2011年10月09日

全貌フレデリック・ワイズマン

 『全貌フレデリック・ワイズマン:アメリカ合衆国を記録する』

 この本を送ってくださったのは、岩波書店の田中朋子さんです。
 編者の鈴木一誌さんがあとがきで、「フレデリック・ワイズマン監督の本をつくりたい[という]思いを、誰よりも強くもち、持続させたのは田中朋子さんだった」と書いています。う〜ん、そうだったんだろうな、と8年がかりだったというお仕事の現場を、想像させていただきました。

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 この本は600ページを超え、
第一章に(3日間かけて、34作品それそれを語ってもらった)長篇インタビュー

   中央の2,3,4章に評論や鼎談やパースペクティブを与える解説を置いたうえで、さらに

第五章に充実の全39作品それそれについての解説を配しています。

ワイズマンを多角的にかつ、作品のそれぞれに関して具体的に、捉える試みというわけですが、

特に最初の180ページを埋める、舩橋淳によるインタビューは、
ワイズマン氏の実直さが、自身ニューヨークで活躍してきた映画作家の熱い質問によって刺激され、その明晰さは圧倒的です。

これほど澄み切った会話が行われたこと自体に、快感を覚えます。

ブックデザインがまた卓抜。
本屋でこの本に出会うあなたは、黒いフィルムの光沢を持つこのオブジェにゾクゾクさせられるでしょう。
 
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2011年08月05日

音楽は動詞だ、Shall we music?

(改訂版アップ:5日17時)(改題:6日07時)

野澤豊一さんは、アメリカの黒人教会という、信仰と音楽とが絡み合う場でフィールド・リサーチを続けている。
西島千尋さんには、こういう著作がある。『クラシック音楽はなぜ〈鑑賞〉されるのか』(一章「ためし読み」ができます。)
ふたり共訳でクリストファー・スモールの本を訳出した。
『ミュージッキング−−音楽は〈行為〉である』野沢豊一+西島千尋訳(水声社)
原題は Musicking: The Meaning of Performing and Listeinig
英文はこちらで読めます。

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題名のポイントは、音楽を名詞で考えないというところだ。音楽は「もの」ではない。人間の言語は世界を「対象 objects」に分割するがゆえに、音楽ですらも、固定した「楽曲」としての姿に固めてしまうことになったけれども、そのような実践は、人間の音楽との関わり全体の歴史のなかで、ごくローカルな現象にすぎない。音楽を動詞に戻そう−−というと、あまりにわかりやすく聞こえるが、思索は深い。スモールがもっとも根底的なところで依拠しているのは、グレゴリー・ベイトソンの「ものの知り方 epistemology」である。となれば、僕も読まずにはいられない。

ベイトソンの数々の洞察の中でも、次の一節は僕の「言語観」と「音楽観」に同時に影響を与えることになった。

もし人の進化の過程で、コトバというものが、それまでキネシクスとパラ言語が果たしていたコミュニケーションの機能を新たに担う者として登場したのだったら、古いイコン的イコン的システムはいちじるしく退化しているはずである。ところが実際はそうでない。それどころか、ヒトのキネシクスは,コトバの発展と並行するように、一段と複雑な、表現豊かなものになってきているのだ。われわれは美術・音楽・バレー・詩など、キネシクスとパラ言語による精緻な作品を愉しんでいるし、日常のコミュニケーションでも、顔の表情の微妙さ、声の抑揚の精密さは、知られている動物の表情や鳴き声の比ではない。
−−「冗長性とコード化」(1965, 1968)、『精神の生態学』所収、p.550.


「キネシクスとパラ言語」とは、身振りや抑揚など、いわゆるノンバーバルな「伝え」の要素をいう。デジタル・プリンターが登場すると、アナログ的なガリ版切りの技術は廃れていくけれども、人間におけるヴァーバル(ほぼデジタル)な記号言語の登場は、それ以前のアナログ的・イコン的コミュニケーションを貧しくしせず、むしろ豊かにしたということ。

ここから音楽と言語の連携的な進化を考えないと、まっとうな音楽論も、まっとうな言語論もでてこないのではないか。

と、そこまでは僕も思ったのだが、この洞察を起点に、一冊の書物を書いてしまったのがクリストファー・スモールである。1927年生まれというから、ビート詩人とほぼ同世代だ。この本は、ベイトソンの『精神と自然』がそうであるように、70歳に達した著者が、あるテーマについてというよりも、人間的宇宙の一側面の全体について書いた本であり、狭い意味での学術的思考を超え、個人的であるがゆえに可能な〈智〉をにじませる本になっている。

