2011年08月20日

阿部君のこと

昨年の秋からの学期は東大本郷の「現代文芸論」という学科でピンチョンを読んだ。集まってきた学生の優秀さに目がうるんだ(いや「目を細める」程度だったか)

中に、まれに見るマチュアなレポートを出してきた学生がいて、感想をメールで返したら、ピンチョンで卒論を書きたい、それには全部ちゃんと読みたい。先生がいま翻訳中なら、それと原文を見比べながら読みたいという。で、ああ、それはありがたい、僕は枝を見て葉をよく見ずに訳す欠点があるので、抜け落ちている言葉など指摘してくれるとありがたい、ただ今の段階でこれを仕事として依頼できないので、あくまでも自分の勉強の得になる思う範囲のことをやってください、と書いたかどうだが、とにかく、そういう意図の依頼をした。古いメールを見たら、こういうところを指摘してくれ、と書いたようだ。

・ぼくは原文をこう読んだので、この訳はいまいちしっくりきません。
・この訳文を見たとき、一瞬こういう意味かと誤解してしまいました。
・原文のこの部分が、訳に反映されてませんね。

大学の専任で教えていたころは、一人の学生にだけこのように接するのはマズイかなという意識がはたらいたが、こういう勝手も退職教員の「老人力」のうち。結果、彼(阿部幸大君)のがんばりに、さらに目を細めることになった。

(実は自分も学部生時代、大橋健三郎先生から、作業を頼まれたことがある。「小島信夫さんたちと一緒の会で、フォークナーの話をするのだが、このあいだの君のレポートに、テキストを色分けしたのがあっただろう。あれを見せたいんだが」。そう言われて、ぼくはさっそくその午後ウキウキと丸善に行き、新しいぺーバーバックを勝って、マーカーで 「ベンジー・セックション」の色分けを始めたのだ。1974年の11月、卒論を書いていないといけないときのこと。)

さて、阿部君から戻ってきた「朱」を見ると、どうだろう、葉っぱだけではなく、「この枝、つき具合がちがいませんか」という指摘もいろいろ入っている。

院生になると自分のガードを考えるが、そんなことはかまわずに、こちらのスキを見つけると、打ち込んできてくれるのが、優秀な学部生のすばらしいところ。たとえば、

What the road really was, she fancied, was this hypodermic needle, inserted somewhere ahead into the vein of a freeway, a vein nourishing the mainliner L.A., keeping it happy, coherent, protected from pain, or whatever passes, with a city, for pain.
The Crying of Lot 49の2章)

というところを僕は、荒い筆遣いで、このように日本語化していた。

この道路は本当は皮下注射の針なのであって、この先どこかでフリーウェイの静脈に刺さっている。この針が、LAというヤクの患者を養っているんだ、これのおかげでLAは陽気でいられる、その苦痛から──都市というものが何に耽溺しているのであれ──守られているのだと。

阿部君の指摘は
《or whatever passes, with the city, for pain. とあります。pass するのは都市を通過する諸々の事物で、そのうちどれが「都市にとって苦痛なもの」かはわからないが、そういうもの全てから守られている、という意味ではないでしょうか。》

原文を見ると、LA が happy で coherent で protected だという連結。これを「陽気でいられる、……から守られている」とするだけではいかにも甘い。
いや、僕にも考えはあったのだ。whatever passes, with a city, for pain は、「人間と違って都市が何を苦痛となすかはわからない」という意味だから(pass for: 〜として通る)、「何が切れているから苦しいのか」→「何に耽溺しているのか」と変換した。だが、そこまで書くと自己解釈の進みすぎかもしれない。それに coherent が訳されていない。

かくして最終的に校正された訳文は、

この道路は本当は皮下注射の針なのであって、この先どこかでフリーウェイの静脈に刺さっている。この針が、LAという麻薬(ルビ/ヤク)の患者を養っているんだ、これのおかげでLAはなんとかハッピーに機能する全体でいられる、その苦痛から、都市が苦痛に感じている何かから、守られているのだと。

阿部君が、pass for の解釈にひっかかってくれたお陰で、少し主観の走りを抑えることができた。

「先生、そういうところを例にするの、ずるいじゃないですか」と阿部君に言われるかもしれない。
その通り、まったくこちらが勘違いしていて、顎をクリーンヒットされたところもあったのだ。
『競売ナンバー』の新訳では、あとがき自体をなしにすることにしたので、感謝の気持ちを述べることができなかったが、遅ればせながら、ここに謝意を表します。
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2011年08月07日

デジタル・コンテンツ、いっそ「野球拳」方式にしたら?

