中に、まれに見るマチュアなレポートを出してきた学生がいて、感想をメールで返したら、ピンチョンで卒論を書きたい、それには全部ちゃんと読みたい。先生がいま翻訳中なら、それと原文を見比べながら読みたいという。で、ああ、それはありがたい、僕は枝を見て葉をよく見ずに訳す欠点があるので、抜け落ちている言葉など指摘してくれるとありがたい、ただ今の段階でこれを仕事として依頼できないので、あくまでも自分の勉強の得になる思う範囲のことをやってください、と書いたかどうだが、とにかく、そういう意図の依頼をした。古いメールを見たら、こういうところを指摘してくれ、と書いたようだ。
・ぼくは原文をこう読んだので、この訳はいまいちしっくりきません。
・この訳文を見たとき、一瞬こういう意味かと誤解してしまいました。
・原文のこの部分が、訳に反映されてませんね。
大学の専任で教えていたころは、一人の学生にだけこのように接するのはマズイかなという意識がはたらいたが、こういう勝手も退職教員の「老人力」のうち。結果、彼(阿部幸大君)のがんばりに、さらに目を細めることになった。
(実は自分も学部生時代、大橋健三郎先生から、作業を頼まれたことがある。「小島信夫さんたちと一緒の会で、フォークナーの話をするのだが、このあいだの君のレポートに、テキストを色分けしたのがあっただろう。あれを見せたいんだが」。そう言われて、ぼくはさっそくその午後ウキウキと丸善に行き、新しいぺーバーバックを勝って、マーカーで 「ベンジー・セックション」の色分けを始めたのだ。1974年の11月、卒論を書いていないといけないときのこと。)
さて、阿部君から戻ってきた「朱」を見ると、どうだろう、葉っぱだけではなく、「この枝、つき具合がちがいませんか」という指摘もいろいろ入っている。
院生になると自分のガードを考えるが、そんなことはかまわずに、こちらのスキを見つけると、打ち込んできてくれるのが、優秀な学部生のすばらしいところ。たとえば、
What the road really was, she fancied, was this hypodermic needle, inserted somewhere ahead into the vein of a freeway, a vein nourishing the mainliner L.A., keeping it happy, coherent, protected from pain, or whatever passes, with a city, for pain.
( The Crying of Lot 49の2章)
というところを僕は、荒い筆遣いで、このように日本語化していた。
この道路は本当は皮下注射の針なのであって、この先どこかでフリーウェイの静脈に刺さっている。この針が、LAというヤクの患者を養っているんだ、これのおかげでLAは陽気でいられる、その苦痛から──都市というものが何に耽溺しているのであれ──守られているのだと。
阿部君の指摘は
《or whatever passes, with the city, for pain. とあります。pass するのは都市を通過する諸々の事物で、そのうちどれが「都市にとって苦痛なもの」かはわからないが、そういうもの全てから守られている、という意味ではないでしょうか。》
原文を見ると、LA が happy で coherent で protected だという連結。これを「陽気でいられる、……から守られている」とするだけではいかにも甘い。
いや、僕にも考えはあったのだ。whatever passes, with a city, for pain は、「人間と違って都市が何を苦痛となすかはわからない」という意味だから(pass for: 〜として通る)、「何が切れているから苦しいのか」→「何に耽溺しているのか」と変換した。だが、そこまで書くと自己解釈の進みすぎかもしれない。それに coherent が訳されていない。
かくして最終的に校正された訳文は、
この道路は本当は皮下注射の針なのであって、この先どこかでフリーウェイの静脈に刺さっている。この針が、LAという麻薬(ルビ/ヤク)の患者を養っているんだ、これのおかげでLAはなんとかハッピーに機能する全体でいられる、その苦痛から、都市が苦痛に感じている何かから、守られているのだと。
阿部君が、pass for の解釈にひっかかってくれたお陰で、少し主観の走りを抑えることができた。
「先生、そういうところを例にするの、ずるいじゃないですか」と阿部君に言われるかもしれない。
その通り、まったくこちらが勘違いしていて、顎をクリーンヒットされたところもあったのだ。
『競売ナンバー』の新訳では、あとがき自体をなしにすることにしたので、感謝の気持ちを述べることができなかったが、遅ればせながら、ここに謝意を表します。