基本コンセプトを、よくまとまっている紹介サイトから引用しておく。
"Small's intention is to critique the idea of music as a one directional process from performer to passive audience. For him 'musicking.. is an activity in which all those present are involved and for whose nature and quality, success or failure, everyone present bears some responsibility. It is not just a matter of composers, or even perform-ers, actively doing something to, or for, passive listeners. Whatever it is we are doing, we are all doing it together−performers, listeners (should there be any apart from the performers), composer (should there be one apart from the performers), dancers, ticket collectors, piano movers, roadies, cleaners and all'. Musicking is not just about live performance: dancers in a club, somebody walking down the road with an iPod and people whistling in the bath are all musicking too in Small's definition."
http://history-is-made-at-night.blogspot.com/2007/01/musicking.html

 音楽とは、人間のいる場にそれだけ大きな広かりをもつ波動現象なんですよ、と言っている。別に目新しい理論を開示してくれるわけではない。「参考文献」を見ると、ベイトソンの他、クリフォード・ギアツ、ピーター・バーガー、ギー・ドゥボール、J. E. ラブロックなど、著者が一生の間親しんできたに違いない著作があがっている。数は多くないが、いつまでの忘れがたい本を選んでいる。たとえばレイモンド・ウィリアムでみると、『キーワード』が一冊だけだ。そういう本とのつきあい方を、ベイトソンもしていた。

 musicking の理想化された「本源」をアフリカ系の人たちのミュージック・ライフに求めるところは、ポスト・コロニアル批評の標的に、みずから進んでなっていくという態度表明でもある。そこは彼も自覚している。

 ここに登場するアフリカの牧夫が、エドワード・サイードが雄弁に批判した「他者」の表象(……)に酷似しているではないか[と友人たちから警告された]。この牧夫はリアルで個性をもった人間というよりは、代替可能な人間、理想像にすぎないかのように映る、というのだ。
 彼らのコメントには頭が下がる−−おそらくその意見は正しいのだろう。だが私は、このフルート吹きのことを「他者」としてでっちあげたつもりはないし、彼のことを心から気に入っているのだ。それどこか彼は私の友人であり、ミュージシャン仲間としても尊敬すべきやつである。だから、もし私の描く彼の姿が「他者」のように映るとして良、それは私の表現が不完全だからだと思ってほしい。(p. 375)


 他者表象云々の議論はつまらないですよ、と低姿勢で言っている、音楽を愛するじいさんのその言い方に共感する。議論や論争はあってもいいけれども、それは音楽の一部ではない。これは、よい音楽のための本である。よい音楽ライフにとってマイナスになる意識を沈めて、Let's music well. これは音楽を通して人間存在のルーツというべきものに再接続をはかるための、しずかな思索の本である。
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2011年08月04日

豚も真珠、サトチョンも英詩

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川本皓嗣さんからエレガントな本をいただいた。『詩をどう読むか』。クリーム色の誌面に、薄めの墨色のインク。英文はクキッとした palatino のフォント。著者は、学術理論のきらいな僕も彼の Literary Theory (『文学とは何か』)だけは読んだことがあるというテリー・イーグルトンで、帯の背に「目の覚めるような読解」とあるのは岩波書店の担当編集者、天野泰明さんの作品か。

 川本さんの授業は駒場の最終講義を聞かせていただいたことがある。くつろいだ雰囲気を演出しながらリスナーの心を摑み、話すことの9割を9割の学生に分からせてしまうという、非常に「シュアーな」(という形容詞を、むかしの野球解説者は使ってましたよね)話し手であって、この本は、ああ、川本さんなら、この本ピタリだという、繊細にして豪放な英詩的コミュニケーションの手引きである。読んでみると、ほんとに教育的。授業を聞いているのと同じ臨場感もあって、1ページ10円の定価は安いよと思わせる。英詩を頑固に学ばすに英文科を出た僕のような不届き者も、死ぬ前にちょっと、イギリスのグラマースクールの生徒にでもなったつもりで poetry をひと舐めしてみような−−という気にさせられる。

If they be two, they are two so      かりに二つだとしても、それは
As stiff twin compasses are two;      二本足のコンパスなみの二つだ。
Thy soul, the fixed foot, makes no show; 君の魂は固定した足で、動くとは見えないが、
To move, but doth, if th'other do.      相手が動くときには、自分も動く。

