radioactive(放射能がある、放射が活発である)という語が含む切迫感が、contaminated(汚染された)にないのは、どんな理由からか。
"radioactive" という単語は「SVO感覚」──すなわち「これが(S)、われわれに(O)、作用を及ぼす(V)」という思考の構え──を内包している。
この「構え」は、英語的思考者には常識的なものだ。
いま「構え」という言葉を使っている。ちょっと首を傾げられた読者もいるかと思う。ふつう文法は「言葉の構造」とされ、動かしがたい「つくり」の問題とされる。それはそうだが、言語習得の立場からすると、その「つくり」とは「永続化した構え」にほかならない。英語を生きるこということは、学習者の視点からすると、SVOの世界に入るということだ。世界を「行為」を軸として捉えるようになること。すなわち──
(1) S(行為者)をフォーカスし、
(2) V(その行為内容)を明記しする。そして多くの場合、
(3) O(行為を被る対象)を特定する。
これが英語の普通の構えだ。もちろん(3)は、用がなければ省略できるし、用があれば、そのあとにC(目的補語というの)をつけても構造的に問題はない。
ここでいう「構え」とは、言葉の問題というよりむしろ「心(思考)」の問題であるわけで、したがって日本語で「SVOの構え」をとることに、特に不自由があるわけでもない。「これは発癌性物質です」というとき、僕らも事実「これが(S)、われわれに(O)、害をなす(V)」という思考を実践している。ところが、今回の原発事故に対して、僕らはそれと同じ構えを取りがらないようなのだ。「汚染されている」という発想に流れる。なぜだろう? 福島第一原発から出続けている物質に対し、英語圏のマスコミでは radioactive という形容詞が踊るのに、日本ではなぜ「汚染」という言葉が蔓延するのだろう?
「放射能が活発」という代わりに「汚染された」ということで、何が取り除かれるのか? ここに二重の除去作用を見て取ることができるように思われる。
まず「汚染」(contaminated)は完了形のコンセプトである。「汚れてしまった」ということで、本当は今でもビュンビュン出ているはずのベータ線やガンマ線の現実から人々の目を逸らす効能がある。完了形は世界を静態において捉え、出来事の「進行感」を拭い去る。
第二に、「汚れたもの、穢いもの」というまとめ方をすることで、僕ら自身が、いわばそこから拭いされられる。「係わるべきではない」という距離感が助長されるのだ。
radioactive が contaminated に言い替えられることに潜在する(政府・東電側から見た)メリットは明かだろう。
まず、完了形にしてしまうことで、刻々推移する事態への国民の反応を鎮め、あきらめ感覚を助長する。
第二に、生活にしがみつく住民と、彼らにシンパシーを感じる国民一般に対し、その土地自体が(少なくとも当面)棄却されるべきものになってしまった、というメッセージを通しやすくする。
いや、誰かが謀って、そこまで事態を制御しているのだとは、正直、僕も考えていない。「メルトダウン」とか「炉心溶融」等に関して、マスコミのトップが、お互いまとまって、その使用を制御してきたことは間違いなく思われるが、「汚染」とかいう言い方の蔓延は多分にに無意識的なもの──「文化」と呼ばれるレベルでのもの──であるに違いない。
だから仕方がない、とは、僕は思わないのだ。
無意識にせよ、これが日本的なやり方だ、という構えを、あまり出さない方が利口だと思う。原発のような恐いもの,自国だけで容易に戦えないものに対して、思考の構えを孤立させるのは損だ。「汚染」という言葉で和式にまとめるのをやめ、「放射能が高い低い」という言い方に一度開いて、感覚の国際化を図る方が、長い目で見た場合に有益だろう。