2012年06月23日

當間 麗 『アメリカン・ルーツ・ミュージックとロックンロール』

これは授業用テキストである。

 

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第1章 ブルース 〜南部黒人の魂の叫び〜 p. 5

第2章 カントリー・ミュージック 〜アメリカン・ノスタルジア〜  p. 37

第3章 ゴスペル・ミュージック 〜教会と音楽〜 p. 67

第4章 ロックンロール 〜ベビー・ブーマーたちの躍進〜 p.108


というページ構成。YouTubeサイトを並べながら、人気歌手やグループの活躍の足取りを追うことで、メディア時代のアメリカの民衆音楽史の足取りを辿るという授業の教材。全部で13節あるので、イントロと特別授業1回を入れて、半期15回の授業となる。著者が「はじめに」で書いているように、


アメリカ音楽に初めて出会った頃に抱いた、「ロックとロックンロールは違うのか」「R&Bとは何か」「カントリーと言ったり、カントリー&ウェスタンと言ったりするのは何故か」と言った素朴な疑問


にみずから答えるという姿勢があり、


アメリカでロックンロールが誕生する背景をルーツ・ミュージックに求めるプロセスは、アメリカ文化の多様性とその複雑な関係性を自ずと詳らかにし、音楽史を通してアメリカの素顔が見えてくる


というあたりは、音楽を含まないアメリカ史の講義をしている先生達をうらやましがらせることだろう。


上記4つの分野には、メチャうるさい評論家がいて、各章に並べられている初心者向けの言説には少なからず「こわいものしらず」な面も感じさせるけれども、これだけメディアが発達した時代に、基礎的な事実を何も教わっていない学生を導くという意味では、21世紀型大学教育の開発に少なからぬ意義を感じる企画である。


「重要な楽曲は囲み記事にして、現時点での YouTubeサイトを記した」――ということなら、同時に付属ネットサイトの拡充も図るといい。――と述べるからにはサトチョンも協力しよう。以下は「第三章」のリンク集だ。



第1節 ゴスペルの起源



1 新大陸と教会音楽


"The Ainsworth Psalter: No. 4"(エインズワース詩篇書:4番)

http://www.youtube.com/watch?v=6YDDO1Wc6FU


"Bay Psalm Book: No. 100"(ベイ詩篇書:100番)

http://www.youtube.com/watch?v=uFWFx5L5uQs

(教材掲載のものが見つからず、替えてあります。23番に続いて100番。)




2 ホワイト・ゴスペル


 Ira David Sankey: "The Ninety and NIne" 

Tennessee Ernie Ford が歌うバージョン:

http://www.youtube.com/watch?v=TwSaQIGGG3I



3 ニグロ・スピリチュアル


Fisk Jubilee Singers: "Swing Low, Sweet Chariot"

http://www.youtube.com/watch?v=NWnN5bd43J4


4 ブラック・ゴスペル




第2節 形成期のブラック・ゴスペル


1 シャウティング・プリーチャー


Rev. A. W. Nix: "The Black Diamond Express to Hell"

http://www.youtube.com/watch?v=xQbQeGKscOE


2 エヴァンジェリストたち


Blind Joe Taggart - The Storm Is Passing Over

http://www.youtube.com/watch?v=uxGYtHlhWDE


3 フォーク


Mitchell's Christian Singers - My Poor Mother Died a' Shouting

http://www.youtube.com/watch?v=weVLSKjifWo


Heavenly Gospel Singers: "The Heavenly Gospel Train."


http://www.youtube.com/watch?v=r5fSfhCFdKM


4 アカペラ・ジュビリー


同じ曲の聞き比べ

Norfolk Jazz & Jubilee Quartet-Didn't It Rain

http://www.youtube.com/watch?v=8ARKy3ABnks

The Golden Gate Quartet - Didn't It Rain - Gospel

http://www.youtube.com/watch?v=2tuqghW9tQc


Dixie Hummingbirds: "I've Got So Much to Shout About"

http://www.youtube.com/watch?v=Abkn2HPwEXg


Dixie Hummingbirds: "Hide Me in Thy Bosom"

http://www.youtube.com/watch?v=5FqFdHhfkdU




第3節 黄金期のブラック・ゴスペル



1 ハード・ゴスペル


"I Feel My Time Ain't Long" の聞き比べ

Blue Jay Singers

http://www.youtube.com/watch?v=bjiwDJwVOjs

The Soul Stiorrers

http://www.youtube.com/watch?v=TncGntw7ung


Sam Cooke & The Soul Stirrers - Touch the Hem of His Garment

http://www.youtube.com/watch?v=GFnF1yn6jfI


The Original Five Blind Boys: "I Know The Lord Will Make A Way" - "Somewhere Listening For My Name"

http://www.youtube.com/watch?v=634w2QfvOKk


2 トマス・A・ドーシーとモダン・ゴスペル


3 女性歌手たち


"These Are They!”の聞き比べ

Queen C. Anderson & The Brewster Singers / These are they !