And through it in the center sit,     真ん中にじっと立ってはいるが、
Yet when the other far doth roam,     相手が遠くをさまようときは、
It leans and hearkens after it,      身を傾けて様子を訊ね、
And grows errect, as that comes home.  相手が戻ればすっくと立つ。


詩の一節を引用し、端的なコメントをつける。大岡信の「折々のうた」ではないが、この本を食卓の近くに常備しておいて、朝、朝刊のコラムを読む代わりに、一篇(一断片)ずつ読んでいったら、一つの季節は優にもつし、毎朝「眼の覚めるような」思いを味わうことができる。
 それぞれについているイーグルトンのコメントがまた、なんともイギリス的に(偏屈に)筋が通っていて、朝の眠気を吹き飛ばしてくれる。

この奇想は強引な作りもので、才気煥発のへそ曲がりが、無理矢理ぐいと詩にねじ込んだものなのだが、読者がその強引さに気がつかなければ、この離れ技の値打ちはぐっと落ちることだろう。ここで読者が注目するのは、恋人たちの身の上ではなく、むしろこの詩人がどうやら大変な無理を押して、この世のてんでんばらばらな断片を寄せ集め、それを生き生きと一つにまとめあげた手並みの方だ。

 英詩とは関係なく生きてきた僕も、たとえば今掲げたジョン・ダンの詩は、ベイトソン『精神と自然』(第5章「重なりとしての関係」)の冒頭に引用されていたので訳したことがある。いま『重力の虹』を訳しているので、第二次大戦下のイギリス兵士の死を詠んだ歌などに接すると、気分を出して朝食後の仕事場へ上がっていくことができる。それがピンチョン好みのリメリックなら、なおさらいい感じだ。

There was a young poet of Japan   ニッポンの若い詩人
Whose verses never would scan;   韻律があまりにも理不尽
When they asked him why      どうしてかと訊ねたら
He said "It's 'cos I         「だって僕ときたら、
Just can't help getting as many words into the last line as I possibly possibly can.
                  最後の行にありったけ言葉を積み込みたくてしょうがないという変人」


このあたり、ホフスタターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』という本に載っていてもおかしくない自己言及のおかしみがある。川本さん、訳詩にもちゃんと韻を踏ませて楽しんでいる。
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2011年07月08日

僕の力道山体験の深みを抉ってくれた本

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(7月8日23時過ぎ 一部加筆)

面識もないのに、贈っていただいた『力道山をめぐる体験』
個人的に価値ある本だったので、この評が安物だったら申し訳ない。

「プロレスから見るメディアと社会」という副題だが、力道山と戦後の日本人のルサンチマンを、テレビが浸透していく過程、およびプロレス言説(大新聞、スポーツ新聞、週刊誌、世間の目)の変動を横軸にして追っていく。

読み出してすぐに著者がプロレスのファンだと分かるところがいい。
つまり、ロラン・バルトほどの筆力がある場合は面白いのだが、そうでないと、こういうネタを題材に「記号論」をやられてしまうと困るのだ。
ウソづけられたのゲームの中でも、ディープ・プレイは始まる。半ば夢にとろけながら、身体に宿る太古の記憶も巻き込みながら、ウソはホンキと絡み合う。
このブログで最近論じた大和田俊之のアメリカ音楽論も、輪島裕介の演歌論も、「夢にとろけていた存在」の「擬態」の姿を明らかにしたのだとすれば、こちらは、対象と組み合い縺れつつ、「ウソ」を「マコト」へ流していくことを志向する。

これは論文では危険なことであって、プロレスではなく、論自体を愛する人には、議論が少し泥っぽく(not very articulate)感じられるかもしれない。それを僕は「誠意」と取りたい。
村松友視に寄り添いすぎて、「私、プロレスの味方です、の味方です」と言ってしまっているようなところもあるのだけれど、それも悪いとは思わない。
論文にせよ何にせよ、言葉を使うことにシングル・マッチはありえないので、結局は誰かとタッグを組み、援護をウケながら書くわけだ。それを隠さないのも誠意だろう。

なにより個々のレスラーに敬意を持ち、試合やその背景をきちんと描いてくれているところがいい。
その部分がしっかりしていることが原因だろう、読みながら、僕の人生の礎の部分に、光が当てられていくような気持ちになった。

つまり著者小林正幸さんのおかげで、自分のアメリカかぶれの原点を知った。
5歳でプレスリーにかぶれたわけはなし、いったい自分はなぜ子供のときからアメリカを志向していたのか、ということだ。

