(前項『世界文学リミックス』より、カテゴリーを変えて、続けます)
世界文学全集をつくらないかともちかけられたときの、池澤さんの反応(としてご本人が書かれている内容)は、至極真っ当である。
「だいたいぼくは大学の先生でもないし、各国の文学に精通しているわけでもない。本を読むのが好きで、それが高じて作家になった。今だってよく読んでいるし、書評の仕事も多い。だけどそれだけのことだ。何の権威もない。」 今の世の中ですーっと通るきれいな弁だが、これの逆というか「裏返し」を作文してみると、そっちは、笑っちゃうしかないということがわかる。
「だいたいぼくは、文学に精通しているわけでもないのに小説を書いて作家と呼ばれたり、ただいろんな本をよく読んで書評の仕事を多くしているような人とは違う。ぼくは、一国の文学に精通した、権威ある大学の先生である。」
しかし笑えないのだ。多重の意味で笑えない:
a)一国の文学に精通した大学の先生はいまでもいるにはいるが、その人にはすでに権威というほどのものはない。(というか権威とは別のところで、忙しく仕事をしている)
b)(下に述べるとおり今では事情が激変しているが、少し前までは)大学に "文学の" 先生は非常に多くいて、そのほとんどは一国の文学にも精通しておらず、多くは一人の作家の威光にすがって、「XXXX
(←昭和時代の世界文学全集作家の名を適当に挿入)協会」などの会員となり、「XXXXにおけるXXXについてのXX的研究」みたいな論文を何本か書いたか、あるいはそれすらあきらめてしまっていた。
c)上の事実は、「世界文学全集」の企画が成立しなくなってしばらくして、まあ昭和50年代には、事情を知る人たちの間で問題視されているのだが、抜本的な対応がなされていない。
d) 表面的な対応はなされた。文学という名前を学部や学科から外すことによって、「文学」以上に虚偽性の強い威光(言語情報、国際教養エトセトラ)のもとに、 "文学の" 先生をかくまう動きはずいぶん進んだ。
e) (外国文学の先生の密集生息地だった)教養部の解体は、文学がどうの、ということではなく、外国語履修の現実によってもたらされた。かつては、
「だいたいぼくは、英文法に精通しているわけでもないのにちょっと英語がしゃべれるからといって教壇に立とうとする無教養者とは違う。ぼくは、そんじょそこらの英語ではなく、XXXX(←ふたたび世界文学全集の作家名)の英語をプロとして味わえる、権威ある人間である。」という言説が無言のまま、まかり通っていて、それを世間が共謀して支えていた(「彼の細君はXX女子大の英文科だってね」「へえ、道理でチガウと思った」とか)。それがなくなったのは、ガイコクそのものの権威が失せたからだろうが、では、それに応じて、どういう新しい大義が生まれたか。列強の脅威から国を守り強くするという国是に基づいて明治期に始まった外国語外国文学教育は、いつどの時点でどのように清算され、いかなる新たな目標のもとに再編されたのか。
いま大学では、教員にシラバスを書かせ、どんな授業が行われているのかおよそのところを透明化する努力をしているけれども、それを担っている先生たちのなかに、自分のことをこう語れる人がどのくらいいるだろう−−
「だいたいぼくは英語を読んだり書いたりするのが好きで、それが昂じて英語を読み書きするのを仕事にする人間になった。今だってよく読んでいるし、英語の仕事も多い。だけどそれだけのことだ。世界のふつうの人たちとふつうに交わっているだけ。何の権威もない」
日本全体を見渡せば、これを言える人たちは、かなりいる。少なくとも大学教育をまかなう程度にはいる。しかし、人事にひっかかってくることは稀である。そのすきをついて、「英語教育の専門家」という人たちが入ってくる。この人たちの中にも、英語の読み書きが優れていたり、一般的思考力に優れていたりする人もいる。だが一方で、「英語習得のサイエンス」を権威とし、極度に細分化されたことだけをのんびり考えて暮らしている人も少なくない−−たとえば、デマカセに言ってみると、「ESLにおける適切な語彙数とは何か−−xxxx
(←権威ある外国人学者の名を挿入)の統計的研究をもとに」というような論文を何本か書いて。(ESL = English as Second Language)
そろそろ話をまとめよう。
「権威」の何がいけないかというと、それが、リスポンドしなくてもいいところに生じる価値だからいけないのだ。かつてこの国では、権威というものに「切腹」のような厳しい掟が付随していたけれども、現代の「やさしさ」の時代、そのような歯止めを失った「権威」は、人を堕落させる要因でしかない。
相互作用 → 満足の生成 → 注目 → より大規模でシヴィアな相互作用 →という上昇の螺旋をのぼっていかないから、能力が鍛えられない。クォリティが劣化し、人間が劣化する。単純な理屈である。
もちろん過当な競走は苦しいし、無益な不幸をたくさん生む。それはできれば避けたい、「ブランド」を育て、その「名」のもとに安定した繁栄を得たい。これは人の真情だろう。だがその「名」の威光というものが、責任の払拭につながってしまってはだめなのだ。
エリート ー responsibility = 権威この構図に陥ってしまってはダメなのだということが、いまの世界で、すごくはっきり見えつつある。
現代も進行中の情報革命という long revolution は、つらいものではある。かつては、ある権威を目指せば、競争社会における相互作用や自己鍛錬の責任から保護され得た。もはやそれではやっていけない。
ハイヴィジョン・テレビが見せる小沢一郎の表情に、充分な数の人間が、権力構造の不健康さを見ている。
権威の不健康さに人々が敏感になっている時代に、「健康な文学」の味わいを取り戻すべく、『夕刊フジ』でもどこでも走り回った。そこに池澤夏樹個人全集の成功があったのではないだろうか。キーワードは、社会との繋がり、すなわち現実対応能力としての〈責任〉であると思う。
東電、保安院、政府といったエリートたちに、僕らが苛つくのは、「権威」によって弱体化されてきた、低レベルの現実対応能力を日々見せつけられるからだろう。
大学の問題は、一般社会に今もよく見えていないところがある。それを、ある程度具体的に見えるようにすることは、僕のような離職者の責任でもあるわけだ。回を改めて、問題に踏み込んでいきたい。