http://www.youtube.com/watch?v=srzv996qqvw

Mahalia Jackson-These Are They

http://www.youtube.com/watch?v=fHFIUc4IRdQ


Marion Williams - Surely God Is Able

http://www.youtube.com/watch?v=21egDjVqG6I


"How I Got Over" (1950)- Clara Ward Singers

http://www.youtube.com/watch?v=yU-herUo23I


4 大聖歌隊


Alex Bradford

(*映像的にはこれがいいと思い、差し替えました。)

http://www.youtube.com/watch?v=3NG0T8YEh9g&feature=related


"Peace Be Still" 1962 Rev James Cleveland and The Angelic Choir Of Nutley NJ

http://www.youtube.com/watch?v=Og1HTnXotU8



第4節 ドゥーワップ

1 バーバーショップ・ミュージック


Ink Spots - If I Didn't Care

http://www.youtube.com/watch?v=rvwfLe6sLis


The Mills Brothers - Tiger Rag

http://www.youtube.com/watch?v=h-d4PlcAGb4


Till Then

http://www.youtube.com/watch?v=gPdidRreduM


2 最盛期のドゥーワップ


The Ravens-Summertime

http://www.youtube.com/watch?v=piVtpRkhJTA


Sonny Till and the Orioles - Crying in the Chapel

http://www.youtube.com/watch?v=Qe_tL7aVGE8


The Penguins-Cold Heart


http://www.youtube.com/watch?v=-kf5PuX6dCU


3 ロックンロールの出現とクロスオーバー・ヒット


The Coasters - Yakety Yak

http://www.youtube.com/watch?v=-cHB3Rbz1OI






本書の紹介は以上。この調子で、ブルース、カントリー、ロックンロールについて知ることができる。それを122ページの「本」という形態でやれたのは「先駆的」業績。


もっともYouTube を見ればこういうのが上がっているわけだ。21世紀、大学は、有用か。どのように?


The History of Gospel Music 01-09

http://www.youtube.com/watch?v=ckr54QUcdrs

http://www.youtube.com/watch?v=iEC7ojPuJuk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=tUGCId_gc10&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=MjgtgveRksQ&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=OcgvzfEjTak&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=R9eyFypj05I&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=EYtw67ohSAw&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=X2zyPvv7V_s&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=Ni5Mk0ANeiQ&feature=relmfu



History Of White Gospel 01-

http://www.youtube.com/watch?v=EBdMD19NvN8

and so forth


Thomas Dorsey

http://www.youtube.com/watch?v=jiRqsU-LRFQ&feature=relmfu


From "Too Close to Heaven: The History of Gospel Music".

http://www.youtube.com/watch?v=jv40KudGG08&feature=related


Biography of Sam Cooke 01-04

http://www.youtube.com/watch?v=J8Q8JuLj8vY

and so forth


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2012年05月05日

諏訪部浩一『「マルタの鷹」講義』

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諏訪部浩一はあとがきで、
「外国文学研究者として極めて「普通」な手続きを重ねていく過程をそのまま見せる事は、私が何を学んできたかを(あるいは不勉強を)露呈させてしまうはず」
とし、
「研究者が「普通」のことをやればこの程度のことは可能なのだという点で、本書が一定の水準を示せていればと願わずにはいられない」
と謙虚に自負する。

このクォリティは普通でしょ、と言えるところがいい。

21世紀の東大英文科准教授、何でアピールしてくれるのかと思ったら、『マルタの鷹』の精読だった。語注つき、豊富な文献へのレファレンスつき。一章ずつ、飽きさせずに読ませていくフォーマット。大学には──特に外国文学の界隈には──あなたは何のプロですかと訊きたくなる人が多く住んでいるが、ここに読みのプロを自覚している人がいた。

諏訪部より上の世代に、普通でないことを言って注目を集めようとする風潮があった。「AはBである」という大胆なメタフォアを振りかざし、A=Bと信じるところから生じるロマンチックな誤読の中へ読者を引きこもうとするタイプの評論。この本は、それらとははっきりトーンを異にする。

第10章について諏訪部が語り出すのは、探偵サム・スペードが、みずから惹かれている女、ブリジットの部屋を捜査するシーンをいかに描いているかということだ。

 
長い引用となってしまったが、虚飾を省いた(副詞が一つもない)平易な英文であり、単調な文章とさえいい得るだろう。
 だがこの引用文のポイントは、まさにその「平易」で「単調」なところにある。つまり、スペードという「探偵」の仕事とは、一つ一つをとってみれば「平易」で「単調」しかない作業の積み重ねであることが、そうした文体によって表象されているわけだ。


最初に評者が注目した「普通」という言葉が、ここでは「平易」と言い換えられ、ある意味とても複雑な人物であるサムの、基盤をなす倫理性として提示されている。

『マルタの鷹』という、文学の授業としてはきわめて個性の強い作品を扱いながら、本書が、最大多数の学生への通じやすさということにこだわり、その意味すこぶる教育的な出来映えになっているのは、サムのプロフェショナリズムへの愛着と信頼が基にあるからなのだろう。

 普通に平易なもの──ストレートなもの──は、ヒップではない。普通以上を志向する優秀な若者の反発を招かずに「普通」を貫き「この程度のことは〈普通〉の守備範囲だよ」と言ってのける。これはあっぱれであると思う。

もっとも彼は「普通」を超えて「いささか大きな読み」もやっている。
いろいろあるが、一つだけ。シャーロック・ホームズに代表される古典的探偵小説に倦怠のムードが支配的であることに触れて、彼は言う:

探偵の「倦怠」は、警察が代表するようなモダンな合理性からの「逸脱」の証であり、「超越」のそれではない。だから探偵が警察を嘲笑するとき、その「笑い」はむしろ自嘲と考えるべきなのだ。[だが探偵の名推理が、単に胸を躍らせる娯楽としてだらしなく消費してしまうと]探偵小説は文学性を失い、通俗的なデカダンス通俗的なデカダンスに相応しい低度の、微温的なシニシズム/ポストモダニズムに覆われてしまう。
(中略)
「理性の時代」からの「ズレ」としてポーの探偵小説が生まれたのだとすれば、その「ズレ」自体が紋切り型となってしまった時代に、そこからの「ズレ」としてハメットの探偵が生まれたのではないか、ということだ。(109ページ)


さらに次のページで「ハードボイルド探偵小説は伝統的探偵小説の文学的嫡子」という言い方もしている。

明快だ。では、ハメットを愛し、チャンドラーを愛し、ハードボイルドとは一見逆向きの、「ラリラリ探偵」ドック・スポルテッロを造形したピンチョンは、ハメットの探偵からの、いかなるズラシをやってのけたのか。