力道山は日本のエルビスだったのかもしれない。いや、朝鮮半島を「日本の南部貧農社会」と呼んだらマズいだろうが、では日本の誰が、テレビの起動期にエルヴィス並みの成功を収め、得た富をエルヴィスのようにストレートに物質的な形で表現したかといえば、そのヒーローは、力道山しかないだろう。長嶋茂雄じゃない。長島と坂本九は次の段階だ。この二人においては、アメリカ由来のベースボールやポップスを、「日本人として安定している国民」に届ければよかった。力道山は、「アメリカのプロレスの楽しみを、日本に広めた」のではない。

彼は、アメリカのタームで、アメリカと競ったのだ。相撲や柔道でプロレスに対抗したのではない。それは強力な「日本の否定」の上に立った、アメリカン・ドリームの追求だった。(ロックの初期に、日本語を捨てる衝動に僕らはは走ったが、それは日本のロック第1世代が力道山で育っていたことと関係があったのかもしれない。)

僕が17歳でアメリカに1年間、交換留学生でアメリカに行ったとき、「日本は、あなたたちが思い描くようなエキゾチックな国ではない。日本はすでに90%アメリカで、もうすぐ100%アメリカになるだろう」みたいなことばかり言っていた。いまはまだ、タイガースやテンプターズでも、ゴールデン・カップスの次には、日本のヴァニラ・ファッジも出てくる……というくらいの認識だった。その、日本人として、かなり狂ったアイデンティティを植え付けたのが、アメリカを体現しつつアメリカにぶつかっていく、本書で強調されている力道山の姿だったのである。

少年雑誌の表紙を飾った力道山の表象が浮かんできた。ジャケットの衿の演出も、ダンディな髪型も、ちょっとばっかプレスリーに似せた感じに思えてきた。

ちょっと個人的なことを書かせていただく。
日本では1953年にテレビ放送開始。それからしばらくは「街頭テレビ」の時代だったが、我が家には、その1953年にテレビが見えたのだ。NHKのヒラの技術屋だった親父が、2万円でキットを買って組み立てたと聞いた。ただの丸いブラウン管を入れる箱を、近所の箪笥屋さんが作ってくれた。それが、転勤先の甲府で住んだボロ屋に置いてあった。

シャープ兄弟との最初のマッチは僕が3歳のときだから、その記憶はない。通行人がボロ屋の木塀の向こうに人だかりをつくって、塀が壊れてしまいそうになったので(家庭のテレビが「街頭テレビ」になってしまったわけだ)、とにかく中に入ってもらった−−その一戦の相手も記憶にない。記憶にあるのは、夜10時過ぎまで布団が敷けなくなくて起きていたこと、人垣が去っていったあと、畳にタバコの焦げ跡があったりで、父母が珍しく口論を始めたこと。

認めよう。力道山の映像を僕は3歳から13歳まで浴びている。オキシキナもユセフ・トルコも、記憶の一番の深みに染みこんだ名前である。子供の無文字文化の中では、ダラ・シンに中黒などつかなかった。オルテガは、カルピスとの区別がよくつかなかったときから知っている(甲府市の中心街のビルの上にカルビスの宣伝ビルボードがあって、黒くて大きな、帽子をかぶったキャラが描かれていたんです)。

馬場の時代になって、プロレスはどうでもよくなった。馬場の試合のテンポは、村田英雄の歌の 60 beat/minute くらいに感じられた。「16文キック」は名称からしてダメだった。あれに「カラテ・チョップ」の(シニフィアン/シニフィエ双方が)もつ、アメリカ的崇高さは微塵もない。

その力道山がいなくなったのは、ケネディ大統領が撃たれたのと一緒の頃。すでに固まっていた僕のアメリカかぶれは、NHK基礎英語に向かった。その何ヶ月後かには、ビートルズがいた。
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2011年06月21日

うひょう、書評評だ。

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プロの仕事をガンカンやってくれる書評家・豊崎由美さんが、モームスの歌のような『ニッポンの書評』という新書を著して、わざわざ寄贈してくださいました。

サトチョンもときたま出してもらうNHK-BSの「週刊ブックレビュー」でも、スラスラ、ハキハキ、物事の原理原則を説きながら細部をきちんと展開していく彼女の言語運用能力には、たまげることしきりです。

この本で特に感心したのは、心無き素人による、目に余るネットへの書き込み誹謗(アマゾンなど、けっこうヒドイの見ますよね)をしっかりと強い言葉で叱っているところ。そう、誰かがしなくてはならない教育の仕事を買って出ている姿が頼もしく、嬉しかった。

