2011年05月16日

禁断のゾーン、禁忌の思考

 ウィリアム・ヴォルマンといえば、神童と呼ばれた1980年代以来、もっともアィティブに世界を回って物を書いてきたアメリカ作家の一人だが、その彼が福島原発危険地帯へルポ ”Into the Forbitten Zone” を出している。

 僕もこの週末、妻の実家があるいわき市に行き、義姉の故郷である双葉郡広野町(第二原発のある楢葉町のすぐ南)まで足を伸ばしてきたが、出かける前に、この長文のルポを、Kindleショップからダウンロード($2.95)して読んだ。

 先月ヴォルマンは通訳を伴って、避難所に身を寄せる家族をインタビューし、また70歳くらいのオヤジの運転する車をハイヤーして、まだ「自主避難勧告」地帯だった30キロ圏に入り、自宅に戻りに訪れた人から話を引き出そうとする。彼が疑問の中心には、"Why twice? (なぜ二度も?)"という問いがある。

“Mrs. Hotsuki, here is a question that baffles me. As a citizen of the country that dropped atomic bombs on Japan, I wonder how this could have happened in your country twice. First you were our victims, and then, it seems, you did it again to yourselves.”

「一度アメリカに被曝させられたこの国が、どうしてまた、自ら被曝するのを許すのか?」──僕ら自身は、なぜか、自問を抑圧しているけれども、国際的には、ふつうに囁かれている問いに違いない。
 "ホツキ夫人" の次の答えは、平均的日本人の答えだろうと思われる。

“We don’t know much about the nuclear bomb,” explained the older woman. “They’re pretty far from here, Hiroshima and Nagasaki, and we just heard from our parents that some plane came over and so forth. They didn’t talk about it.”

 そう、だれも、あまり話さなかった。もちろん、日本人でも原爆や原発に執着する「運動家」の人は少なくない。しかし、彼らは世間からは「色つき」と見なされがちだ。忌むべき事を遠ざけ、時がたてば忘れる(水に流す)──そういう世間的な慣行から、彼らの「運動」が外れてしまうからだろうか。

 このことに絡んで、もう一点、日本で繰り返される次の言葉にヴォルマンが違和感を抱いていることに興味をもった。
 日本人は、radioactive (放射能がある=放射活性状態にある)ということを、押しなべて contaminated (汚染された)と表現する。ヴォルマンはそこに、かならずしも意図的とは言えない「隠蔽」と「緩和」の効果があることを感じ取る。── "contaminated” と言われると、 "raidioactive" と言われるより、たしかにずっと気が楽になるよな、と。

 でもなぜ僕らは放射能が出ている状況を「汚染された」と言い方で掌握するのだろう。そうやって「汚さ」の領域に押しやることを、僕らの精神(サイキ)が要求しているのだろうか?
 かつて「大麻汚染」とかいうことばがマスコミの紙面に踊ったことがある。70年代に、ポール・マッカートニーらの公演中止が相次いだころのこと。当時の日本人は大麻についてよく知らなかったし、今でもよく知らないようだけれども、それでも「汚染」という言葉にくるまれた忌むべき存在であることは、小学生もおばあさんもよく知っている。
 
 ひとたび「忌むべきもの」とされると、それについて突っ込んで考えたり語ったりすること自体、はばかられるようになる。戦後の日本では、満州事変あたりから原爆投下に至るまでの一切を語ることが、いわば自己規制された。暗い過去に目を向けることを「世間」が嫌った。どちらがいいと言うのではないが、ドイツの場合は対照的だった。原発に対する姿勢も、現在、ドイツと日本で対照的である。

 「過ちを排除しようとする」代わりに「穢れた物」を禁忌する──そういう、ある種「神道的」?な時間の中に留まる──ことを、僕らはいまも続けているのだろうか。そうしたいわば「お祓い感覚」が、いまだに生きた力として僕らの思いを深いところで動かしているのだろうか? こんなふうに書くと、なにか「神国日本いまだ健在」みたいな議論になって可笑しくも感じられるけれども、僕が考えようとしているのは、実際そのことなのである。
 といってイザヤ・ベンダサンの宗教論の続きやりたいわけではない。さしあたって、日本人が、なぜ、英語を習得しようとしながら、英語を習得しないのか、という問題に絡めて考えてみたい。というわけで、別のカテゴリーに、別の記事を立てることにしよう。
posted by ys at 06:03| 生活と意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。