 サトチョン自身にはまだよく考えがまとまっていない。だがこの本を読みながら、ピッピーとしてのヤワなところと、探偵としての有能さ、パラノイアックであろうともアメリカの暗部の機構をまるごと意識しているらしいこの探偵と、ハードボイルド・ヒーローとの連続/不連続を考えてみたくなった。
 諏訪部浩一は『Inherent Vice』をどう読むか。急がせたりはしないので、いつかゆっくり訊かせてほしい。

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2012年04月29日

大学教育の「FD」って知ってますか? 「SD」ってんもあるんですよ。

人間社会はある部分、簡略化を好むところがあるので、「実」が「名」によって置き換えられるというのはよく起こることだ。「有名無実」というフレーズがあるが、
有名大学に入学して与えられる教育に、こんなに実が無いのか、
という無念は、あたりまえすぎて誰も語りもしないニッポンの常識なのだった。

「教育する」を「教育したことにする」に置換し、その「楽」と「無責任」が、既得権として継承されてきた。
そしてその既得権を持つ人間が「偉い人間」として権力をふるってきた。その非民主的な構図は、21世紀の現在でも崩れてはいない。半期15回やれ、学生アンケートを実施せよ、という消費者の論理は組み込まれるようになったけれども、どちらの対処法も量や率の問題として教育を見ているだけ。現場の教師に拘束をかけるだけで、本質的な問題提起が始まったといえる状況にはない。

清水亮さん(三重中京大学現代法経学部で日米関係等を講じつつ、教育コミュニケーションのあり方に強い関心をもつ)がエンジンとなり、岡山大学の人気教育メソッド開発者、橋本勝さんらを巻き込みつつ、大学教育に「実」をとりもどす制度づくりをめざした人の輪が形成されつつあることを、京都市のナカニシヤ出版(編集担当・米谷龍幸さん)による2冊の書物が示してくれる。

『学生と変える大学教育──FDを楽しむという発想』清水・橋本・松本美奈編著、2009
『学生・職員と創る大学教育──大学を変えるFDとSDの発想』清水・橋本編、2012

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まるでハウツー本のようにして、大学教育の質的向上のティップス(ヒント)を掲げる本というのは、まだそのニーズが十分に開拓されていない。僕が『これが東大の授業ですか。』という本を、研究社の金子靖さんの編集で作ったのは2004年のことだったが、あの本は、どの棚に置くべきか、書店員さんを混乱させたようだった。

さて大学という「名」に教育の場としての「実」を注ぎ込むにはそのための能力の育成が図られなくてはならない。これをFD(faculty development)という。未だに大学の会議室以外では、あまり頻繁に使われない言葉のようだ。

その本質的な理由は、前述の「しない既得権」に基づく権力構造がしぶとく生き延びようとしていることに関係する。

そんな中で今回の企画では、三重中京大、岡山大の編者のほか、国際基督教大、立命館、同志社、関西大、亜細亜大、名城大、日本福祉大、早稲田、愛媛大、山形大、富山大、金沢大、大分大、和歌山大、名大、北大。東京外語大(留学生センター)の人たちが書いています。

詳しくはこちらを
http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=825&cid=14

ほとんど何の指導も受けずに教壇に立ち、学生たちと対面せざるを得ない若手教員にとっては、数少ない、実践的ガイド本のひとつだ。

なにより、人間と人間との関わりに関する率直な問いがボロボロ出てくるところがいい。──大学生たちは大学教育の研究の話に付き合わされる義務はあるのか、とか。

すでに多くの大学に「教育開発センター」というような名前の機構が活動しており、そこで尽力されている先生方からのオフィシャルな説明で埋められがちな企画ではあるわけで、この本にもそういう印象を与えるページがないとはいえない。

しかし、20章や 21章を読むと、("事務"と呼ばれている)職員が、教育環境の改善に果たす枢要な役割が顕在化されてきて、パースペクティヴを広げてくれる。

清水さんたちの仕事は、現実にまみれているだけに、理論本と違って「ぐんぐん突き進む興奮」みたいなものは得難い世界だが、これは持続するところ価値がある領域。さっそく「次」を期待させていただきます。
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2012年04月23日

彼の、僕の、あなたのベイトソン

ひとからいただいた著書をできるだけ紹介しようと思って、そのカテゴリーを作りましたが──おとなのように、サッサッと適切に事を進めることができなくて、いただいたままになってしまう本もあって、すみません──その最初に載せたのが、野村直樹さんの『やさしいベイトソン』。このたび新著『みんなのベイトソン』をいただきました。

ゼロ学習 → 学習I → 学習 II  → 学習 III

ベイトソンの思考した「学習」(learning)とは、人間(と動物と、時に機械)の変化(と一定性)についての階層的カテゴリーのことですが、ぼくも『精神の生態学』を学習し翻訳しながら、ああだ、こうだ、ずいぶん考えました。(拙著『ラバーソウルの弾みかた』で展開した「時の地層図」は、いうまでもなくベイトソンの論理階型論をしたじきにしています)

この本で、野村さんは、ぼく以上に、ああだこうだ考え、それだけでなく、その考えを本にまとめるために、ああだこうだ、トリッキーな工夫をしています。

探偵フィリップ・マーロウがサンセット・ブルバードの角を曲がると
ポンコツのマーキュリー・コンバーティブルに乗った「パパ」と「キャシー」がメタローグしているという始まり。

最後のほう、ベイトソンの死にまつわるいろんなエピソードも、聞きかじってはいましたが、あ、そうだったんだ、と直接知っている野村さんのこの本で教えてもらいました。

ベイトソン関係の書物、日本では増えていかないなかで──やりっぱなしにしている自分もわるい──キャジュアル&パーソナルなスタイルではあっても、貴重な思考の記録だと思います。

金剛出版ホームページ
http://kongoshuppan.co.jp/dm/dm.php?cd=1248
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2012年01月04日

The Greatest First Novel of the Year.