『競売ナンバー』ここで冒頭の5ページだけ「立ち読み」させてくれます。
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/537209.html

もうすこし先まで公開しているんだから、ケチをいわずに、もっと見せてくれてもいいのにね。
http://www.shinchosha.co.jp/zenshu/thomaspynchon/collection/pynchon.html
(赤いバーの下段、「競売ナンバー49の叫び」をクリック

「ストリップ」の小説でもあるので、ゲームで勝ったら先を読ませてくれるとか、そんなサイトに置いてくれたらいいのに、と思いました。第二章から、少しお見せしちゃいます。

「ねえ、これ、前なの後なの?」と言いながらテキーラ・ボトルに手を伸ばすと、左の胸が彼の鼻先に触れそうになった。ひょうきん者のメツガーは、寄り目をせずにいられない。
「それを言ったら、答えがわかっちゃうもの」
「ならいいわ!」と、パッド入りのブラの先で彼の鼻をつついて、「教えてくれなきゃ、賭けは取り消しよ」
「そりゃだめだ」と、メツガーは動じない。
「あそこにいるの、彼がもといた連隊? それだけでも教えて」
「いいともさ。質問は許す。でも答えるのと引き替えに、一枚ずつ脱いでもらいますからね。ストリップ・ボッティチェリって、知ってました?」
 エディパは名案を思いついた。「いいわ。でもその前にちょっとだけ、バスルーム使わせてもらうわね。目をつむって。あっち向いて。覗いちゃダメよ」……
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2011年07月20日

29歳の「ピンチョン・デビュー」

『競売ナンバーの叫び』自分訳の刊行を来週にひかえ、32年前の拙論(『ユリイカ』1979年12月号)を公表します。
(pdf じゃなく打ち込んでもらった。special thanks to: 島袋里美さん)

http://sgtsugar.com/essay(pyncyon01).pdf
(このサイト整備していません)


「トマス・ピンチョンを織りつむぐ」は、全部で3回(計40,000字ほど)の短期連載だったのだけど、なにか、まだまだ奥に踏み込めていない気がして単行本にまとめることは渋ってきた。
作品論であれ作家論であれ、ピンチョンを論じるなら全人的コミットメントになるしかない、という考えを僕はどうもあまりにも長いこと引っぱってきすぎたらしい。
今となっては、こんなに肌がつやつやしている文章を自分のものとして出す気もないので、関心のある人は(21世紀初頭の waste の置き場にふさわしい)インターネットを通して読んでください。

ところで、30歳は過ぎたようだが若さいっぱいの波戸岡景太が、ピンチョンのなかの動物のテーマだけつないで、とにかくピンチョン全小説を股にかけるという 『ピンチョンの動物園』という本を出して、贈ってくれた。それもだいたい読んだ。

出版社のキャッチコピーが「動物化するポストモダン?!」
波戸岡君の軽みが自分にあってもよかったのに−−とまでは、相変わらず、思えませんなあ。
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2011年07月09日

これまた傑作:LOT 49 のカバー

『競売ナンバー49の叫び』の表紙です。

49cover18-02.jpg

主人公のエディパが、人間よりも女神風に描かれているところ
それもブリジット・バルドーの唇をもつ60年代の女神風であるところ
その女神の髪が、世界を織りつむぐ糸のように拡がる予感をたたえているところ
黒い人たちが怪しく「開花」しそうであるところ
そして何より、LOTに始まるこれらの文字が、どこか「堕落した神聖文字風」であるところ
動き出して、いたずらを始めそうな文字たち
その時代がかったレイアウト
まがまがしい赤銅色にも見える燃えるオレンジ

作品を深く読んでくれた人のデザインだなあと
実際のプリントで、どんな色に出るか見ものです。
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2011年06月30日

『競売ナンバー49の叫び』刊行案内

今日で6月が終わります。『競売ナンバー49の叫び』本文の再校ゲラを、これから宅配便で出しにいきます。

新潮社のサイトに案内が乗りました。
http://www.shinchosha.co.jp/book/537209/

発売日 7/29 と記されています。
小説本文は229ページですが、そのあと「詳細なガイド」というものがついて、全体で304ページになります。
定価には、私はノーコメント。切手の写真や、サンフランシスコの地図などもつけました。
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2011年06月13日

