2011年04月27日

文学と音楽の核融合

(4月28日改稿)
 文学の定義はむずかしい。literature というからには、文字(letter)を前提としているはずだが、無文字文化にも「口承文学」というのがあるわけだし、日本の詩歌、連歌と俳諧、落語や講談というものを思い浮かべても、またアイルランドの詩文から、むかしの豊かなおはなし/うた生活を想像してみても──その伝統を受け継いでいるはずのアメリカ〈原カントリー文化〉に思いを馳せても──とにかく、文学と音楽の境目がどこにあるのか、根本的に見分けるのは不可能に近い。両者が分離しているかのような様相に、本来的な根拠はないのだと思う。
 GarageBand で子供が音楽を「書けて」しまえる今日、一方ではボブ・ディランがノーベル文学賞を噂されたりする状況下で、文字と音とは、分離の時代を生き抜いて、いま、ふたたび、制度としても、くっつこうとしているようにも思える。
 
 未来の研究者から、文学と音楽とが、日本ではいつからくっついてきたのかを調査する人が出てきたときのために、資料の一端をここに書き付けておきたい。
 学会 x 学会 ジャムセッションというタイトルで「イベント」のカテゴリー(3月24日)にお知らせしておいた会のために、4月24日、名古屋の愛知淑徳大学に行ってきた。ポピュラー音楽学会からの4人が音楽ネタで発表した「米文学会中部支部大会」は、例年よりだいぶ盛況でしたと、鵜殿えりか支部長氏は喜んでおられた。
 
 僕も1時間ほど、話す機会を与えられたので、枠を取り去ることのメリットについてお話しさせていただいた。音楽と文学を一緒にすることは、単にそれだけのことではない。人文学と社会学を混ぜる契機にもなるし、エリート文化と大衆文化をごっちゃにするなかで、文化を動かす経済のしくみも思考の射程に入ってくるだろう。メディア産業の進展によって文学研究が下火になるのでは、ほとほと勿体ない。メディアを味方に引き入れ、英語教育まで責任をもち、文学部ベースの教養教育を栄えさせてしまおうではないか──
 とまでは言わなかった。そんな偉そうに言わなくても、文学研究者が現代の優れたテクストに謙虚に向かい合うだけで、文学は音楽と混ざるしかない──ということは、現代アメリカ文学の雄トマス・ピンチョンの『V.』のテクストをメモって、お見せ(+お聞かせ)するだけで伝わる。
 アメリカ文学者でメルヴィルが専門の大和田俊之による『アメリカ音楽史』という本のことを、ここで書きたいのだが、これについては、記事を改めることにしよう。

posted by ys at 16:05| イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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