しつこいようですが、毎日新聞の「誤訳」の背景を考えてみます。Dyab Abou Jahjah 氏の原文
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so.
を、
私はシャルリーでなくアハメド。殺された警官です。シャルリーエブド紙が私の神や文化をばかにしたために私は殺された。
と縮めて、メッセージとして違うものにしてしまった。これは、見えにくいけれども、ジャーナリズムにおいてあってはならないことが起こってしまった「事件」だと思いますよ。
長年英語の答案を見てきた経験から、「 and の解釈が難しかったのかな」とも思いました。
「and は順接だ」と考えて、「ばかにした、だから私は死んだ……」というつながりにしてしまうと、defending his right to do so のつながりが分かりにくくなってしまう。
「だから」ではなく「なのに」と訳せばよかったのです。
たとえば−−「私はあなたのためにやっているの、なのにあなたの言うことを聞いているとまるで……」という文は、英語では
I am trying to help you, and you tell me as if ……
という発想になる。この and を強めたいときは、and yet とか and still となることは比較的よく知られていますね。
You can’t have your cake and eat it too.
という文は、昔は学校の英文法──文法項目じゃないんですが──の時間にふつう教わったものです。矛盾する二つの項目を and でつないでいるわけですね。and は論理的な言葉で、AとBが同時に成り立つ状況を示す。この文は、「cake を保持すること」と「食べちゃうこと」は、同時に成り立ちようがない、と言っているわけです。
★逆に or は A かBか、どちらか一方だ、ということを示す論理的な言葉です。 Eat your cake, or I will eat it. というふうに。
それにしても、andの後、defending his right …… の部分を訳し落としてしまっては残念でした。ここはヴォルテールの──実は彼の伝記作家が彼が言ったと誤記した──「名言」を踏まえた、実に巧みな表現になっているのですから。
I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.
あなたの言うことには反対だが、あなたがそれを言う権利は、死んでも護る。
なんか昔の英語の先生みたいな言い方になってますかね。たしかに、このごろの英語教育の劣化を見るにつけ、サトチョンも白髪がふえてしまう思いをするんですよ。
「グローバルなコミュニケーション力」とかいって、何をやろうとしているんでしょう。大衆のペラペラ願望の尻馬に乗って、政治を動かし、教育を破壊しているだけじゃないですか。
外国語の講読や、外国の文化や歴史の授業に力点が置かれていた時代、日本の新聞記者は、欧米の世界に動きを、もっと細やかに表現する努力をしていたと断言して良いでしょう。Toeic の点数ばかり強調され「大意を聞き取って解ればいい」ということになって、なにか異文化に生きる人々に対する構えが、非常に自己中心的な、大雑把なものになってませんか。なってるでしょう。
「表現」には、もちろん「正確さ」が求められる。グローバルな時代では、外国語の読みに正確さが求められる。当たりまえです。しかるに、このごろのジャーナリズムには、問題を起こさず、波風を立てず、無難に進める智慧の方が優先されているように見える。テレビも、新聞さえも。
いえ、誤解しないでください。西洋式の「表現の自由」は絶対に規制してはならない、なんてことをサトチョンは考えておりません。
キリスト教文化にもイスラム教文化にも、コトバを神として信仰する習慣がありますが、日本にそれはなく、むしろ「沈黙は金」とされる。言いたい放題、書きたい放題は、コミュニケーションの生態系を破壊します。西欧は、200年以上前の革命の時代からの脱皮を求められていると思う。
でも情報を正しく摂取し、思考することを閉ざしてたらいけません。異文化間の軋轢が、世界情勢を危うくしてしまうかもしれないこれからの時期に、それはだめ。いまヨーロッパで何が起こっているか、きちんと知って、日本的コミュニケーションに慣れた人間として、世界に発言していくことが大事なのではないか。
大事なのは「表現の自由」より、心配りも備えた「表現の技術」だと思うんです。それが足りずに、新聞まで「表現しない文化」に陥ってしまったら、もうそれ自体がカリカチュアではありませんか。