『競売ナンバー49の叫び』の新訳は「後押しガイド」付き

「『競売ナンバー49の叫び』は意味(または意味する可能性)のつながりによって成り立っているテクストである。
 推理小説のようだが、最終的に謎が解けるわけではない。むしろ深まる。最初単純と見えた状況がどんどん波紋を広げていく。ただ情報量や複雑さが増していくというのとは違う。なにやら日常的な認識とは別レベルの、魔術的というか何というのか、よりディープな精神の穴蔵へ引き落とされていくような読書感。
 この作品の本邦初訳を手がけられた志村正雄氏の「解注」――ちくま文庫版(2010)では54ページ180項目――に新訳者として加えるところは少ない。新訳では、各部分および行間のつながりが見えやすいように留意したが、それはこのままこの手引き執筆方針でもあって、とにかく作品の背後に結ばれていくだろう大きなつながりを指さすことに終始した。みなさんの読みを(誘導ではなく)誘発する一助になれたらと思う。
 さいわい、この極めて挑発的な小説に挑発された世界のプロの読者たちが、長年かけて「解釈共同体」のようなものを作ってきた。累積された読解を総ざらいしたような、原作より長い「虎の巻」も出版されている(J. Kerry Grant, A Companion to The Crying of Lot 49, 1994)。突っ込んだ議論を必要する方には、すでに数多い他の文献やサイトにも通じておられるだろう。日本語でも木原善彦著『トマス・ピンチョン――無政府主義的奇跡の宇宙』(2001)の第3章のように、この小説の本質をコンパクトについた説明も出回っている。以下における僕の試みも、狙いは同じだ。この小説を楽しもうとする方々を「一歩奥の楽しみ」へ後押しすること。それから先は、どうぞご自由に。」


 という口上を添えて、『競売ナンバー49の叫び』の「49の手引き」の初校を本日返しました。「手引き」全体で60ページくらいになるでしょう。原稿は志村さんスタイルではなく木原さんスタイルで、彼の本の章に書かれている12か13の「手引き」を49に拡張したというイメージでだいたい当たっています。

1、遺産継承 2、塔の中のラプンツェル 3、午前三時の〈シャドー〉 4、人生のメタル・エクステンション…… 47、叫び 48、ロット、 49、49

といった項目が並びます。


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2011年05月23日

全小説:『競売ナンバー』の次が『ヴァインランド』になること

『競売ナンバー49の叫び』の初校をやっと返しました。ある程度解釈には自信をもって入稿しんですけど、だめですね、またけっこう朱くしました。この小説、効果を考えて日本語を調整すると、言葉数が減っていくんです。でもまだまだ。原文の凝集度、スピード感、クールさ。それに比べたらゆるゆるです。

物語がなだれていく感じ、それも出来事が、ではなく、出来事を把握すること、つまり頭の中で組み上がっていく解釈が崩れ落ちていく。異常な認識が進行していくさまを主人公と一緒に読者も味わう。そういうことがフィクションにはできるわけですが、これだけ意識的に明快に、そういう効果をもつ小説を僕は他に知りません。だから、この、自分がほとんど崇めているこの小説の味わいを、できるだけ損ねないように日本語に移植していくというのは、正直、きびしかったです。一つのフレーズを訳し間違えて、そのパラグラフを止めてしまったら、罪は大きいですからね。

さて、これが書店に並ぶのが7月末。そのあとなんですが、当初の発表とは違ってきます。
『49』の次が、『重力の虹』ではなく『ヴァインランド』の改訳版となります。
訳者のブログで流すことかな、という躊躇もあったのですが、『重力の虹』を待ってくださっているみなさんへのメッセージの届き方として、これでいいのだろうと思って書き込むことにしました。

『重力の虹』ほどの大作になると、作品を咀嚼し整理し、読者に伝わるよう日本語化してゆくと、一生の仕事の1割くらいは注ぎ込みかねません。いきおい、出版社(営業)− 編集者 − 訳者の,腹の探り合いみたいなこともビミョウになってきて、『重力の虹』は一番最後にしてください……という希望も届かず、大作小作にかかわらず3ヶ月に1冊というスケジュールになっていました。そのプレッシャーは、仕事の遅い僕への鞭として、ありがたく甘受してきたのですが、楽に進むと思っていた『スロー・ラーナー』の翻訳に思いのほか手こずってきたあたりから,見通しが暗くなってきました。

