
諏訪部浩一はあとがきで、
「外国文学研究者として極めて「普通」な手続きを重ねていく過程をそのまま見せる事は、私が何を学んできたかを(あるいは不勉強を)露呈させてしまうはず」
とし、
「研究者が「普通」のことをやればこの程度のことは可能なのだという点で、本書が一定の水準を示せていればと願わずにはいられない」
と謙虚に自負する。
このクォリティは普通でしょ、と言えるところがいい。
21世紀の東大英文科准教授、何でアピールしてくれるのかと思ったら、『マルタの鷹』の精読だった。語注つき、豊富な文献へのレファレンスつき。一章ずつ、飽きさせずに読ませていくフォーマット。大学には──特に外国文学の界隈には──あなたは何のプロですかと訊きたくなる人が多く住んでいるが、ここに読みのプロを自覚している人がいた。
諏訪部より上の世代に、普通でないことを言って注目を集めようとする風潮があった。「AはBである」という大胆なメタフォアを振りかざし、A=Bと信じるところから生じるロマンチックな誤読の中へ読者を引きこもうとするタイプの評論。この本は、それらとははっきりトーンを異にする。
第10章について諏訪部が語り出すのは、探偵サム・スペードが、みずから惹かれている女、ブリジットの部屋を捜査するシーンをいかに描いているかということだ。
長い引用となってしまったが、虚飾を省いた(副詞が一つもない)平易な英文であり、単調な文章とさえいい得るだろう。
だがこの引用文のポイントは、まさにその「平易」で「単調」なところにある。つまり、スペードという「探偵」の仕事とは、一つ一つをとってみれば「平易」で「単調」しかない作業の積み重ねであることが、そうした文体によって表象されているわけだ。
最初に評者が注目した「普通」という言葉が、ここでは「平易」と言い換えられ、ある意味とても複雑な人物であるサムの、基盤をなす倫理性として提示されている。
『マルタの鷹』という、文学の授業としてはきわめて個性の強い作品を扱いながら、本書が、最大多数の学生への通じやすさということにこだわり、その意味すこぶる教育的な出来映えになっているのは、サムのプロフェショナリズムへの愛着と信頼が基にあるからなのだろう。
普通に平易なもの──ストレートなもの──は、ヒップではない。普通以上を志向する優秀な若者の反発を招かずに「普通」を貫き「この程度のことは〈普通〉の守備範囲だよ」と言ってのける。これはあっぱれであると思う。
もっとも彼は「普通」を超えて「いささか大きな読み」もやっている。
いろいろあるが、一つだけ。シャーロック・ホームズに代表される古典的探偵小説に倦怠のムードが支配的であることに触れて、彼は言う:
探偵の「倦怠」は、警察が代表するようなモダンな合理性からの「逸脱」の証であり、「超越」のそれではない。だから探偵が警察を嘲笑するとき、その「笑い」はむしろ自嘲と考えるべきなのだ。[だが探偵の名推理が、単に胸を躍らせる娯楽としてだらしなく消費してしまうと]探偵小説は文学性を失い、通俗的なデカダンス通俗的なデカダンスに相応しい低度の、微温的なシニシズム/ポストモダニズムに覆われてしまう。
(中略)
「理性の時代」からの「ズレ」としてポーの探偵小説が生まれたのだとすれば、その「ズレ」自体が紋切り型となってしまった時代に、そこからの「ズレ」としてハメットの探偵が生まれたのではないか、ということだ。(109ページ)
さらに次のページで「ハードボイルド探偵小説は伝統的探偵小説の文学的嫡子」という言い方もしている。
明快だ。では、ハメットを愛し、チャンドラーを愛し、ハードボイルドとは一見逆向きの、「ラリラリ探偵」ドック・スポルテッロを造形したピンチョンは、ハメットの探偵からの、いかなるズラシをやってのけたのか。
サトチョン自身にはまだよく考えがまとまっていない。だがこの本を読みながら、ピッピーとしてのヤワなところと、探偵としての有能さ、パラノイアックであろうともアメリカの暗部の機構をまるごと意識しているらしいこの探偵と、ハードボイルド・ヒーローとの連続/不連続を考えてみたくなった。
諏訪部浩一は『Inherent Vice』をどう読むか。急がせたりはしないので、いつかゆっくり訊かせてほしい。