彼女は細い路地を抜け、裏の階段をのぼってやってきた。昔と同じように。ドックは一年以上彼女の姿を見ていない。というか誰も彼女を見ていない。あの頃の彼女はサンダル履きで、花柄ビキニのボトムに色あせたカントリー・ジョー&ザ・フィッシュのTシャツをひっかけていた。それが今夜はフラットランドの堅物ルック、髪もバッサリ短く切って、あんなふうには絶対ならない、といっていた格好そのまんまだ。
「シャスタか、シャスタかよ?」
「幻覚だとでも思ってるわ、この人」
「その新しい格好、幻覚かと思ったよ」
カーテンをつけてもほとんど意味がないキッチンの窓から、街灯の明かりが差し込んでいる。寄せては返す波の鈍い音が坂の下から聞こえてくる。夜は風向きさえ良ければ、街のどこにいても波音が聞こえた。
「助けがいるのよ、ドック」
きわめて限られた語数の会話が、思いを積み込んで進んでいきます。会話のところ、原文は──
"That you, Shasta?"
"Thinks he's hallucinating."
"Just the new package I guess."
愛した女。今も愛する、去っていった女。最後に見たときは、野性のままの髪を垂らしたヒッピー女だった。それが、いきなり帰ってきたと思ったら、フツーの市民の格好をしている。時はシックスティーズとセブンティーズの狭間。目の前に立つ彼女の視覚像がドックには信じられない。「幻覚見てるわ」と言われて、幻覚なのはどっちだろうと思う。この「一般市民女性」のパッケージ一式、こっちが幻覚なのでは。何年も(とは明記されていないが)心にしまい込んでいたシャスタの方がリアルであって当然だ。男は女を姿において愛する。
いやあ、いきなりテンション高いです。ロマンチック・ピンチョン。ハードボイルド・ピンチョン。いろいろあります、『LAヴァイス』。