『ヴァインランド』についてですが、すでに河出の世界文学全集に入れてもらっている作品で、こちらの「全作品」でどうするのか,計画当初から判断を迫られました。同じ訳者の違うバージョンが並ぶのは、みっともないと正直思うところがあります。いっそ、他の方の訳文で出ればスッキリしますし、翻案の方向へ割り切って、日本語の名手の方とかにお願いして、現行の訳文をもっと面白くしてもらう、ことも可能かもしれない。でも、出版側として「決定訳」をうたいたいという事情も理解でき、そうなると、ここ2年ほど、ほぼ毎日ピンチョンばかり訳してきて、主観的にはだいぶピンチョン化されてきた自分が、原文をもう一度見つめ直して、できるだけ力みを取り除いた訳文に直したものを提出するのがよいのかな、と今は冷静に受け止めています。

そんなところです。
『重力の虹』の刊行に関して私から言うべきことはありません。まだまだ終わらない調査と翻訳に埋もれる日がこれから増えていきますが、それは自分で選んだこと。翻訳日記へのエントリーが増やせるようにできたらいいと思っています。


posted by ys at 08:48| ピンチョン通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月28日

『競売ナンバー49の叫び』が7月刊行に。

〈トマス・ピンチョン全小説〉次回配本、タイトルはすでに日本で定着したという理由で『競売ナンバー49の叫び』となります。
「競売ナンバー49」というのは日本語としてもイメージが湧きますが、それが「叫ぶ」というのは?
最後のページで、その表面上の意味は明らかにされます。でも奥がある。その奥が深い。深すぎる。

原題は The Crying of Lot 49.

この crying の多義性、lot の多義性、49にこもるであろう様々な意味。それについては、ここに書くべきではないようです。巻末につける、49本の解説的ミニ・エッセーを、どうぞごらんあれ。

ここに書くべきは、刊行が当初の計画から一ヶ月延びるということ。楽しみにしてくださっている読者に申し訳ないのですが、震災が原因ですから、甘んじて受けるしかありません。インクと紙の不足、新潮社のような大手も襲いました。とりあえず、遅れが一ヶ月ですんだということで僕はホッとしています。
posted by ys at 09:38| ピンチョン通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月05日

『V.』の贅沢(第3章)

『V.』の登場人物の多さ、最初に手こずるのは第三章かもしれない。実はうちの奥さんが読み出したものの、こたつの上の上巻は、三章に挟まった栞の紐がこの二日間動いていない。そんなせいもあって、繊細な私めは、密かにプッシュしたくなった。
 八分割された「物語」には次の人物が登場する。

●イギリス人スパイ──日焼けして顔の皮膚が剥けているポーペンタインと、デブで陽気なグッドフェロー。
●ドイツ人スパイ──腕にスイッチを縫い付けたボンゴ=シャフツベリーと、気色悪い眼鏡男レプシウス。
●英国人観光客──高慢なサー・アラスター・レンと18歳の花咲くヴィクトリア、こましゃくれた妹ミルドレッドの一家。

彼らが織りなす物語自体は「アンダー・ザ・ローズ」という題で『スロー・ラーナー』に収められているものと同じである。ファショダ危機下の1898年のアレキサンドリアとカイロを舞台にしたスパイを描く心理小説。もっとも『V.』では、事情を知らない現地の人間が語るので、スパイ物語の体はなしていない。
 視点装置として投入されるのは7人と1台。この7人がいい味を出している。