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Miguel Syjuco, Ilustrado (中野学而・訳)

 本とは粘質的につきあってしまう僕には、簡単に読みこなせない本だった。ピンチョンの『V.』とは違うけれど、読書経験の豊富な新人が数多の意匠をちりばめた処女長篇である。しかも、フィリピンという隣国を意識化するのが、他の日本人の多くと同様に、僕は苦手だ。コロンビア大学で教育を受けた若者が、フィリピンの重い過去と現在を、文学的術策によって、ドンと受け止めようとする作品をすらりと紹介できるほど、文学のプロでも、国際派の読者でもないことがバレてしまうのがイヤで躊躇してしてしまったか。

半年前に送っていただき、これはスゴイと思ったのに、ブログに感想を乗せるが、年明けになってしまったけれど、原作者シフーコも、翻訳者中野学而も、とてもていねいに仕事をしている。昨年出会った最良の仕事の一つであることは間違いない。
 
 That you may not remember Salvador's name attests to the degree of his abysmal nadir. Yet, during his two-decade-long zenith, his work came to exemplify a national literature even as it unceasingly tried to shedder off the yoke of representation.

  “生粋の英米人”の若手作家も、なかなかここまで流暢な文章語は使うまい。そのときとして、かなり曲者である英語をすんなりと日本語化した翻訳者も、その晴れ晴れとした力量を示している:

 読者はおそらく彼の名前を覚えてはいないだろう。彼が落ちていった忘却の谷の深さも分かろうというものだ。だがその執筆活動の絶頂期にあたる二十年あまりの間、彼の作品は、現実世界との関連を断ち切ろうともがくその作風にもかかわらず、まさに「国民文学」と呼ばれるにふさわしいものだった。

 サルヴァドールは、「その “ロココ”調とでも表すべきリリシズムとデカダンスにもかかわらず、フィリピン国家の心理・社会的残虐性、つまり祖国の物理的暴力や傲慢さを、痛ましいまでのリアリティをもってえぐり出す」大作家である。その「大作家」になりきって、彼の多様な小説や伝記の一節を、自作の小説の中にちりばめようというのだから、何と大胆豪放なデビュー作であることだろう。

 それだけではない。物語は、ハリウッド映画のように幕を開ける。サルヴァドールの惨殺死体がハドソン河にあがるのだ。なにか世界に知られてはまずい国家の恥部を書き立てようとして、やられたのか。その謎を追って、(大江健三郎世代の)サルヴァドールを師と仰ぐ、平野啓一郎/川上未映子世代の(作者と同名の)在北米作家が、フィリピンへ旅立ち、国の現実を浴びる。

ミゲル・シフーコ(Miguel Syjuco):1976年生まれ。父はアロヨ大統領派の政治家。セブ島のアメリカン・ハイスクルールを卒業し、マニラの大学の英文科を出て、コロンビア大学の大学院で修士号、去年ようやくアデレード大学で博士号獲得。今のところ出版歴はこの一冊のみ。この作品は原稿段階で〈マン・アジアン文学賞〉を獲得。他にもいくつか名のある賞にノミネートされた。

 その文体は硬軟自在だが、同じことは「内容」についてもいえる。今なお現実としてフィリピン社会を覆う国難の歴史全体に目を向けようとする一方で、一人の女性に向けられるヤワで繊細な言葉によっても読者を引っぱる。
 そうした繊細な部分も翻訳が安心して読めることは、この訳本の大きな利点だ。別れたマデリンとの会話の記憶は、ときどき初老の読者の胸を抉る。
 パーティへ、初期のヒップホップを響かせた黒のレクサスで乗り付けるフィリピンの女学生セイディのしゃべりが、またいい。

「ねえ、ミゲル」と彼女は言う、「あなたさ、家族もいないって言うし、なんだか途方に暮れちゃってるように見えるな。良かったら家にご飯食べに来れば? ねえ、来なよ。うちのコックのチキン・アドボ、最高なんだから。人生変わっちゃうよ」(256ページ)

 セクシーなセイディが遠ざかったあと、ミゲルは大きく溜息をついて、ジョンの声を真似てみながら、静かに歌った。

ウー、ウォッハヴューダーン?

ロックを歌いこなす訳者ならではの正確さというべきか。ここが「ホワット・ハブ・ユー・ダン?」だったら、何と興ざめだったことだろう。



 過去数世紀、欧米の武威の時代に、日本とフィリピンはあまりに対照的な歴史を歩んだ。アルマジロのように、皮膚を硬くして、キリシタンの勢力も、浦賀沖の軍艦にも、戦後のアメリカナイゼーションにも耐えてきた日本と、ことごとく餌食とされた上に、日本軍による爪痕まで残したフィリピン。日本語教育が根付いた大衆翻訳大国の日本と、いつまでも森鴎外や新島襄のような、外国語を使いこなせる人間が知識階級(光を得た者=ilustrado )をなして国を導く構造の国との違いを、僕は肌で知るわけではないけれども、なんとなく想像はつく。日本だとカズオ・イシグロは、このように表記された英国人作家だし、水村早苗はこのように表記された日本人作家であって、その境界を踏み越えた、多和田葉子のような存在もいないわけではないが、日本文学の日本語への閉じこもりは、二十一世紀も顕著な傾向であることは変わらない。

 そういう意味で、この本は、原作も世界文学の野心作なら、訳文も優れた本であるにもかかわらず、マーケッティングが難しい小説ではあった。白水社で、「エクス・リブリス」という野心的(illuminating)な海外文学叢書をやっておられる藤波さんは、確かにいい本を選定したし、訳者もとてもいい仕事をした。なのに、話題性では、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』に負けたようだ。

けれども将来のノーベル賞を想像しやすいのがどちらだと言われれば、ジュノ・ディアスではなく、シフーコの方だと、多くの人が感じるだろう。(だからこそディアスの方が面白い、という言い方も成り立つけれど)。

意味の通じにくい日本語タイトルと、やはり意味の通じにくい表紙の絵は残念だったかも。21行詰め込んだ紙面も、辛かった。分かったような顔をしてすいませんが、定価を3000円に抑えるための工夫であれば、もう半ポイント字を小さくして、白い部分を増やして高級感を狙ったらどうだっただろう。二段組みでもいいから、「気さくな小説」ではなく「本格文学」として売り込む。「とっつきやすく」見せて、どうするんですか。「反大衆層」をターゲットにしてこそヒットする作品でしょ?

