2015年09月18日

自衛隊員だけの問題じゃない、国民の精神に迫る危険。

「これが衆議院議場なのか」

健一は、テレビで見た衆議院議場を目のあたりにして圧倒されました。

「ここで、たくさんの法律が決められます。」

案内の人が説明してくれました。

(ここで国の法律を決める。ぼくらは校庭遊びのきまりも守れないのに……)


以上は文部科学省刊『私たちの道徳 小学校五・六年』のなかの一章、「きまりは何のために」と題する一課の読み物の冒頭です。

良い生徒(名前は健一)が比較しているのは、国会と小学校の「代表委員会」。そこで決まった校庭使用のルールは、悪い生徒──なぜか名前が明(アキラ)と鉄男とういのですが──の我が儘によって踏みにじられた。国会議事堂で生徒たちは、不思議な感動にうたれます。


(国会議員の人たちは、大事なことを、衆議院、参議院の二か所で順番によく話し合って決めている。議員の人たちは、様々なことを調べ、考えて、国のきまりを作っているんだ)


 国会見学の後、明も鉄男も反省をします。二人は新しいゲームの発売日に、早く遊んで帰ろうと、下級生の使用時間に割り込んでサッカーをしたのでした。


「きまりを軽く考えて、自分だけはいいかなんて……勝手だった」


●国会議事堂という神聖な場の雰囲気に圧倒されて、心を入れ替える子供達。(そこで行われている議論について学んで、ではありません。理性的な教育によってではない)この一課は何を教えようとしているのでしょう。現実の観察よりも、思考を停止させ、権力に畏れをいだいて従うことでしょうか。

●この教材で授業をさせられる先生方にしてみたら、まじに怖いですしょうね。だって教材自体が、「余計なことを考えさせるんじゃない」という脅しになっているわけです。特に昨今の、憲法の扱いと、国会強行採決の出来事の後では、この課で何を言うのか──ほとんど「踏み絵」のようだ。


●今回の法案通過が持つ意味については、多くのすでに繰り返し述べています。

 数の力を持つ者が、自分たちの利益を追求するために、「思考」を排除し、商品宣伝のやり方で、テレビ大衆を丸め込もうとするのが、認められてしまうこと。

 独裁的な権力が、繊細な「思考」を排除し弾圧するのは、かなり一般的なことです。ネット化した自由社会でなお、それが容易く行えるとしたら、無知の闇からの知の解放はどんどん難しくなってしまう。

 とにかく子供達が、「世の中には、考えてはいけないことがあるんだ」というふうに学んでしまわないように。あきらめを植え付ける教育が、今日一日で進んでしまわないように、防御していきたいものです。


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posted by ys at 10:25| 生活と意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月15日

うれしいじゃないか。

14日午前3時。空は雲に覆われている。


 だが天頂や北の方には一部雲の切れ間が見える。

早起き老人は月と金星が現れる幸運を願って、散歩に出た。


 「タカバシ(high bridge)」と呼ばれる、沖電気工場の前の、鉄道を下に見るオーバーパスは、小学校のとき、みんなで日の出の観察にきたところだ。自然にそちらに足が向いた。


午前3時28分、月の見えない円盤から金星が出てくるはずの時間も、雲は切れない。そればかりか雨粒が落ちてきた。


しょうがないなあ、次の機会は自分はもう死んでるしなあ、とトボトボ「橋」を降りて、高崎駅東口に近づいたとき、ふと首を右にまわしたら、うそ、見えてる。そこに雲の小さな切れ目があったのだ。金星も見えるぞ、と思ったのが1秒の半分ほど、すぐにそれは掻き消され、細い月も見る見る間に短くなって消えていった。見続けているとまた一瞬、ごく一部だけ現れて、今度は完全に消えた。雨粒がはっきりしてきて、僕は駅前東口のペデストリアン・デッキへ急いだ。


曇った夜空に1/2秒だけ現れた光は、幻影だったのだろうか。


死につつある自分の脳は、すでに天に反応して、気象を超えた知覚を得ることができるようになったのか?


