生方は、まさに現在、東京大学という場で教養教育を実践されているわけで、この、受け止めようもない提案について、どのように感じてらっしゃるのかお聞きしたいものです。書いてある内容に反応ができないテキストについて、学生が不十分な理解をもとにああだこうだ書いてくる、それを「よく理解し表現できている」答案と、「中の上くらいに出来ている」答案と、「あまりわかっていないようだが全然読めていないわけでもない」答案に、段階的に差別化するというのは、相当な苦行でしょうね。
ピンカーの原文と比較してみると、問題は問題文にもありそうです。原文は、当然ながら、情報が密で、学者としてしっかり考えているということは伝わってきます。一方入試問題文の方は、言わせていただけば、原文の形式的な要約にしかなっておらず、これだけ読むとアホは提案だな、としか思えません。
ある人間の生きた思考の軌跡である文章を、短くし、薄め、弱めた文章を読ませて、それをさらに日本語で短く表現する──これは何の訓練になるのでしょう。人の思いを汲まない官吏になっていく訓練ですか?
全国の優秀な高校生、予備校生の勉学への熱意を、どういう訓練に向けさせるのか。入試問題づくりというのは、大きな責任を伴う仕事です。現状の要約問題、日本の将来にとってけっして望ましくないと思います。なんとかならないか、これ。なんとかしたいぜ。

