退職を前に『英語青年』に「Renovation Blues(改革憂話)」という連載を書かせてもらった。その中に、東大の一年生の授業で,英語でチャットさせる苦労話を入れたことがある(2007年1月号)。
「苦労」というより実は「苦笑」に近い。高校までよく躾けられてきた彼らは「べき論」は得意なのだ。
I make every effort;I am responsible for; I should try harder
これらの言い方は上手にこなす。ところが命令文や単純な現在形・過去形を操るのは得意でない。I do this, you do that; I went there, you came too……というよりな、シンプルな英語が、なかなかスラスラ出てこない。
canや should は堂々と使うのに、それらを取り去った直説法の動詞によるハダカの物言いが苦手。そして具体的な名詞を知らず、それらが出てきたときにも、単数で発想するか複数で発想するかの感覚がほとんど鍛えられていない。
要するに、世界を「物に対するアクションの場」としてみていない。さきに〈放射能に婉曲語は必要か〉のページで書いた言い方でいえば、「SVO感覚」が育っていない。その原因は、もちろん、日本の英語教育の伝統にもある。
A sound mind lies in a sound body. (健全な精神は健全な身体に宿る)
みたいな言い方を、多くの日本人は憶えているのに、
She tickled me, so I stuck my tongue at her.(彼女が僕をくすぐったので、僕は彼女にアカンベーをした)
みたいな内容は、みなさんもなかなか、英語で言えないことだろう。単語自体を教わらないので当然なのだが、では、なぜ教わらないのか。品格がないからか。もちろん、それもあるだろう。だが、個々の動詞の意味だけでなく、他動詞的な世界そのものを、僕ら日本人──特にその支配層──は、品格がないとして退ける傾向はないだろうか。
日本語の構造(構え)に目を向けよう。「スの動詞」と「ルの動詞」の対照に注意──
「汚す」と「汚る」(現代では「汚れる」)
「隠す」と「隠る」(現代では「隠れる」)
「す」は 「する」であり、アクションを表す。
「る」は「なる」の系統で、自然の変化や状態を表す。
(*「縫う」「書く」「放つ」……動詞の終止形は各段に及ぶけれど、これらの動詞にも「る」を被せることができて、「縫われる」「書かれる」「分かたれる」とすると、主体性が拭われ、受動性や「おのずと」という自然さが高まる。)
(** 決める/決まる など 別系統の対照づけのカタチもあることは周知のとおり)
「す」と「る」の対照は、より意識的なレベルでも生きている。(使役の助動詞/受身自発尊敬可能の助動詞、との対照して伝統文法では認識されている)
「これ、だぶりません?」「そうだな、ダブらせたくないな」
「皇子がセクハラなされました」 (アクションの直接性を拭うことが敬語につながる)
語法の細部に入り込むとたいへんなことになるから、いまは不精確ながら大まかに、次の傾向に注目しておこう。
「ス」の動詞が基本的に人為的な行為を表すのに対し、「ル」は一般に「自然に」または「本来」というニュアンスを持つ。後者は人間の意志を伴わず、自然のプロセスをいう傾向が強く、伝統的に日本では、自然化(脱行為化)することが相手を敬うことに通じるような心の枠組みを発達させてきた。
もちろん自然だから神聖ということはないが、自然であれば、少なくとも「仕方がない」──しかた(スの動詞で立ち向かう方法)がない、ということである。
「津波で家が壊れ、瓦礫が散らかっている」
ほんとうに「しかた」がない。こういう負けの感覚を、心を荒ませずに「ル、レルの動詞」(壊れる、散らかる)によってまとめあげるのであって、
「津波が瓦礫を散らかした」
──とは日常的に言わない。「スの動詞」を使うと、その主語に人為的な意図がこもってしまうのだ。この言い方に走ることは、津波に敵対する構えを取ることだ。
英語ではそういうことはない。
The earthquake crashed thousands of homes.
Tsunami devastated the whole area.
That amout of radiation will make you seriously ill.
なんでも主語に立て、どんどん[SVO]で記述する。だからといって「あの地震野郎」という気持ちはこもらない。[SVO]の構えに情緒はない。
そういうニュートラルな構えを僕らは取らない。ぼくらがまず目を向けるのはアクションではなく事態や状態だ。世界のありさまを過去分詞で形容詞で情緒的に捉える。
「放射能ですっかり汚染されちまったよ」──これが僕らにとって落ち着きのよい(事を荒立てない)思いである。
「誰が汚したんだ」「東電だろ」「いや政府だっぺ」──と言い出すのは、次の段階ということになる。
日本語に主語があるか、という論争が長らくあるようだが、これも造りの問題より「構え」の問題として考えるべきであると僕は思う。
「この村は汚れちまった」の「この村」は、何ら主体性をもっていないのだからとりたてて「主語」と呼ぶ必要はない。ところが、
「東電が汚したんだ」の「東電」は、文字通り主語である。
この文においては、主語が、責任という厄介なものを携えて、立っている(立たされている)。
本当は、そんな厄介な主語は立てたくない。事態の内部に埋め込んでおきたい。そして自然の脅威(驚異)と恵みの中で、みんな同じ人間として生きていきた。
だがテクノロジーをもって、環境を意志の力に従わせようという近代人が、そのような没我の理想にこもることは許されないのだ。主語が目的語を掻き回すという騒がしい構造を、避けてばかりいられないのだ。すでに自然に対して、世界に対して、これだけアクションをなし、利益をせしめている。その責任を自覚した思考を、政治と外交の場で実践しなくてはならない。
ここに英語教育の果たしうる役割がある。
僕の立場は、往年のヒッピーのそれであって、SVOの思考は、個人的に好きではない。アクションではなく、美味しい知覚を好む。自我の突っ張ったアクションを、開発や金融の世界から減らしてもらいたいと常に願っているところがある。本当に「地球にやさしい」文明を実現しようとするなら、「受身」に価値を置く日本語的思考を、世界に紹介し、広めていくべきだとさえ思っている。
だから小学校で英語を教えろとか、ネコも杓子も英語を学べ、みたいな言説には、大反対である。
だが、ちゃんと英語を躾ける教育を、一部の人間に(たとえば全人口の1%)に施すことは必要だと考える。英語と日本語の両方をかなり自由に操れる人間がこれから世界に増えていくだろうが、その中に、たくさんの日本人がいたほうがよい(経済的にも文化的にも僕らの利益に叶う)と考える。そのためには、ある程度のスパルタ(無意識の構えの鍛錬)が必要である。
まずは英語の時間に、「誰が誰に何をした」、ともっともっと言わせることに意義はあるだろう。
Time flies. All roads lead to Rome. A sound mind lies …… の「静寂」にこもっていないで、具体的なアクションを、SVOの形にまとめる練習がもっと必要。将来の官僚をめざす輩には「SVOの千本ノック」をして、国際的な自我の感覚を鍛えてあげた方がいい。