 でも、これでいいんだ。とてもクリアだった日蝕体験、それとは対照的にうすぼんやりした金星食の記憶を、いましばらく、この死すべき脳みそに蓄えていられる。うれしいじゃないか。

posted by ys at 06:19| 生活と意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

まだ見えない、前橋の底

先週の水曜日、毛利嘉孝さんから、白川昌生さんと今夜前橋で会うので一緒に来ないかという誘いがあって、一日ゲラを弄った頭で、ひょっこり前橋のアーケード街へ行ってみた。

ヤーマンズ・カフェというたまり場があるのだが、ここの主人が約束を忘れたらしく、開いていない。しょうがないから近所の駄菓子屋さんの店内に椅子を並べてビールを飲んだ。
DSC_0408.JPG
     Ya-man's Cafe

過疎商店街と、地方でシコシコ制作を続けるアーティストとを結びつけるのも、白川さんの「場所、群馬」の企画の一部。そこの駄菓子屋さんも仲間である。毛利さんは去年、授業の一環として芸大の学生を連れて、ここで「弁天通青年会」のみなさんと〈前橋弁天通映像祭〉を打ち上げた。今年もそれをやりたい、つきましてはご相談、という会なのだが、行ってみたら、群馬大学教育学部の新任の美術の先生(喜多村 徹雄さん)もいるし。あとからふらりと参加したのは、今は前橋美術館構想キュレーターの住友文彦さん(表象文化論出身/多方面で活躍中)、地元で活動中のアーティスト、ましもゆきさん。

全国の県庁所在地の中で群馬県前橋市は中心街の地価が、5年連続全国で一番安い。
テレビの「最下位脱出」感動のドキュメントの候補にもあがらない(よね?)
高崎の5倍ほどもあろうかという立派なアーケードを作ったぶん、翳りの見え方が強烈で、心ある前橋人の心の痛みもさぞかしと思われる。

映画館がなくなったのはいつだったか。(僕はこの街で人生最初の怪獣映画「地球防衛軍」を見たのだった……人生最初の七夕風情もここで味わった)

前橋美術館も、撤退を強いられた西武デパートの跡地に構想されている。

でも、でもでも、ジム・ジャームッシュのファンでなくても、みんな知ってるはずだ。「翳り」は買いである。没落は「快」である。日本一のシャッター・アーケードに、日本の感性を集結せよ−−ってな気分になりながら、僕たちはただ、みんなして、買ってきた缶ビールを飲んだのでした。
(焼きたての鮎も美味しかったよ。)
posted by ys at 18:55| Comment(0) | 生活と意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月02日

平成の「世界文学全集」は昭和のそれとどのように違うか。

(前項『世界文学リミックス』より、カテゴリーを変えて、続けます)

世界文学全集をつくらないかともちかけられたときの、池澤さんの反応(としてご本人が書かれている内容)は、至極真っ当である。

「だいたいぼくは大学の先生でもないし、各国の文学に精通しているわけでもない。本を読むのが好きで、それが高じて作家になった。今だってよく読んでいるし、書評の仕事も多い。だけどそれだけのことだ。何の権威もない。」

 今の世の中ですーっと通るきれいな弁だが、これの逆というか「裏返し」を作文してみると、そっちは、笑っちゃうしかないということがわかる。

「だいたいぼくは、文学に精通しているわけでもないのに小説を書いて作家と呼ばれたり、ただいろんな本をよく読んで書評の仕事を多くしているような人とは違う。ぼくは、一国の文学に精通した、権威ある大学の先生である。」

 しかし笑えないのだ。多重の意味で笑えない:
a)一国の文学に精通した大学の先生はいまでもいるにはいるが、その人にはすでに権威というほどのものはない。(というか権威とは別のところで、忙しく仕事をしている)
b)(下に述べるとおり今では事情が激変しているが、少し前までは)大学に "文学の" 先生は非常に多くいて、そのほとんどは一国の文学にも精通しておらず、多くは一人の作家の威光にすがって、「XXXX(←昭和時代の世界文学全集作家の名を適当に挿入)協会」などの会員となり、「XXXXにおけるXXXについてのXX的研究」みたいな論文を何本か書いたか、あるいはそれすらあきらめてしまっていた。
c)上の事実は、「世界文学全集」の企画が成立しなくなってしばらくして、まあ昭和50年代には、事情を知る人たちの間で問題視されているのだが、抜本的な対応がなされていない。
d) 表面的な対応はなされた。文学という名前を学部や学科から外すことによって、「文学」以上に虚偽性の強い威光(言語情報、国際教養エトセトラ)のもとに、 "文学の" 先生をかくまう動きはずいぶん進んだ。
e) (外国文学の先生の密集生息地だった)教養部の解体は、文学がどうの、ということではなく、外国語履修の現実によってもたらされた。かつては、