ともあれ、アジアの英語圏作家の若手トップ・ランナーの一人にシフーコが躍り出たことは間違いない。欧米が発信し日本が受信するという「外国文学」の構図が時代遅れになりつつあるなかで、今後この作家、このような作家を日本がどう読んでいくのか、注目される。

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2011年12月31日

菅啓次郎の贈り物

菅啓次郎さんの最初の著書『コロンブスの犬』(1989)は、こんな一節で始まる。

今日はエイプリル・フールだけど、これからいうことは嘘じゃないんだぜ。あした、出発する。ブラジルに行くんだ。さようなら。

同じ年に出た僕の『ラバーソウルの弾みかた』の最初の文−−「実家の押し入れからとんでもないものが出てきた」−−と、ほとんど真逆だ。「ブラジル」対「実家の押し入れ」。「それからあと、どこでどうなるか、さっぱりわからない。さようなら」対「ハロー・ポップス、1966」。

今年管さんから僕に送れられてきたのは−−

1)その『コロンブスの犬』の河出文庫版(写真=港千尋、解説=古川日出男)

2)「Walking 歩行という体験」
 ヒトは歩きながら自分を作ってきた。種としてのヒトがそうだったし、個人としてのぼくもそうだった−−という前書きで始まる、時の厚みと大地と生命でいっぱいの詩で、北海道の〈モエレ沼公園ガラスのピラミッド〉で行われた夏のイヴェントの刊行物。これがとても管々−−いえ、清々しい。

3)その詩と同じスピリットを、解説の言葉にした『野生哲学 アメリカインディアンに学ぶ』(講談社現代新書)小池桂一のマンガによる伝承物語つき

4)詩集の本としては、左右社から、昨年出た『Agend'Ars』 のパート2,『島の水、島の火』をいただいた。
ピンチョンの押し入れにとじこもっていた今年の僕は、これを通して、ああ、そうだ、空は一面の光なのだと、想像の中で同意した。

5)西原理恵子・絵、菅啓次郎訳の『星の王子様』というか『チビ王子』には笑った。

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6)圧巻は、菅啓次郎・野崎歓 編『ろうそくの炎がささやく言葉』
最初に治めてられているのが、谷川俊太郎の「ろうそくがともされた」という詩です。

ろうそくがともされて
いまがむかしのよるにもどった
そよかぜはたちどまり
あおぞらはねむりこんでいる


グラフィック・デザインの凛とした構成を見るかのような言葉の配列。
執筆者の半分くらいとは面識がある。中村和恵さんの二篇、よかったよ。

来年もアウトゴーイングな管さんであることでしょう。真逆をいくつもりはないので、僕も少し、地球を動きましょうかね。
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2011年12月06日

『ライブシーンよ、どこへいく』

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ものを考えることと音楽を演じることとの間に分裂があった時代が長く続いた。両者のギャップが世代や文化の傾向としては閉じてきたことを、この頃とみに感じる。

宮入恭平さんは、ライブハウスでライブをやり、大学院の「コミュニケーション学研究科」に学び、非常勤講師をしながら、2008年に『ライブハウス文化論』という本を出した。その宮入さんから、この秋、この本が届いた。クラブシーンに詳しく肩書きが “ファッショントレンド調査者”という佐藤生実さんと組んでまとめた、日本のライブシーンの諸相である。カバーした領域は広い。

第1章:コンサート  第2章:ライブハウス   第3章:クラブ   第4章:フェス
第5章:ストリート  第6章:インターネット  第7章:アキバ系  第8章:発表会

http://www.seikyusha.co.jp/books/ISBN978-4-7872-7311-6.html

それぞれに一章ずつ振り当てて、数多くの統計図表と共に、現状をまとめて報告している。

そこから浮かび上がってくるのは小さくなりながら元気を保とうとしている日本のポピュラー音楽界の姿だ。小さくなって、必死の営業努力を続けながら、でも見かけは楽しく穏やかに流れていく、このごろの日本の音楽シーン。
かつての反体制だったロックとともに、人生観社会観を組み上げてきたサトチョンなどの目には、小さくセンシティブにまとまりながら、それでも音楽を、僕らの世代以上に生活の核として、やさしく大事に抱えながら生きている21世紀人が、「未来人」として見えてくる。

ところで、この本が形をとっていく初期段階に、僕はたまたま、JASPM(日本ポピュラー音楽学会)の研究活動のまとめ役として、居合わせた。そして京都女子大での全国大会の「ワークショップ」のフロアから、音楽への「愛」や「夢」の話はどうするの? というイタズラぽい質問を投げかけた。