まだお友達でないのになぜ送っていただけたかというと、私がかつて書いた書評(古川日出男『聖家族』)と豊崎さんの自身の同じ本の書評とが並べてあって(一緒に越川芳明さんの書評もあった)、越川さんもサトチョンも、いわば「書評評」されたから。

どう書かれたのかまでは紹介できません。ともかくサトチョンとしては、しっかりもんの妹に、「お兄ちゃんはヤンチャなだけで、いいとこあるのよ」と言ってもらえたフーテンの寅次郎のような気持ちがしたのでした。
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2011年06月17日

いい本が出た。

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ピンチョンを読むなら『競売ナンバー49の叫び』から、というのが定説だったけれど、この頃ぼくは、長いけど『逆光』などどうでしょう、と答えることがある(相手が、科学少年か物語少年だったりしただろうと思える人には、執拗に奨める)。

 この大作、最初手にしたときは、なんだこのスラスラ感は、と思った。「ふつうに読めるのに、やっぱりピンチョン」という感じが奇妙だった。
 もちろん『ヴァインランド』も『メイスン&ディクスン』も、若い頃の作品に比べれば一定の流れやすさがある。だが、『逆光』のもつ物語の自然な滑りというか、受け入れやすさというのは、それまでとはレベルが違った。ピンチョンさん、回心しましたか、とさえ思わせた。大掛かりな装置を外して、語りがリアルに進行するさまに対して、 「Unplugged Pynchon」という形容を使いたくもなった。

 しかしあの長さである。なにか手引きが必要だ──と思っていたところ、そこは,きっと準備のよい人なのだろう、木原さんは、この大著を訳しながら、ガイド本の原稿を書き溜めていたらしい。

 ピンチョンを訳すとき、どうしても、訳文に盛り込めない大量のことを調べるハメになり、その調べ事は読者にとっても有用だからと、註を増やしたくなる。その大量のことを、よくこれだけうまくまとめることができるなあ。(木原さんの最初のピンチョン論も、ピンチョン論として非常な軽みを持った本で、まるで読書ガイドの延長線で書かれた本、という趣きだった)

 世の中には、"Communication is the key." ということが分かっている人間と、サトチョンのように分かっていない人間がいて、サトチョンは、どちらかというと自分の思考を神(か、ピンチョンか、とにかく自分の遙か頭上におわす人)に向けてしまうクセがある。その点、木原さんは、現実の日本に生きて暮らしている人たちをいつも頭においていて、翻訳でも、解説でも、「ここまでなら上手に伝わる」ことを意識して仕事をしているように感じる。

 このたび上梓された『ピンチョンの「逆光」を読む──空間と時間、光と闇』。これも、作品とつながり、読者とつながり、必要な補助線をどのくらい引いていったらいいかということを瞬間的に把握しながら、上手に書き進められた本という印象。いや、単にテクニックの問題ではないはずだ。よほど頭が切れる人でないと、ピンチョンのテクストを仕分けて淀みなく語るという芸当はできない。

 京都大学術出版会刊の『トマス・ピンチョン──無政府主義者の宇宙』も完売と聞きましたが、『メイスン&ディクスン』まで各作品の、重すぎないガイドとして機能していたあの本、今回の本の弾みでもって、ガイドに徹してまとめ直したら、大いに日本のためになると思いましたよ。
 
 ともあれ、この本が現れたので、「ピンチョンは何から読むのがいい?」と問いに対してサトチョンとしては、「ファンになって、いろいろ読むつもりだったら『逆光』から読むといい」と、答えることにしようと思います。
 (とにかく1冊読んで体験しておきたい、というのならやっぱり『競売ナンバー』ですけどね)
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2011年05月31日

『世界文学リミックス』の表紙の鳥が描いているVについて

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池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 全30巻(河出書房新社)については、このブログにわざわざいらっしゃるような方なら知らぬ人はいないだろう。「毎日出版文化賞」「2010年度朝日賞」──ダブル受賞も当然と、みんな納得する21世紀初頭の、リフレッシングな文学的事件である。(自分も参加させていただいている身で不遜だけれど、みんながスゴイと思うものには、口をそろえてスゴイといいたい)
 その全30巻への贅沢なおまけの一冊として4月に出版されたこの本は、全集の(全集に入っていない作品をも含む)内容マップを兼ねた口上集ともいうべきもの。「ヒッチコック劇場」(50歳以下の方はご存じないか)の頭に、アルフレッド・ヒッチコックが登場してしゃべる、そんな感じで(だいぶ違うけど)、『夕刊フジ』の紙面に3年間149回書き続けられた文章の加筆精練バージョン。