「だいたいぼくは、英文法に精通しているわけでもないのにちょっと英語がしゃべれるからといって教壇に立とうとする無教養者とは違う。ぼくは、そんじょそこらの英語ではなく、XXXX(←ふたたび世界文学全集の作家名)の英語をプロとして味わえる、権威ある人間である。」

という言説が無言のまま、まかり通っていて、それを世間が共謀して支えていた(「彼の細君はXX女子大の英文科だってね」「へえ、道理でチガウと思った」とか)。それがなくなったのは、ガイコクそのものの権威が失せたからだろうが、では、それに応じて、どういう新しい大義が生まれたか。列強の脅威から国を守り強くするという国是に基づいて明治期に始まった外国語外国文学教育は、いつどの時点でどのように清算され、いかなる新たな目標のもとに再編されたのか。
 いま大学では、教員にシラバスを書かせ、どんな授業が行われているのかおよそのところを透明化する努力をしているけれども、それを担っている先生たちのなかに、自分のことをこう語れる人がどのくらいいるだろう−−

「だいたいぼくは英語を読んだり書いたりするのが好きで、それが昂じて英語を読み書きするのを仕事にする人間になった。今だってよく読んでいるし、英語の仕事も多い。だけどそれだけのことだ。世界のふつうの人たちとふつうに交わっているだけ。何の権威もない」

日本全体を見渡せば、これを言える人たちは、かなりいる。少なくとも大学教育をまかなう程度にはいる。しかし、人事にひっかかってくることは稀である。そのすきをついて、「英語教育の専門家」という人たちが入ってくる。この人たちの中にも、英語の読み書きが優れていたり、一般的思考力に優れていたりする人もいる。だが一方で、「英語習得のサイエンス」を権威とし、極度に細分化されたことだけをのんびり考えて暮らしている人も少なくない−−たとえば、デマカセに言ってみると、「ESLにおける適切な語彙数とは何か−−xxxx(←権威ある外国人学者の名を挿入)の統計的研究をもとに」というような論文を何本か書いて。(ESL = English as Second Language)

そろそろ話をまとめよう。
「権威」の何がいけないかというと、それが、リスポンドしなくてもいいところに生じる価値だからいけないのだ。かつてこの国では、権威というものに「切腹」のような厳しい掟が付随していたけれども、現代の「やさしさ」の時代、そのような歯止めを失った「権威」は、人を堕落させる要因でしかない。

相互作用 → 満足の生成 → 注目 → より大規模でシヴィアな相互作用 →

という上昇の螺旋をのぼっていかないから、能力が鍛えられない。クォリティが劣化し、人間が劣化する。単純な理屈である。

もちろん過当な競走は苦しいし、無益な不幸をたくさん生む。それはできれば避けたい、「ブランド」を育て、その「名」のもとに安定した繁栄を得たい。これは人の真情だろう。だがその「名」の威光というものが、責任の払拭につながってしまってはだめなのだ。

  エリート ー responsibility = 権威

この構図に陥ってしまってはダメなのだということが、いまの世界で、すごくはっきり見えつつある。
 現代も進行中の情報革命という long revolution は、つらいものではある。かつては、ある権威を目指せば、競争社会における相互作用や自己鍛錬の責任から保護され得た。もはやそれではやっていけない。
 ハイヴィジョン・テレビが見せる小沢一郎の表情に、充分な数の人間が、権力構造の不健康さを見ている。
 権威の不健康さに人々が敏感になっている時代に、「健康な文学」の味わいを取り戻すべく、『夕刊フジ』でもどこでも走り回った。そこに池澤夏樹個人全集の成功があったのではないだろうか。キーワードは、社会との繋がり、すなわち現実対応能力としての〈責任〉であると思う。

