
Junot Díaz, The Brief Wondrous Life of Oscar Wao
都甲幸治・久保尚美訳『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社)
シカゴ・カブスに、Fuku-dome という名前の日本人がやってくると聞いて、チームメートは唖然としたことだろう。「クソマティー」とか「マンコーノ」とかいう選手が日本に来たとしたら想像される、きごちない笑いがさざめいたことだろう。u の音に対し、まず「ユー」の音を当てるのが英語である。Fuku のスペルは、fuk-u と音節化すれば、マクドナルドの次くらいに世界に蔓延っている、例の卑語そのものとなる。
どうしてこの話をしたかというと、ドミニカ系アメリカ人ジュノ・ディアスの第一長篇『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』の書評を今週号の『週間文春』に書かせてもらったのだが、スペースがなくて文体のことまで書けなかったから。
この小説、2007年に出版されるや、まずアメリカ国民の間で大ヒット。マスコミにも文学界にも歓迎されてピューリッツァ賞・全米批評家賞を獲り、スペイン語に訳されてこれまた大ヒットした。
その冒頭は、こんな具合である。
They say it came first from Africa, carried in the screams of the enslaved;(……)that it was a demon drawn into Creation through the nightmare door that was cracked open in the Antilles.
"it" が表すもの、それは「地理上の発見」を経てヨーロッパ人がアフリカ人を大量掠奪し、カリブの島々で大農園を始めた、その「新世界」の創造の際に、アンティレス諸島に開いたドアの割れ目から入り込んできた悪魔だという。そのすぐあとで「コロンブス提督こそ、こいつを取り上げた産婆」だと書かれている(取り上げておいて、自分も呪われ、梅毒になったとも)。「悪魔」とは厄災の権化「呪い」である。この呪いに、ディノスはどんな名前を与えたか。
Fukú Americanus
立派にラテン語ぽいが、ふつつの英語人には、最初の単語は、すこぶる日常的な呪いの言葉に読めてしまうだろうし、その連想で次の単語を見ると一瞬「アメリカのアヌス」が見えてしまうことだろう。
そんな言葉のマジックで、読者の「呪い気分」というか「バッド・ラングイッジ・モード」をかりたて、そこに実に滑りのよい英語を乗せていく。いや「英語」といったが、単語の一割近くはスペイン語である。一般のアメリカ人読者に通じているとは思えない。それでもいい感じで通じさせてしまうリズムがある。
レゲエもヒップホップも、元はといえばアフリカに属するスピリットが、カリブに開いた「割れ目」からこの世に入ってきたものだ。過去30年人口に膾炙してきた音楽のノリは、ついに文学にまで着地した。その出来事を象徴する作品がこれだといえる。
アメリカ文学では、アメリカ的経験の本質にふれる作品が書き継がれている。『緋文字』も『ウォールデン』も『モービー・ディック』も、『ハックルベリー・フィンの冒険』も『偉大なるギャツビー』も『メイスン&ディクスン』も、それぞれ、陳腐な言い方をすれば、アメリカの本質を抉る作品だ。
それら、Great American Novels の系譜に、『オスカー・ワオ』も含まれることになるのか。それは僕にはどうでもいい。ただこの英語は気持ちいいと思う。『ライ麦畑』のホールデンは、神経症的な少年ではあっても、口はたいへんよく回った。デブちんのオスカーも、SF=アニメ=ゲーム・オタクながら、負けちゃいない。その姉ちゃんも、母ちゃんも、すごい冗舌である。いや舌だけじゃない。手も足も、腰のくねりもすごそうだ。びっしり注のついた翻訳が出たことで、原文も多くの日本人に触れるような展開になるといい。