 で、本の装丁も全集と同じで、ちょっと違う。表紙の鳥の並びが違う。全集では(短編集を除いて)1羽か2羽だった銀の鳥が11羽いて、全体でV字をなして飛んでいる。
 それを見て、僕の胸がキュインとなった。ちょっとパラノイアっぽいが、このマークに一瞬、池澤さんが、全集に入れることのできなかったピンチョンの『V.』への思慕がこもっているように見えてしまったのだ。

 全集企画が大成功し(新潮版とのバッティングが懸念された『ヴァインランド』まで、何ともありがたや、重版のコールがかかった)、一方で新潮社の「全小説」も予想を上回る好調さで動いているので、お話しする気持になったのだけど、当初の池澤さんの頭の中には、『V.』の新訳をこの全集に入れるぞ、という思いが強くあったことを僕は聞き知っている。
 
 僕が『V.』に初挑戦したのは、1976年のことだったけれど(まがりなりに読み終えたのが翌年のこと)、そのきっかけになったのは、東大に非常勤講師としていらしていた志村正雄さんが、授業後の研究室で、院生の受講者だった僕に、「池澤夏樹がねえ(たしか呼び捨てだった)、『V.』を読んで地中海にいかれてしまってねえ、今ギリシャに行ってますよ」と、嬉しそうに言ったことだった。

 その後、池澤さんとお会いする機会はなかったが、だいぶ経って『ユリイカ』のピンチョン特集(1989年2月号)で「『V.』の航時性について」という論文を読ませていただいた。ピンチョンの物の見方、のみならず、物の書き方までクリアに見えている、そんな論文を読んだのはこのときが初めてだったので慄然としたのを覚えている。
 ちなみに、その論文の冒頭の一文がこれ──「今さら『V.』について何を言うことがあるだろうか」。世界文学全集に入らなかった『V.』が、新潮社から出たこの春、帯の「推薦の言葉」を求められた池澤さんが、何食わぬ顔で(と想像する)差し出した一文がまさにこれである。そのときの、だいぶ複雑だったのか、単にお茶目であったのか僕には知るよしもない池澤さんの心境が、担当編集者に伝わったどうかも、僕は知らない。
 ちょうど池澤さんの世界文学全集計画が進行しているときに、ピンチョンのエイジェントと新潮社との担当者の間で、「全小説一括版権交渉」がまとまったのだ。

 そんなワケで(どんかワケかは、僕が知る必要はない)、『V.』ではなく『ヴァインランド』が全集入りをした。それは残念なことだったのか、それでよかったのか、それは誰にもわからない。(この項続く)
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2011年05月30日

アメリカを視る目が変わる

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(5/31 文章を少し調整しました)
原題が White Guilt. 
「白人の罪悪感」を、時代を駆動する力として捉えた本ですが、『白い罪』とは、径(こみち)さん、いいタイトルを考えました。
 ただどうかな、「公民権運動はなぜ敗北したのか」という副題は、本書のスコープを、やや矮小化してはいませんか。原副題は「白人と黒人が一致して公民権運動の希望を打ち砕いた経緯」というような意味で、このアイロニーの味わいこそが、副題をつける意味だったのかも。

 それはともかく、クリントンのモニカ・ルインスキー・スキャンダルから書き起こすこの論考のスケールは、60年代の意識変革(フリーセックスからカウンターカルチャーすべてに及んだブーマー世代の「若者革命」)が、その後の時代に、どんな権力、どんな制度を呼び込んだのかという、重要な洞察を含んでいます。

 僕がときどき口にする「《時》の研究」の、ひとつの、意義の大きな実践だと思われます。

 ビル・クリントンやニール・ヤングと同年齢のシェルビー・スティールは、20世紀なかば以降に起きた黒人解放の時代を「白い罪悪感」が支配する時代と捉えます。
──1950年代にアイゼンハワーは私生活で「ニガー」という言葉を使って許されたろうが、愛人のフェラチオがバレで職に留まることは許されなかったはず。それと正反対の時代が到来している、と。
 要するに「ホワイト・ギルト」が道徳的権威として社会に居すわっているということです。
 この新しい心の制度は、社会のさまざまな領域に広く深く影響するわけですが、わけても、白人の罪悪感ゆえに、競争社会のなかで保護される黒人同胞の「人間的脆弱化」を著者は突いていきます。次の等式に、僕はうなりました。

