先月の日経新聞に「どの国にも身につかない教育がある」という話が載って、ちょっと話題になった。
ギリシャ人に「金銭教育」が無駄だということを揶揄する金融界のジョークらしいのだが、無駄の例として一緒に挙げられていたのが
米国人への反戦教育、
イタリア人への純愛教育、
そして
日本人への英語教育。
こうして並べてられて、サトチョンは考えた。
ひょっとしてこの3つの背後には、行われようとしている「学習」から自分たちを守る共通の防衛(自己保存)機構のはたらきがあるのかもしれない、と。
つまり、国民的な耽溺というものが存在する。プライドを伴った、自己愛(&愛国)への耽溺の結果が、純愛を、反戦平和を、英語を学ばない国民をつくる。(この考えは、G・ベイトソンの「性格形成的学習論」を下敷きにしています。)
イタリアはヨーロッパに五感に基づく人間性の再生(ルネサンス)をもたらした文明国。それが英独の無粋にピューリタンな−−論理によって感覚を抑え込むような−−文明の支配に甘んじるようになった。美味しい物を食べ、美味しい男女を愛でたり撫でたりすることが、彼らの、絶対にゆずれない、いわば自己存立のバックボーンになっていて不思議はない。
野獣と〃蛮人〃のWildernessだった西部の開拓の歴史からまだ三,四世代しか経ていないアメリカ人、特にその内陸に住む人たちは、銃をそう易々と手放せない。銃が家族の中心にあり、銃が家族を守る父親と切り離せなかった時代のことは、僕らにも、『子鹿物語』のような映画を見ると、ヴィヴィットに理解できる。銃を持つ権利を奪われることは、彼らの自我のありようを崩されることなのだ。何ごとか起こるたびに常に gun control が叫ばれ続けるアメリカだが、彼らがガンの所持を実効的に抑止したことは一度もない。
翻ってニッポン。ことあるたびに、コミュニケーション・イングリッシュの必要性が叫ばれる。だが実効的な教育が根付いたためしはない。必要だという掛け声は、できの悪い英語教師の雇用を拡げる役に立つだけ。意識の高い施政者と能力の高い教師とが、悪貨を駆逐する形で、学習者の身につく英語プログラムを起ち上げたことは、国家レベルでは一度もない。なぜだろう。僕らが「心から」はそれを望んでいないからじゃないか。日本語でのつきあいに、日本語を通しての笑いと泣きと思考とに、自己を埋もれさせている僕らにとって、英語を「知識」または「かっこつけ」以上のものとして吸収する欲望は、もとよりない。そのことは認める必要がある。
日本語の包容力。その母親的・靖国的やさしさについては、僕も知っている。1年間、完全に英語漬けの暮らしから、日本へ帰ってきたのは18歳のときで、まだラジオ深夜放送は、愛川欽也や糸居五郎の時代だった。番組を聴いて大笑いしているうちに涙が出てきた。
イタリアで純愛教育が根付かないのは、熱愛に耽ってもバランスが崩れないような形で、社会の均衡がとれているからだし、日本で英語教育が根付かないのも、一億超の人間が、(翻訳不能とされる)日本語を通してのつながりに、心の安定をゆだめているからだろう。だからこそ、英語を学ぶとき、それを「知識」のレベルに追い返す動きが、英語教育現場で、常に活性化されるのだろう。
無邪気な母親は、「英語を使いこなす日本人」のイメージを我が子に託す。自分では受け付けていないのに、子供なら吸収してくれると思う。その不合理な夢想を、一部の企業家や政治屋が、煽っている。
僕らは、自分でも意識しないところで、英語を受け入れない構えを敷いているのだ。
それを知らずに、英語教育の重要性を訴えたところで、ハンフリー・ボガートの映画の中で禁煙運動をするみたいな話にしかならない。
とはいえ、アメリカでも、ボガートの映画から一世代後には、けっこうマジな嫌煙運動が展開されていた。歴史も、人の心も、可動的であるのは事実。
さあて、どうする、教え直すのか、日本の英語。