その質問への一応の答えとおぼしきものが、この本の序章と終章で、律儀に書き込まれていることも付け加えておこう。

「パフォーマーとして、僕はライブハウスシーンに違和感を覚える」
「オーディエンスとして、わたしはクラブシーンに違和感を覚える」

著者の二人は、この違和感から出発したという。
だけど、各論になると統計社会学、あるいは音楽産業論の資料的研究の域に収まってしまうきらいがある。

愛することと論じること、歌うこととそのビジネス。むずかしいんですよ、これ、混ぜるのが。

宮入さんは現在、複数の大学で非常勤講師を続けながら、ライブハウスでの活動を続けている。片方で言葉を語り、もう片方でギターを弾き音楽を発している。

http://homepage.mac.com/kyohei_miyairi/

この二つのことが、一つの場で、どのようにクロスオーバーしてくるのか、勝手な期待を馳せていいでしょうかね。なぜならその複合的トポスからこそ、愛も夢も、反骨も諦念も、みんな含んだ一個の人間の《ライブな生き様》が発信されるのだと思うから。
つまり本自体は二の次ってこと。

音楽と思考をインテグレートすること、これは現代の感受性にとって、とても基本的かつチャレンジングな問題なのだと思うのですよ。
はい、以上が感想でした。
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2011年11月13日

ディドロと表象文化論

 東大駒場に「表象文化論」という学科があって、これは1986年に成立したのだが、1996年に駒場全体が大学院大学になると、そのなかの「超域文化科学専攻」の中の3つの「コース」の中の一つに位置づけされた。2006年には表象文化論学会の第一回大会が開かれている。

 この学会は会員が300人ほどになっている。科目や講座の名前としては普通になってきた「表象文化論」も、それを名乗る学科は、そんなに増えていない。学生を惹きつけるには少し茫漠としていすぎるのが理由だろう。(首都大学東京大学院では「人文科学研究科」の専攻分野の一つに収めた。この説明を見ると、いかにも高山宏さん風だけど。http://www.hum.tmu.ac.jp/030.html

 僕は1990年に駒場の教員になったのだが、これは「表象文化論」で第1期生が修士に入学したのと一緒である。何が何だかよくわからないまま「表象文化論」に引っぱられ、「アメリカ科」から嘆かれた。そして両方の学科に「二枚看板」の授業を出しつつ、こんなんでいいのかあ、よくないなあ、という授業を例年やっていた(気持ちは、1,2年生の英語教育のデザインにのめっていた)。 そのうちに、大学院生の「指導教官」にもならなくてはならず、その資格もないと思うのだが、なぜか視覚・映像芸術系の研究者の卵を孵す職務を期待された(アメリカ文学系も2人ほど担当した。ポピュラー音楽系の学生は、留学生を別として大学院で指導したことはない。今年のサントリー学芸賞に輝いた大和田俊之さんが門戸を叩いたときも、たしか「表象に来るのはやめた方がいいよ」と返事をした憶えがある)。

 大学を辞めて5年近くして振り返ると、僕と「表象」との関わりって何だったんだろうと不思議に思える。別に「表象文化論が自分の専門である」なんて考えたことは一度もない。
 それでいて、現在も表象文化論学会の理事をやり、学術誌『表象』の編集までやっている。関わっている理由は明白で、要するに若い世代のとつながりを保っておくことで、自分自身を「学ぶ状態に保つ」ことをしていたいのである。
Ohashi.jpg

 ここ2,3年、修士課程のころからよく付き合っていた人たちの著書が並ぶようになって、僕の「学び」は急激に充実してきたように思う。
 たとえば大橋完太郎君。博論でディドロをやっているのは知っていたし、「盲人論」や「怪物論」のさわりも聞かせてもらったことがある。でも18世紀フランスの思想哲学に自分が口を出せるところはないと思っていた。だから送られてきた著書、定価6,500円の『ディドロの唯物論:群と変容の哲学』
のページをめくり出したときは驚いた。「こんなに読める文章じゃないか、しかも面白く読み進められる」。

 文学論でも哲学論でも社会論でも、充分に広い視野に立って「内容勝負」を仕掛けてくる書物は、「専門」が何であれ面白く読めるということの見本のような本である。シンプルといってもいいほどの文が無駄なく整合的に繋がり、書かれている内容が鮮明に頭に入ってくる。これは少なくともディドロの英文テクストくらいは手元において、ちゃんと勉強しながら読みたいと思った。今すぐブログで紹介したいけど、それはフェアではないと。

 だが、そのまま半年過ぎてしまった昨日、表象文化論学会・第6回研究発表集会で、このパネル を聴く機会に恵まれた。
 パネリストの一人、國分功一郎さん(今年の話題書『スピノザの方法』の著者)が僕の感想を口にしてくれたのは愉快だった。読みながら、勉強したい気持ちが盛りあがってくる本だと彼は言った。

 だがもう一人の田口卓臣さんという人が、國分さんをも凌ぐ冗舌を披露した。本郷の哲学を出て宇都宮大学に職を得た人だけれど、ストレートで豪快で、真情で哲学を語れる、目のきれいな38歳(今調べたら、この人は『ディドロ 限界の思考』で昨年の渋沢・クローデル賞特別賞をとっていた)。開口一番「この本を読んで、口惜しくて2晩寝られなかった」と言い放った。
『週刊読書人』(4月22日号)で大橋ブックを評したのがこの田口さんである。一部引用すると、

 それにしても、なんという驚嘆すべき書物の登場だろう。読者はこの大著の頁をひとつひとつめくるたびに、異質な諸学問の混淆を企てるその論述方法が、いつしかディドロ自身の「化学的思考」とのびやかに共鳴しあうさまを見届けることになるはずだ。(……)真摯な思想史の問い直しが、思想それ自体の詩学となりうるということを、本書は身をもって示そうとするのだ。