 マイノリティ + 責任 = 人種主義
 マイノリティ ー 責任 = 道徳的権威

マルコムXは責任を引き受けた結果、人種主義に走った。その責任を放棄するところに、個人の生の輝きを犠牲にする「権威」が成立する。
「責任を失って権威になる」という言い方、深いじゃないですか。日本とアメリカ、個と社会との関係は対照的なところがありますが、制度による「甘やかし」がどのような問題を生んでいくのか、という点に、違いがあるわけではありません。
 原発事故でもあらわになる「専門家」という名の無責任集団。
 
「責任」って、やさしい言葉のようだけど、単なる組織の「職責」ではない、組織であれ個人であれ「主体が担う責任」というのが、忘れられてますよね。
 たとえば、いま日本の英語教育界で、誰が、どのような「責任」を口にしているでしょう。

 責任(responsibility)とは、コネクトし、相手の求めに対応(respond)する能力をいうわけです。
 いま、日本で教えられている英語は、何にコネクトし、何の求めに対応した姿をしているのでしょうか。
 大学の教育現場にかぎってみても、

 エリート ー 責任 = 権威

 という(アメリカとは違う日本的な)構造を支える営みが日々演じられていないでしょうか。少し、この点に関して、このブログでも具体的に踏み込んでいきたいと思います。

 なおこの訳書でも、きわめて的確な注釈を書いている藤永康政さんは、佐藤良明監修として出ている『マルカムXワールド』(1993)の、実際の主要監修者です。径書房の渡邊さん、原田さんたちとみんなでワッと一気にに造った、あれは楽しい本だったね。
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2011年05月11日

朝からグサリ

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大人の短篇小説です。男と女の人間関係を書き込んだ12篇。恋愛が進展する話ではありません。むしろその逆。心のお皿にピシッとひびが入って、砕け落ちる瞬間をどうに描くかという芸がかなり強烈です。景色がしずかな分だけ、ザックリ心が抉られます。

ぼくはホラー映画とかはスプラッターも大丈夫なんですが、人間関係というものに無頓着に育ったので、穏やかそうな暮らしのなかで或る日突然ふとしたことから心がピシッといってしまう、みたいは話は、心に負担が大きいのです。送ってくださった訳者岩本さんのメモに「気楽にページをめくってください」とあったので、朝食と洗面のあと、ふとページをめくったらグサリやられました。

オラフ・オラフソン、人口がほぼ高崎市と等しいアイスランドのベストセラー作家というのは、どのくらい売れているんでしょう。英語で書いていても、アメリカを舞台にしても、しずかで、冷気が張りつめていている感じ──それは訳文からも伝わってきます。

1970年代に、米英中心のコンテンツ産業のグローバル化にともなって、ぼくらにとっての「外国文学」が再編されました。それまでむしろマイナーだったアメリカ文学が80年代以降は、いわば「無音のシンガー・ソングライターズ」的世界で、日本人の心にもしっかりしみ込んでくる一方で、ロシア、ドイツ、フランスの「先進文学」は、居間というよりは勉強部屋へ押しのけられたような印象をもっています。

「アメリカの白人のルーツとしてのヨーロッパ田舎文学」というふうに括ってしまったら問題ありだろうけれど、とにかくマーケットを見出して新しい人を積極的に掘り起こしてくれている白水社さんはありがたい。(栩木伸明訳のアイルランドやロマものを出してくれる、みすずや東京創元社、国書刊もです)。

こういうのも出ていますね。
クレア・キーガン『青い野を歩く

少々毛色の違うこういうのも。
ヨシップ・ノヴァコヴィッチ『四月馬鹿
パノス・カルネジス『石の葬式
アレクサンダー・ヘモン『ノーホエア・マン
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2011年04月30日

『アメリカ音楽史』を教育の突破口に

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(5月2日改稿)
 大和田俊之よりさらに若い文化地理学者・森正人が書いた新書本も──内容的には大衆/高尚の二分法を脱却していながら──タイトルは『大衆音楽史』だった。
 四半世紀前に中村とうようが書いた本のタイトルが、もし『大衆音楽の真実』でなくて『音楽の真実』だったら、どれほどエクストラな刺激を与えてくれたことだろう。

『アメリカ音楽史』、このタイトルがいい。音楽にそもそも「大衆」も「高尚」もない。というか、かつて嗜好の階層が存在した時代に「大衆」と呼ばれ、資本家によって操作されやすい「音楽的うすのろ」と思われていた人たちこそが、いま、真剣に論じるに足る音楽を進化させてきた。だからもう「差別」の表現としても「自尊」の表現としても、「大衆」という形容はやめよう。モーツァルトをふくめてもいい、僕らの心をさらってきた音楽のすべてを包括的に見ることこそが、文化ついてのまともな思考を可能にするのだ。