T グッドフェローにアラブ人と間違えられるフランス人のウェイターにして色事師のアイユール。
U パーティの行われているオーストリア領事館へ(ホテル・ケディヴァルから)駆り出された下働きのユセフ。この小説で最初にヴィクトリアを照らし出すのがこの男だが、アナキストらしい放縦さのこもる、スケベな視線が素晴らしい。
V レストランで、不幸に遭った観光客を装って食事をたかるイギリス人の元ヴォードヴィル芸人マックス(こと、マクスウェル・ラウリー=ビューギ)。ロリータ趣味が発覚して故郷を追われた男だが、この人物の屈曲した回想が二重写しになるおかげで、ヴィクトリアの可憐な怪しさが浮き立っている。
W アレクサンドリア発カイロ行きの列車の車掌ワルデタール。ポルトガル系のユダヤ人で、ユダヤ迫害の地を巡礼しながらアレクサンドリアに行き着いたという変わり種。ドイツのスパイがイギリスのスパイに仕掛けた不発の策謀に立ち会いつつ、車窓の景色を、観光客なら描けないだろう魅力を込めて記述する。
X カイロの町で諜報するポーペンタインに雇われた現地の御者ゲブライル。砂漠が生を浸食することについて、哲学的でない思考をめぐらすイスラム教徒は、エントロピーについては、おそらく誰より語る資格があるのかもしれない。
Y 夜は住居不法侵入して稼ぐ軽業師のガーギス。グッドフェローがホテルの部屋に(明らかにヴィクトリアと思しき)女を連れ込んでいるのを窓から見届けるポーペンタインの、コミカルな所作を視つめる。
Z ポーペンタインとヴィクトリアが出会ったドイツ風ビア・ホールの女給ハンネ。雌牛のように大柄でどっしりとした金髪の彼女は、ドイツ人スパイのレプシウスの情婦をやっている。ファショダ危機の不安が恐怖に変わりつつある店の会話を、女らしいクールさで受け止める──が受け止めきれない──その臨場感あふれる、ぼくの大好きな一節。

 これら7人は、エクストラで出てきてつぶやくだけなのに、それぞれが充実した存在感と人生のストーリーをもっている。ポール・ボウルズのファンだったら、いつまでも聞いていたいと思うだろうこれらのお話しが、次々と数ページの間に挟み込まれ、そのままポイと次へ進んでしまう。V.は贅沢な小説だ。

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2011年04月02日

青春のサインはV.

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 新潮社のPR誌『波』に、若島正さんが『V.』について書いている。題して「青春の『V.』」。ピンチョンが25歳のときに書いたこの小説を、同じ25歳の若島さんが読んだ。その本は「迷路にさまよっていた当時のわたしに、それでいいんだ、うろうろしていていいんだと教えてくれた」。
 一冊の小説が若者を激励したり一筋の光明を与えたりするのは、ごくありふれた構図だけど、ピンチョンの作品の、ふだん語られることのあまりない「ハートへの効能」についてふれてくれる文章は、文字通りの意味で、有り難い。

 つられて書くと、同じ年、若島さんより22カ月年長のぼくも、小田急線東北沢ー下北沢間の踏切の音がひっきりなしにしているアパートで『V.』と格闘していた。修士課程三年目で、その年のうちに修論を書き上げなくてはならなかったし、彼の場合に比べれば、動機はすでに社会化されていて、そのぶん青春度は低かったけれども、それでも(とっくの昔に落ちてしまった)ペーパーバックの表紙(写真右)とネット上で再会したりすると、あの夏にラジオから盛んに流れた「ホテル・カリフォルニア」と、机の上で回り続けた卓上扇風機の音が思い出されたりしてホロリとする。

 若島さんは、バンタム版(写真左)で読んだそうで、その版にはたしか「このトマス・ピンチョンの小説がどんな作品か記述するよりも、水銀の粒に釘を打ち込む方が簡単だ」という惹句が付いていたはずだと、(本体はなくしてしまったそうで)記憶で語っている。ぼくはこの版を持っているのでチェックしてみたら、
 
 "It is easier to nail a blob of mercury than to describe this novel by Thomas Pynchon" ──Saturday Review

一字一句、正確でした。一方、今度の地震でほぼ完全に解体したぼくのピカドール版、裏表紙は残存しているのだが、そこにこんな惹句が付いていたのが記憶にまったく残っていない。「マック・セネットとナサニエル・ウェストとマイク・トッドが協働して、世界最大のヴォードヴィル・ショーを企画したら、きっとピンチョンの小説に似たものができあがることだろう」:

 "If Mack Sennet, Nathaniel West and Mike Todd had collaborated to stage the World's Greatest Vaudeville they might have produced something like Pynhcon's novel"──Boston Sunday Globe.

 ナサニエル・ウェストは大学院で読まされてはいても、マック・セネットマイク・トッドも知らなかったのだろう。それで記憶に残っていないのだ。
 そんな青いヤツが書いた修士論文を引っ張り出して「わが青春の」とかいう言葉を口にするには、もう少々、老いの進行が必要なようである。
posted by ys at 08:00| ピンチョン通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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