 こうやって引用しているだけなのも口惜しい。本当は自分の言葉で語りたいのだが、それを僕がやるとしたら、希望的にはまずサイバネティックスの思想(ラムダムネスの哲学)をもって精神の自然史を語った20世紀の啓蒙家ベイトソンの思想の系譜を過去に溯るところから始めることになるだろう。その上で、百科全書的小説家ピンチョンが18世紀的な語りに挑んだ『メイスン&ディクスン』と交わる地点を模索する、というのが自然のコースだ。そこに18世紀の百科全書派の思想が見出させるかどうか、それは分からないが、とにかくその種の準備を経ずに、 "大橋ディドロ" の論説空間に踏み込むのは不適切で勿体ないことに思える。だからここでは残念ながら話を逸らす、というか振り出しに戻すことにする。

 振り出しというのはつまり、「表象文化論とは何か」という問いだ。東大駒場の学科(コース)案内には、こんなことが書かれている。
 新たに創設された学問領域としての「表象文化論」は、単なる一ディシプリンであるにとどまらず、既存の諸分野にゆるやかに浸入し、浸透し、それらのメイン・プログラムを内側から書き換えて、まったく新たな知の光景を現出させる批判装置として機能することを夢見ている。それはまた、実証的な手続きを踏んだ堅実な論究と、大学の枠をはみ出して現実に直接働きかける実践の力学とを共存させ、そこでの葛藤とディレンマそのものを生産的な糧としつつ、今、21世紀の「知」の空間に向かって大きくはばたこうとしている。
 これは2000年に刊行された全6巻〈表象のディスクール〉の巻頭言からの引用である。編者は小林康夫+松浦寿輝。小林さんも50歳になって、制度の中心として大人の物言いはしているけれども、「侵入し、浸透し……書き換え……まったく新たな知の光景……夢見ている」あたりの言葉遣いは80年代ニュー・アカデミズム以来というか、おそらくは世紀初頭のモダニズムに溯るクリシェーだろう。

 でも、空虚に若者の夢を煽るこの無責任が、(生真面目な研究志願者の人生設計を狂わせつつも)結果的に功を奏した、ともいえるのかもしれない。ディシプリンとしては今なお訳が分からない表象文化論も(そして学会も)、とにかく人材を吸い寄せる力は失っていない。その集まってきた人材が、局地的ながらケミカルな反応を生じさせていることが、こうやってポツポツと登場する処女作(と言ってはいけないのか今は)の数々から明かされる。

 啓蒙の可能性にとって素敵なことに、ヒョーショーという集団は、その渦の中心にいる人間にも、何をするところかわかっていない。ただし視野の狭い学術研究は、いくらキチンとしたものであっても「表象的でない」という言い方はされる。動的なものを複眼的に見据える−−デカルトではなく、ディドローがやったことをなぞろうと務める。

 つまり話は簡単なのだ。人文学が専門に分かれることには、単に戦略的な意味しかないのであって、門の中に閉じこもっていたら教養もヘッタクレもありはしない。文学哲学において、いわゆる専門的、棲み分け的なアプローチから生まれるのは民主主義の体裁をまとった官僚主義的低落である。質を下落させず、むしろ上昇させるためには、秀逸な人材を逸らさずに集めるため〈エクセレンス・センター〉のようなものが必要だ。人を集め、集まった人たちによる相互作用(ケミストリー)が、まずはそれぞれの専門的熟成をもたらすのを待つ。ベイトソニアンとして生物学の比喩で言えば、専門という殻は、生物の発生にとって必要不可欠なシェルターを提供するためのものであって、生命の営みは、外界とのインタラクションにこそある。文学哲学にあっては、専門の中で必要な器官を造成したら、外界を歩くことで筋肉を鍛え、外界をまさぐっていくようでなくてはならない。啓蒙の光は〈外〉からやってくるしかない。
 文学部の再生のために必要なのは、哲学・歴史・文学から心理社会まで(それに〈メディア〉という現代の条件を加えた全体について)「もっと知りたい」という欲望を相互に喚起し続ける場と契機とをどうやって確保すべきか、という思考である。

 駒場で教員をしていたころ、「表象文化論」というアイデンティティの希薄な、英語名もしっかりしていない(*)学科でふらふらしたせいもあって、お人好しの僕は、マージナルな何でも屋をこなしていて、みずから研究者としてはほとんど機能できずにいた。それでも振り返ってすごくスッキリした気持ちでいられるのは、そうしたフラフラの一環としていろんな観察や交流があったことだ。大橋君のような人たちが、ヒョーショーという動的で複合的なエクセレンスの場において、香ばしく発酵していくようすも観察できた。いや、当時は単にいいバイブを感じていただけで、その発酵がいかなるものだったのかは、この本を読み出すまで、よく知らなかった。なにより、この男についていったら、この先面白いことになるぞ、という気持ちを本気で抱けるのがいい。
 表象文化論のサークルに受け入れてもらったことで得をしたという気持ちにようやくなれたことを告白するために、今日のエントリーを書いた、ということかもしれない。


(*)culture and representation course が発足時の正式登録名のはずなのだが、研究室の国際文書用封筒などには Department of Cultural Representations などと刷ってあったりするのです。どのみち世界に例を見ない学科名です。
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2011年10月28日

モンキービジネス最終号

monkey business
柴田元幸
責任編集

2011 Fall vol.15
最終号



届きました。

帯にこう書いてあります。


最          終        号
柴   田   元   幸   新   訳
「 ト ム ・ ソ ー ヤ ー の 冒 険 」
一     挙      掲      載




そうか、六本木の創刊パーティから、季刊1年4号x4年 マイナス1号、
そんなに月日がまわったか。
その間に、だんだんぶ厚くなっていくところが柴田君らしい。
人の輪がおのずとみたいに回りだすんですよね、これが。

人の渦を回せる。猿回しじゃなくて、猿の人回し。
どんな物を差し出すと、人が回るか知っている。
「トム・ソーヤー」という選択が、なんという正解だろう。
ハックじゃ、逆に重いんだな、これが。
「野生児」とか、「浮浪児」とか、標榜しちゃうと、ほら、
観念がついてきて、偉そう。だからトム。
いかにも日比谷高校の選択、と高崎高校のエイプは思う。
(同じ猿でも、「モンキー」は「エイプ」じゃないの。シヴィライズされてるんです)