 音楽は感じるもの、カッコいいものであって、考えるものじゃないという反知性主義の伝統があった。それはもう死につつあるけれども、音楽について考えることがどれほど気持ちいいか、カッコいいか、それは教育されないとなかなかわからない。
 音楽を言葉で語ることは、ディープでホーリーなものを、浅薄な理屈でねじ曲げることではなく、むしろすぐにイデオロギーの手に掠われてしまいやすい無垢なるものを、知性のかぎり抱き留めて救い出す冒険的な行為なのだ。

 さて、講談社メチエの装幀にくるまっているこの本も、文章は素直で控えめながら、内容的に充分大胆だ。それを知っていただくために試験をしたい。以下は、本書から抜き出した一節。A,B二人のアーティスト名を当ててくだされ。

a.(  A  )は現在もっとも過小評価されている音楽家のひとりである。(中略)中世ヨーロッパにまでさかのぼるバラッドの伝統と、アフリカや南米大陸経由でもたらされた黒人文化の系譜。この二つの文化の融合を象徴するのが(  A  )であり、彼が背負うことになった音楽史/文化史の重みに比べれば、ビートルズやローリング・ストーンズは少しばかり音楽的センスに恵まれた青年たちにすぎない。

b. (  B  )はリズムの先鋭化とともに徐々にコード進行を最小限に抑えるようになった。(中略)西洋クラシック音楽を基礎づける機能和声を回避し、なるべくコード展開させずに新たなインプロヴィゼーションの手法を編み出したマイルス・デイヴィスのモード奏法が「西洋からの解放」を暗示する点については先に論じたとおりである。その意味でも、マイルスと同様に公民権運動を背景にした一九六〇年代の(  B  )の試みは、リズム&ブルースのモード化だったといえるかもしれない。

 同じ教養でも、こういう教養は、世の中をよりよく(正しく、美味しく)生きる糧になる、と思う。──正解は一番下に。

 講談社のサイトには、各章の副題が出ていない。それでは内容がわかりにくいので紀伊国屋のサイトから目次をコピペしてみた。(出版元への不満をもう一つ述べれば、この本の価値の半分は巻末のビブリオにあるのだから、英語がちゃんと横書きで読めるように、かつ、あらゆる世代が虫眼鏡なしで読めるような大きさのフォントで、レイアウトしてほしかった)

第1章 黒と白の弁証法──擬装するミンストレル・ショウ

第2章 憂鬱の正統性──ブルースの発掘

第3章 アメリカーナの政治学──ヒルビリー/カントリー・ミュージック

第4章 規格の創造性──ティンパン・アレーと都市音楽の黎明

第5章 音楽のデモクラシ──スウィング・ジャズの速度

第6章 歴史の不可能性―ジャズのモダニズム

第7章 若者の誕生──リズム&ブルースとロックンロール

第8章 空間性と匿名性──ロック/ポップスのサウンド・デザイン

第9章 プラネタリー・トランスヴェスティズム──ソウル/ファンクのフューチャリズム

第10章 音楽の標本化とポストモダニズム──ディスコ、パンク、ヒップホップ

第11章 ヒスパニック・インヴェイジョン──アメリカ音楽のラテン化

 それぞれの内容をコメントしたくなってくるが、それを始めると日が暮れてしまう。
 とにかくこの目次を授業のシラバスとして想像してみる。これにイントロ、ゲスト講師のトーク、ちょっとした実技の回などをはさんだ半期15週の授業を、ぼくもやってみたい。文学・文化・芸術を名乗る学科にとって、これは基本的、かつ(まだまだ)斬新な授業のタネとなるだろう。

 本書で強調されるのは「擬装」という概念で、表紙をみても、目次を見ても、それが主にブラック/ホワイトをめぐるものだということがわかる。
 ここ、すごく重要だ。オバマ大統領がさえない姿を晒すようになって、人種感覚に奥手な日本人にも、やっと「黒人も同じだ」という実感が訪れてきたかのような今日この頃、ジャズ、ブルース、ロック、ヒップホップをめぐる〈言説〉が僕ら日本人まで無分別なカッコヨサの夢へと引きずり込んできた、現代イメージ文化のしくみについて考えることは、とても重要だ。
 
正解 A. Elvis Presley B. James Brown
posted by ys at 10:04| いただいた本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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