 東電、保安院、政府といったエリートたちに、僕らが苛つくのは、「権威」によって弱体化されてきた、低レベルの現実対応能力を日々見せつけられるからだろう。
 大学の問題は、一般社会に今もよく見えていないところがある。それを、ある程度具体的に見えるようにすることは、僕のような離職者の責任でもあるわけだ。回を改めて、問題に踏み込んでいきたい。
posted by ys at 08:02| 生活と意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月16日

「放射能」に婉曲語が必要か。

(さきほど「別のカテゴリーで」と書いたけれども、同じ「生活と意見」のなかで、続けます。)

radioactive(放射能がある、放射が活発である)という語が含む切迫感が、contaminated(汚染された)にないのは、どんな理由からか。

 "radioactive" という単語は「SVO感覚」──すなわち「これが(S)、われわれに(O)、作用を及ぼす(V)」という思考の構え──を内包している。
 この「構え」は、英語的思考者には常識的なものだ。

 いま「構え」という言葉を使っている。ちょっと首を傾げられた読者もいるかと思う。ふつう文法は「言葉の構造」とされ、動かしがたい「つくり」の問題とされる。それはそうだが、言語習得の立場からすると、その「つくり」とは「永続化した構え」にほかならない。英語を生きるこということは、学習者の視点からすると、SVOの世界に入るということだ。世界を「行為」を軸として捉えるようになること。すなわち──

(1) S(行為者)をフォーカスし、
(2) V(その行為内容)を明記しする。そして多くの場合、
(3) O(行為を被る対象)を特定する。

これが英語の普通の構えだ。もちろん(3)は、用がなければ省略できるし、用があれば、そのあとにC(目的補語というの)をつけても構造的に問題はない。

 ここでいう「構え」とは、言葉の問題というよりむしろ「心(思考)」の問題であるわけで、したがって日本語で「SVOの構え」をとることに、特に不自由があるわけでもない。「これは発癌性物質です」というとき、僕らも事実「これが(S)、われわれに(O)、害をなす(V)」という思考を実践している。ところが、今回の原発事故に対して、僕らはそれと同じ構えを取りがらないようなのだ。「汚染されている」という発想に流れる。なぜだろう? 福島第一原発から出続けている物質に対し、英語圏のマスコミでは radioactive という形容詞が踊るのに、日本ではなぜ「汚染」という言葉が蔓延するのだろう?

 「放射能が活発」という代わりに「汚染された」ということで、何が取り除かれるのか? ここに二重の除去作用を見て取ることができるように思われる。
 
 まず「汚染」(contaminated)は完了形のコンセプトである。「汚れてしまった」ということで、本当は今でもビュンビュン出ているはずのベータ線やガンマ線の現実から人々の目を逸らす効能がある。完了形は世界を静態において捉え、出来事の「進行感」を拭い去る。
 第二に、「汚れたもの、穢いもの」というまとめ方をすることで、僕ら自身が、いわばそこから拭いされられる。「係わるべきではない」という距離感が助長されるのだ。

 radioactive が contaminated に言い替えられることに潜在する(政府・東電側から見た)メリットは明かだろう。
 まず、完了形にしてしまうことで、刻々推移する事態への国民の反応を鎮め、あきらめ感覚を助長する。
 第二に、生活にしがみつく住民と、彼らにシンパシーを感じる国民一般に対し、その土地自体が(少なくとも当面)棄却されるべきものになってしまった、というメッセージを通しやすくする。

 いや、誰かが謀って、そこまで事態を制御しているのだとは、正直、僕も考えていない。「メルトダウン」とか「炉心溶融」等に関して、マスコミのトップが、お互いまとまって、その使用を制御してきたことは間違いなく思われるが、「汚染」とかいう言い方の蔓延は多分にに無意識的なもの──「文化」と呼ばれるレベルでのもの──であるに違いない。
 だから仕方がない、とは、僕は思わないのだ。
 無意識にせよ、これが日本的なやり方だ、という構えを、あまり出さない方が利口だと思う。原発のような恐いもの,自国だけで容易に戦えないものに対して、思考の構えを孤立させるのは損だ。「汚染」という言葉で和式にまとめるのをやめ、「放射能が高い低い」という言い方に一度開いて、感覚の国際化を図る方が、長い目で見た場合に有益だろう。
posted by ys at 13:42| 生活と意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