でもよくまあ、15号、全部送ってもらいました。
それ以外も全部送ってもらっています。
一番最初から、たぶん一冊も欠かさずです。
シバタ本ゼンブ。
いつももらいっぱなしだし、
あまり優遇していなくて、わりと早く階段に追いやられ、
段ボールに入れられたりするんで不憫だけど、
ぜったい古本屋にはもっていかないし、人にもあげない。
だから蔵書に占める「シバタ率」、年々上がっていきます。

ひとまず、おつかれ。
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2011年10月16日

いいもん、ロックは純文学で:『文化系のためのヒップホップ入門』

「いりぐちアルテス」というシリーズを、音楽系出版社のARTES が始めて、第一弾が
音楽用語ものしり事典(久保田慶一著)

「テンポと天ぷらはルーツが同じ」という話の次に何をぶつけてくるのかと思いきや−−

51drgAbu+DL.jpgいりぐちアルテス:002


 帯に書かれている英語版タイトルをみたら
 HIP-HOP for B-Boys だって。その「B」に Bunka-kei という註釈がついている(笑)。

 じゃ、ホントはB-Boy って何の略か、をベタに「いりぐち」の人がたずねても注はない、ってのは別にケチをつけているのではなくて、
 28ページから

ボビー・バード、★インクレディブル・ボンゴ・バンド、★アフリカ・バンバータ、★『湘南暴走族』、★バルバドス、★ビートルズ、★モンキーズ、★ニール・ヤングとスティヴン・スティルス、★グランド・ウィザード・セオドア、★グランドマスター・フラッシュ、★コーク・ラ・ロック、★DJ・ハリウッド、★〈ラヴ・イズ・ザ・メッセージ〉、★グリオ、★サイファー、★ウェイアンズ兄弟、★ラスト・ポエッツ、★ギル・スコット・ヘロンと続いてやっと39ページに出てきた、★ブレイクダンスにも「Bボーイ」の言及はなし。

それでいい。テクストがどうの、じゃない。
この本が用意しているのは、ヒップホップの「いりぐち」という〈場〉なのであって、その〈いりぐち〉が思いのほか豊饒で教育的だという点が通じるから、この本はいい。

 (ワタクシごとのつぶやき):むかし『ロックピープル101』(1995)という本を編んだことがあって、その時、共編者の柴田元幸が今の大和田君と同じ年くらい。その帯に、新書館の熊谷さんかな(違っていたら言ってください)編集部で書いてくれた帯の文句が、「先生、ロックってなんでしたっけ。」だった。ロックの成立が50年代で、ヒップホップがその20年後とするなら、長谷川・大和田世代から「ヒップホップってなんでしたっけ。」に応える総括的教育ブックが出てきていいころではある。ただ、その本は、『ロックピープル』みたいな、作家主義やテクスト志向を採る本にはならないだろう。

 教育的になった理由は、長谷川x大和田 という世代的に近くてアプローチの違う二人を絡ませた点にある、と思いました。
 ひとつの「ヒップホップ主義」を押しだそうとする長谷川町蔵と、それを受けながら、本家アメリカでの知的受容の受け皿を差し出していく大和田との対話は、illuminating つまり、その語源的な意味で「啓蒙的」。特に長谷川は「隠喩の閃光」重ねていく方法によって、彼のヒップホップ理解を伝えてくる。 以下、すべて本書の見出しになっている〃隠喩的ひらめき〃の諸例:

◎ヒップポップは『少年ジャンプ』である
◎ヒップホップはプロレスである
◎ヒップホップは「お笑い」である
◎ロックは純文学、ヒップホップは Twitter.

大和田も隠喩作りには参画しているが、少々性格の違う隠喩を使う。大風呂敷というやつだ。たとえば、
◎黒人音楽は「大縄跳び」だ。(「場」に参加して「跳びたい」と思う人に開かれていて、誰が一番かっこよく跳ぶかを競う)

一方の長谷川の閃きは、隠喩的ではあっても包括的ではなく、峻別的である。冒頭で「ヒップホップはゲームである」という理解を「ヒップホップは音楽ではない」という理解と絡めて差し出す。これはヒップホップ・カルチャーに備わった「ディス」しながら「ディグ」するという理解系に沿った知のスタイルであるといえるだろう。ロックはさあ、ほら、純文学でしょ。ああで、ああで、ああいうところが。その点、ヒップホップは Twitter で−−

 表現する側も、自己表現したいというよりは「セックス」や「ドラッグ」っていう「ハッシュタグ」に対して気の利いたことを言ってフォロワーを増やすことがモチベーションになっているわけです。(P. 239)

 これも一面鋭い指摘だ。たしかに、サトチョンのブログをあり方など見ると、これは Twitter の真逆であり、めちゃくちゃロックで純文学である。
 ところで、ワタクシが思うに(大和田俊之も、その方向に議論を押し戻そうとしているところが読めるけど)、峻別的にディスしていくのでは得られない種類の知というのがあって、この種の融解的メタファーに対して、ロック(60-70年代の)と純文学は共通して親和性が強いように思うんですわ。

 『重力の虹』(1973)を例にとると、あの本は第二次大戦を
◎連合国は枢軸国である
という、全包括的にディスる立場から扱っている。これはロックだと思いますね。しかるに純文学、むむ。

 あとこういう企画やるみたいです。
10/22 ジュンク堂書店新宿店
『文化系のためのヒップホップ入門』刊行記念トークセッション
“ヒップホップと音楽の未来”
長谷川町蔵×大和田俊之×ゲスト・佐々木中
posted by ys at 12:11| Comment(0) | いただいた本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする