「誰が」したのか、しているのか、ということを曖昧にしにくい言語と、日本語のように、曖昧にしやすい言語があるということである。
英語で間接話法と直接話法の区別がしっかりしていたり、一人称の語りと三人称の語りが日本語以上に明確である(ように思われる)のも、「誰が」「誰に対して」ものを言っているのかという意識が、構造的に、明確だからだろう。
Mary is worried that if she called Jack on the phone, he might not recognize her.
英語ではこれで非常にスッキリしているのだが、同じことを日本語で言うとき
メリーは、もし彼女がジャックに電話をしたとして、彼が彼女のことを認識しないのではないかということを心配している。
というふうに「は」「が」「を」を連発しないだろう。そうではなく、こんなふうに言うはずだ。
ジャックに電話をしても自分が誰なのか分かられないかもしれないのがメリーには心配だ。
つまり、メリーの思い(内的なモノローグ)に寄り添うよう表現するのが日本語では自然だということ。日本語に内在する「統語的論理」というべきものが、そこには反映されている。
さて、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』の冒頭の長い一文。
One summer afternoon Mrs. Oedipa Maas came home from a Tupperware party whose hostess had put perhaps too much kirsch in the fondue to find that she, Oedipa, had been named executor, or she supposed executrix, of the estate of one Pierce Inverarity, a California real estate mogul who had once lost two million dollars in his spare time but still had assets numerous and tangled enough to make the job of sorting it all out more than honorary.
20世紀の小説の書き出しとしては異様な長さで、そのスタイルというか、特別なクール感をピンチョンが模索しているのはたしかなのだが、ここではとにかく訳文の「自然さ」という点に限って考えることにする。
上の文をを、志村正雄氏は次のように訳された。標準的かつ正確な訳文、と感じられる人が多いだろう。
ある夏の日の午後、エディパ・マース夫人はタッパーウェア宣伝製品のためのホーム・パーティから帰ってきたが、そのパーティのホステスがいささかフォンデュ料理にキルシュ酒を入れすぎたのではなかったかと思われた。家に帰ってみると自分−−エディパ−−が、カリフォルニア州不動産業界の大立物ピアス・インヴェラリティという男の遺産管理執行人に指名されたという通知が来ていた。死んだピアスは暇なときの道楽に二百万ドルをすってしまったこともあるような男だが、それでもなお遺産はおびただしい量で、錯綜としているものだから、そのすべてを整理するとなればとても名義だけの執行人というわけにはいくまい。
全体に正確な訳文の、最後のところで、原文の型を少し外して日本語のすべりをよくしているのに注目したい。「わけにはいくまい」という推定の思いが表れているのだ。「資産が仕事を名義的なもの以上にする」というSVOを崩して、自発的な思いの表出に構造を切り替えている。そしてそれが、読みやすさに通じている。
だが同じ処理を、もっと多くの箇所でできないか。たとえば最初の部分の
whose hostess had put perhaps too much kirsch in the fondue
というところ。この「ホステス」(パーティを主催した家の奥さん)は話に登場させる必要があるのか。もし彼女が、語られるべき「人」というよりむしろ、SVO構文で考える言語の、Sの位置にはめこまれた「記号」にすぎないのだとしたら、そもそもその構文を取る必要のない日本語では、消えてもらっていいのでは?
このときのエディパ思いは「あのホステスがキルシュ酒を入れ過ぎた」でなくてはいけないのか? 「やーね、まだ口の中にアルコール分が残っている気がする」でも同じなのではないか?
「誰が何を何した」というSVO構造を廃して、エディパに跳ね返ってきた現在の状態を言葉にするというやり方にしたら、こんな訳文が生まれるかもしれない。
ある夏の午後、タッパウェア・パーティから帰宅したミセス・エディパ・マースは、フォンデュの中にたっぷり入ったキルシュ酒の酔いもまだ醒めやらぬ頭で、自分が、このエディパが、ピアス・インヴェラリティの……
たしかに賛否の分かれるところだろう。「醒めやらぬ」とは書いてない。それは事実でないかもしれない。だが、そう訳しても、物語を傷つける(何か加えたり減らしたりする)ことにならないのなら、この賭けに出ることで、日本語としての構造的首尾一貫性(エディパの気持ちから離れない)が確証されるという利点を取る方が得ではないかと僕は思う。
原文を「脱SVO化」することによって日本語の流れを作っていくことも、それぞれの言葉を正しく置き換えるのと同じくらい重要な訳者の仕事である、と。
もう一点、リテラルな訳文から意図的に外れたところを示しておきたい。
原文で、one Pierce Inverarity という言い方がされている。
英語では、相手の知らない人物について語るとき、その名前はご存じないでしょうがという含みをもたせるために one や a をつける習慣がある。固有名詞に「あるひとつの」という感触をもつ不定冠詞をそえて「いきなり感」を殺ぐわけだ。
原文では、「語り手→読者」という語りの構造が堅固にできているので、この one に不都合は生じない。
ところが日本語はもっと情念的な構造をしている。日本語の読者は主人公との距離を無化できる位置にいるのだ。だから語り手と主人公との隔絶を前提とする one Pierce Inverarity のような言い方を訳すときには注意が必要である。
(Oedipa found that she) had been named executor . . . of the estate of one Pierce Inverarity,
を
エディパは自分がピアス・インヴェラリティという男の資産の遺産執行人に指名されたと知った。
と訳したらまずい。「元恋人」である人について「〜という男」という言い方はされない。
さらにもう一点、
had assets numerous and tangled enough to make the job of sorting it all out more than honorary
というところを「それでもなお遺産はおびただしい量で、錯綜としているものだから」
と断定してしまっていいものだろうか。
原文では、語り手が読者に対して示している事実なのだから、この断定は論理的である。
ところが、日本語では次の「そのすべてを整理する」の主体がエディパである以上、遺産が「おびただしい量」だということも「錯綜としている」ということも、彼女の視点から、推断として示されるべである−−
ある夏の午後、タッパウェア・パーティから帰宅したミセス・エディパ・マースは、フォンデュの中にたっぷり入ったキルシュ酒の酔いもまだ醒めやらぬ頭で、自分が、このエディパが、ピアス・インヴェラリティの資産の遺言執行人[エグゼキュター]──女なら「エグゼキュトリクス」か、と彼女は思う──に指名されていたことを知った。インヴェラリティといえばカリフォルニア不動産業界の超大物。お楽しみの時間に二〇〇万ドル失ったこともあったけれど、それでも彼の遺産となれば、数量的にも複雑さにおいても圧倒的であるに違いなく、そのすべてを整理分配するとなれば、お飾りの執行人というわけにいかないのは明らかだ。
まとめ
英語教育において「SVOの千本ノック」が必要になとすれば、逆に英語小説の翻訳においては、脱SVOの処理がポイントの一つとなる。それと絡んで、間接話法/直接話法、三人称/一人称の差異構造を,日本語でいかに(部分的に)崩していくかが、物語を日本語フォーマットに移し替えるさいには重要だ。英文の構造を保ったままでは、三人称の語り手と主人公との視点とが、変に干渉しあってしまうことがある。それを避けるためには、できるだけ主人公のアクチュアルな思いにしたがってナラティブを組んでいくのが安全策。『競売ナンバー』のような複雑な小説も、それによって、訳文の吸引力を高めることができると思われる。
なおこれはあくまで安全策だ。原文の長くてポップな実験文体を創造的に移し替えるには、また別のチャレンジが必要とされるだろう。