
Miguel Syjuco, Ilustrado (中野学而・訳)
本とは粘質的につきあってしまう僕には、簡単に読みこなせない本だった。ピンチョンの『V.』とは違うけれど、読書経験の豊富な新人が数多の意匠をちりばめた処女長篇である。しかも、フィリピンという隣国を意識化するのが、他の日本人の多くと同様に、僕は苦手だ。コロンビア大学で教育を受けた若者が、フィリピンの重い過去と現在を、文学的術策によって、ドンと受け止めようとする作品をすらりと紹介できるほど、文学のプロでも、国際派の読者でもないことがバレてしまうのがイヤで躊躇してしてしまったか。
半年前に送っていただき、これはスゴイと思ったのに、ブログに感想を乗せるが、年明けになってしまったけれど、原作者シフーコも、翻訳者中野学而も、とてもていねいに仕事をしている。昨年出会った最良の仕事の一つであることは間違いない。
That you may not remember Salvador's name attests to the degree of his abysmal nadir. Yet, during his two-decade-long zenith, his work came to exemplify a national literature even as it unceasingly tried to shedder off the yoke of representation.
“生粋の英米人”の若手作家も、なかなかここまで流暢な文章語は使うまい。そのときとして、かなり曲者である英語をすんなりと日本語化した翻訳者も、その晴れ晴れとした力量を示している:
読者はおそらく彼の名前を覚えてはいないだろう。彼が落ちていった忘却の谷の深さも分かろうというものだ。だがその執筆活動の絶頂期にあたる二十年あまりの間、彼の作品は、現実世界との関連を断ち切ろうともがくその作風にもかかわらず、まさに「国民文学」と呼ばれるにふさわしいものだった。
サルヴァドールは、「その “ロココ”調とでも表すべきリリシズムとデカダンスにもかかわらず、フィリピン国家の心理・社会的残虐性、つまり祖国の物理的暴力や傲慢さを、痛ましいまでのリアリティをもってえぐり出す」大作家である。その「大作家」になりきって、彼の多様な小説や伝記の一節を、自作の小説の中にちりばめようというのだから、何と大胆豪放なデビュー作であることだろう。
それだけではない。物語は、ハリウッド映画のように幕を開ける。サルヴァドールの惨殺死体がハドソン河にあがるのだ。なにか世界に知られてはまずい国家の恥部を書き立てようとして、やられたのか。その謎を追って、(大江健三郎世代の)サルヴァドールを師と仰ぐ、平野啓一郎/川上未映子世代の(作者と同名の)在北米作家が、フィリピンへ旅立ち、国の現実を浴びる。
ミゲル・シフーコ(Miguel Syjuco):1976年生まれ。父はアロヨ大統領派の政治家。セブ島のアメリカン・ハイスクルールを卒業し、マニラの大学の英文科を出て、コロンビア大学の大学院で修士号、去年ようやくアデレード大学で博士号獲得。今のところ出版歴はこの一冊のみ。この作品は原稿段階で〈マン・アジアン文学賞〉を獲得。他にもいくつか名のある賞にノミネートされた。
その文体は硬軟自在だが、同じことは「内容」についてもいえる。今なお現実としてフィリピン社会を覆う国難の歴史全体に目を向けようとする一方で、一人の女性に向けられるヤワで繊細な言葉によっても読者を引っぱる。
そうした繊細な部分も翻訳が安心して読めることは、この訳本の大きな利点だ。別れたマデリンとの会話の記憶は、ときどき初老の読者の胸を抉る。
パーティへ、初期のヒップホップを響かせた黒のレクサスで乗り付けるフィリピンの女学生セイディのしゃべりが、またいい。
「ねえ、ミゲル」と彼女は言う、「あなたさ、家族もいないって言うし、なんだか途方に暮れちゃってるように見えるな。良かったら家にご飯食べに来れば? ねえ、来なよ。うちのコックのチキン・アドボ、最高なんだから。人生変わっちゃうよ」(256ページ)
セクシーなセイディが遠ざかったあと、ミゲルは大きく溜息をついて、ジョンの声を真似てみながら、静かに歌った。
ウー、ウォッハヴューダーン?
ロックを歌いこなす訳者ならではの正確さというべきか。ここが「ホワット・ハブ・ユー・ダン?」だったら、何と興ざめだったことだろう。
過去数世紀、欧米の武威の時代に、日本とフィリピンはあまりに対照的な歴史を歩んだ。アルマジロのように、皮膚を硬くして、キリシタンの勢力も、浦賀沖の軍艦にも、戦後のアメリカナイゼーションにも耐えてきた日本と、ことごとく餌食とされた上に、日本軍による爪痕まで残したフィリピン。日本語教育が根付いた大衆翻訳大国の日本と、いつまでも森鴎外や新島襄のような、外国語を使いこなせる人間が知識階級(光を得た者=ilustrado )をなして国を導く構造の国との違いを、僕は肌で知るわけではないけれども、なんとなく想像はつく。日本だとカズオ・イシグロは、このように表記された英国人作家だし、水村早苗はこのように表記された日本人作家であって、その境界を踏み越えた、多和田葉子のような存在もいないわけではないが、日本文学の日本語への閉じこもりは、二十一世紀も顕著な傾向であることは変わらない。
そういう意味で、この本は、原作も世界文学の野心作なら、訳文も優れた本であるにもかかわらず、マーケッティングが難しい小説ではあった。白水社で、「エクス・リブリス」という野心的(illuminating)な海外文学叢書をやっておられる藤波さんは、確かにいい本を選定したし、訳者もとてもいい仕事をした。なのに、話題性では、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』に負けたようだ。
けれども将来のノーベル賞を想像しやすいのがどちらだと言われれば、ジュノ・ディアスではなく、シフーコの方だと、多くの人が感じるだろう。(だからこそディアスの方が面白い、という言い方も成り立つけれど)。
意味の通じにくい日本語タイトルと、やはり意味の通じにくい表紙の絵は残念だったかも。21行詰め込んだ紙面も、辛かった。分かったような顔をしてすいませんが、定価を3000円に抑えるための工夫であれば、もう半ポイント字を小さくして、白い部分を増やして高級感を狙ったらどうだっただろう。二段組みでもいいから、「気さくな小説」ではなく「本格文学」として売り込む。「とっつきやすく」見せて、どうするんですか。「反大衆層」をターゲットにしてこそヒットする作品でしょ?
ともあれ、アジアの英語圏作家の若手トップ・ランナーの一人にシフーコが躍り出たことは間違いない。欧米が発信し日本が受信するという「外国文学」の構図が時代遅れになりつつあるなかで、今後この作家、このような作家を日本がどう読んでいくのか、注目される。