『English Journal』の連載「英語ができない病」(エイゴガデキナイビョー)の8月号と9月号の原稿を入れました。
ビョーキの症状として、こんな分裂した心のありようが観察されます。
そと
ウットリ ↑ モノオジ
憧れ(同化願望) | 怖れと照れ(自己検閲)
おもて ←────────────────────→ うら
ナニクソ | テヤンデエ
自負(征服願望) ↓ 仲間外れ(異能の排除)
うち
外(社会、ガイコク)向きの場合も、内向きの場合の、英語に対して積極的な〈おもて〉面の背後に、英語から引いたり英語を遠ざけたりする否定的な感情があるということを、上の図は示しています。
まあ、どなたにもおなじみの話かもしれません。平成の時代でも、ふつうの心象風景ですね。
@ バイリンガルDJの声が流れるオシャレな空間でウットリしながら、
A ガイジンに道を教えるだけでモノオジし、
B ナニクソとTOEIC 900点突破にいきり立つくせに、
C キコク子女の口から流暢な発音が漏れたりするとテヤンデエという気持になる──
この分裂が、日本人の近代体験と現代のイメージ資本主義の原理との噛み合いの悪さに由来するものだということを,僕なりに説明してみました。
そして近代エリートたちが「ナニクソ」の意識で作り上げた、学校文法や学習参考書が、現代では根本的に弊害を呼ぶものになっている、
にも関わらず、それ以外に、きちんと英語をしつけるための理解がこの国に欠けているために、「聞き流すだけで」というオカルト商法や、「英語で遊ぼう」という幼稚園化の流れによって、学習環境がどんどん劣化してしまう。
そろそろ対策を考えないといけません。
いままでの英文法、これは「優れている」と思われていた「西欧の論理」にナニクソとしがみついている日本人がつくった産物で、自信をもって日本語の思考を続けている日本人には、時代遅れの弊害が大きくなっている。
ヨーロッパとアジアの力関係が拮抗または逆転した現在、単語とセンテンスを単位とする厳密な文法ではなく、日本語の構造のゆるさを自覚しながら、英語もあまりセンテンスにとらわれず、「句の連続」としてとらえ、それが連なるパターンをみていく「ゆるい生成文法」で説明していくことが、中学でより健康な学習が進展するための道である──
と、まあ、かような提言を、サトチョンとしては行っていきたいわけでありますが、
しかし……文法を書き直す……? わたくしが? うん、できそうかも。
なお、現在出ている6月号に掲載されている拙稿のタイトルは「スッポンからスッポンポンへ」
スッポンのように英語に吸着して日本語へかみ砕いていくやりかたをやめて、
もっとスッポンポンなこころで英語とお出会いしませんか、という提言です。はい、相変わらずオバカです。