その仕組みでも、世の中は回っていく。英語に関してはおずおずしながらも、先生として敬われ、学生に対しそれなりの権威を保ち、よい人間として善をなす−−そんな大学の日常も一方で営まれていることを僕はよく知っている。そんななかで、頑張った学生が、院にいって論文を書き、システムを再生産している過程にも長年接してきた。
だけども違うのである。退職し、キャリアを終えた今でも釈然としない。そのシステムは「フォークナーの専門家」と、システム内で呼ばれる人間は作れても、またピンチョンで博論を書かせ学位を与えることはできても、「テクストを英語で感じる力」はなかなかもって身につけさせることができない。何十年も高度な英語に関わっていながら、ちゃんとバイリンガルとしてやっていける人の数がいかに少ないか−−そういう人間を日本の専門教育システム内部から生み出せない、そしてそれが常識化していることは−−驚くべきである。
この問題を社会のシステム論として考えてみる。
和をもって尊しとなし、出る釘を打ち、郷に入ってきたキコクシジョを郷に従わせる――それと基本的に同じ力が働いて、「専門家」の集団であるはずの社会でも、能力の低いところに標準ラインを設けるような力が働きがちなのだ。標準を事務的な単純過程の処理に設定し、「それ以上の能力がある人は特別なんで、そういう特別な人は、外で能力を発揮してください」という了解が成り立ってきたのが、大学社会。
学生はそれで不自由しなかった。大学は名前が肝腎であって、すでにその名にあやかっている者たちは、ニッポンの無教育をエンジョイしていれば,基本的にはよかった。教員と同じで、それに飽き足らない一部の学生は「大学の外」で勉強をしたわけだ。
たぶん大学だけではないのだろう。原子力委員会でも、東電の内部でも、政府自体にも、似たような「能力の下揃え」の構図がはたらいているに違いない。これだけの危機になって、能力あるリーダーの下でまとまれない、というのは、構造的にそれが避けられているとしか考えようがない。
いやあまり話しを広げるつもりはない。僕が追究したく思っているのは、最終的に、「日本では、なぜ英語習得にあれほどの努力がなされているにも関わらず、学習の定着がみられないのか」という問題である。これは、まだ誰も答えに近づいてもいないように思える、近現代日本の重要な課題だと考えている。
一気に論じようとしてもだめだ。問題の射程はきわめて大きい。
たとえば、受験英語という「国風英語」がいかに形成され、維持されてきたが、それは我々の心の奥のいかなる必要に根ざすものか−−この問題を部分的に論じるだけでも、一冊の書物を書く気構えが必要かもしれない。
このブログで、ときどき、徐々に、具体的に、問題点のあぶりだしを図っていくことにしたい。きょうはこれまで。