禁断のゾーン、禁忌の思考

 ウィリアム・ヴォルマンといえば、神童と呼ばれた1980年代以来、もっともアィティブに世界を回って物を書いてきたアメリカ作家の一人だが、その彼が福島原発危険地帯へルポ ”Into the Forbitten Zone” を出している。

 僕もこの週末、妻の実家があるいわき市に行き、義姉の故郷である双葉郡広野町(第二原発のある楢葉町のすぐ南)まで足を伸ばしてきたが、出かける前に、この長文のルポを、Kindleショップからダウンロード($2.95)して読んだ。

 先月ヴォルマンは通訳を伴って、避難所に身を寄せる家族をインタビューし、また70歳くらいのオヤジの運転する車をハイヤーして、まだ「自主避難勧告」地帯だった30キロ圏に入り、自宅に戻りに訪れた人から話を引き出そうとする。彼が疑問の中心には、"Why twice? (なぜ二度も?)"という問いがある。

“Mrs. Hotsuki, here is a question that baffles me. As a citizen of the country that dropped atomic bombs on Japan, I wonder how this could have happened in your country twice. First you were our victims, and then, it seems, you did it again to yourselves.”

「一度アメリカに被曝させられたこの国が、どうしてまた、自ら被曝するのを許すのか?」──僕ら自身は、なぜか、自問を抑圧しているけれども、国際的には、ふつうに囁かれている問いに違いない。
 "ホツキ夫人" の次の答えは、平均的日本人の答えだろうと思われる。

“We don’t know much about the nuclear bomb,” explained the older woman. “They’re pretty far from here, Hiroshima and Nagasaki, and we just heard from our parents that some plane came over and so forth. They didn’t talk about it.”

 そう、だれも、あまり話さなかった。もちろん、日本人でも原爆や原発に執着する「運動家」の人は少なくない。しかし、彼らは世間からは「色つき」と見なされがちだ。忌むべき事を遠ざけ、時がたてば忘れる(水に流す)──そういう世間的な慣行から、彼らの「運動」が外れてしまうからだろうか。

 このことに絡んで、もう一点、日本で繰り返される次の言葉にヴォルマンが違和感を抱いていることに興味をもった。
 日本人は、radioactive (放射能がある=放射活性状態にある)ということを、押しなべて contaminated (汚染された)と表現する。ヴォルマンはそこに、かならずしも意図的とは言えない「隠蔽」と「緩和」の効果があることを感じ取る。── "contaminated” と言われると、 "raidioactive" と言われるより、たしかにずっと気が楽になるよな、と。

 でもなぜ僕らは放射能が出ている状況を「汚染された」と言い方で掌握するのだろう。そうやって「汚さ」の領域に押しやることを、僕らの精神(サイキ)が要求しているのだろうか?
 かつて「大麻汚染」とかいうことばがマスコミの紙面に踊ったことがある。70年代に、ポール・マッカートニーらの公演中止が相次いだころのこと。当時の日本人は大麻についてよく知らなかったし、今でもよく知らないようだけれども、それでも「汚染」という言葉にくるまれた忌むべき存在であることは、小学生もおばあさんもよく知っている。
 
 ひとたび「忌むべきもの」とされると、それについて突っ込んで考えたり語ったりすること自体、はばかられるようになる。戦後の日本では、満州事変あたりから原爆投下に至るまでの一切を語ることが、いわば自己規制された。暗い過去に目を向けることを「世間」が嫌った。どちらがいいと言うのではないが、ドイツの場合は対照的だった。原発に対する姿勢も、現在、ドイツと日本で対照的である。

 「過ちを排除しようとする」代わりに「穢れた物」を禁忌する──そういう、ある種「神道的」?な時間の中に留まる──ことを、僕らはいまも続けているのだろうか。そうしたいわば「お祓い感覚」が、いまだに生きた力として僕らの思いを深いところで動かしているのだろうか? こんなふうに書くと、なにか「神国日本いまだ健在」みたいな議論になって可笑しくも感じられるけれども、僕が考えようとしているのは、実際そのことなのである。
 といってイザヤ・ベンダサンの宗教論の続きやりたいわけではない。さしあたって、日本人が、なぜ、英語を習得しようとしながら、英語を習得しないのか、という問題に絡めて考えてみたい。というわけで、別のカテゴリーに、別の記事を立てることにしよう。
posted by ys at 06:03| 生活と意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする