2011年08月08日

GR176 黄金のゴキブリ世界

現在『重力の虹』と合わせて、『ヴァインランド』のゲラに手を入れることと、『インヒアレント・ヴァイス』(仮題)にかかることが課題です。
『重力の虹』は、全体で訳文が100万字くらいになる長さですが(Mason & Dixon より長く、Against the Day ほどではないが、どちらの小説よりも複雑)、先日、75万字ほどプリントアウトして新潮社の北本さんにお渡ししました。まだデータを渡せる状態には至っていません。

第一部をパラパラと振り返っていたら、こんな美しいシーンがあったので紹介します。人間の物語から、不意にカメラをシフトして、虫の世界に入り込む。以下全体でワン・パラグラフ。章の一番最後のところです。

その後夕暮れ時に、巨大ゴキブリが数匹、すごくダークな赤褐色の生き物が羽目板の隙間から妖精のように登場し、ガサガサと食糧貯蔵室の方へ向かっていった――ひとはらの子を宿した母ゴキブリの、前と周りを進む半透明の赤ん坊ゴキブリが付添いの護衛隊のようだ。
Later, toward dusk, several enormous water bugs, a very dark reddish brown, emerge like elves from the wainscoting, and go lumbering toward the larder−pregnant mother bugs too, with baby translucent outrider bugs flowing along like a convoy escort.

夜も更けて、爆撃機と高射砲と落下するロケットの爆音の合間の深夜の静寂に彼らは、ネズミのような大きな物音をたてながら、グウェンヒドウィの紙袋の中を食べ進み、その体色と同じ色の排泄物を踏みつけ這いずり回った跡を残していくだろう。
At night, in the very late silences between bombers, ack-ack fire and falling rockets, they can be heard, loud as mice, munching through Gwenhidwy's paper sacks, leaving streaks and footprints of shit the color of themselves behind.

ソフトな食感の果物野菜の類は好物ではなさそうで、ずしんと存在感のあるヒラマメやインゲンみたいな物をガリガリやるのがいいらしい、紙や漆喰でできた障壁にも穴を開ける、堅いインターフェイスは食い破る、だってこいつらは合一のエージェントなのだ。まさにクリスマスの虫。
They don't seem to go in much for soft things, fruits, vegetables, and such, it's more the solid lentils and beans they're into, stuff they can gnaw at, paper and plaster barriers, hard interfaces to be pierced, for they are agents of unification, you see. Christmas bugs.

ベツレヘムの飼葉桶の藁の中の奥深くにも彼らはいたのさ、黄金の藁が格子状に織りなす中をヨロヨロ進み、登っていっては、赤肌を煌めかせてヒラリと落下していた、何マイルにも思えただろう距離を――
They were deep in the straw of the manger at Bethlehem, they stumbled, climbed, fell glistening red among a golden lattice of straw that must have seemed to extend miles up and downward−

食べられる居住世界、ときどき咬み切った拍子に、その神秘のヴェクトルの束が崩れて近くにいる虫がひっくり返り、まっさかさまに転がり落ちるが、きみは踏みとどまった、六本の足すべてを震え続ける金色の茎に差し入れて。
an edible tenement-world, now and then gnawed through to disrupt some mysterious sheaf of vectors that would send neighbor bugs tumbling ass-OVer-antennas down past you as you held on with all legs in that constant tremble of golden stalks.

平穏な世界だった。温度も湿度もほぼ一定、一日のサイクルは柔らかで、ゆるやかな光の移ろい、金色の昼からアンティークゴールドの夕方へ、影が濃くなりもう一度金色の夜明けが始まる。
A tranquil world: the temperature and humidity staying nearly steady, the day's cycle damped to only a soft easy sway of light, gold to antique-gold to shadows, and back again.

赤ん坊の泣き声がきみに届く、目に見えない距離を渡ってくるエネルギーのバーストのようなものとして――感じられるとしてもごく仄かだ、気づくことは多くない。きみの救世主だってよ、ほら。
The crying of the infant reached you, perhaps, as bursts of energy from the invisible distance, nearly unsensed, often ignored. Your savior, you see. . . .


この you はゴキブリを差している。ゴキブリに共感し一体化している読者の前で、藁の中、足を踏ん張っているゴキブリです。そのゴキブリ君は、このベツレヘムの厩で御子が誕生したその産声を、どのように聴いたのか。ほとんど聞こえはしないわけでしょう。強い空気の振動は伝わるにしても。彼らの一日は、藁に差し込む柔らかな黄金色の光と、楽しげなアクションに満ちています、イェイ。
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2011年06月05日

虹やオーラの訳し方

きのうの引用した最後の文を再録し、それに続くセリフを太字で示します。

  He beams at Katje, a sunburst in primary colors spiking out from his head, waves the needle he's just taken out of his vein, clamps between his teeth a pipe as big as a saxophone and puts on a deerstalker cap, which does not affect the sunburst a bit.
 "Sherlock Holms. Basil Rathborne. I was right," out of breath, letting her bag fall with a thump.
 
 Katje said. とは書いてありません。ピンチョンはこの小説を映画的に体験してもらう実験をしています。言葉が説明抜きで直に読者に届く。その台詞自体、全然説明的でありません。超クール。でも、文脈が摑めて読んでいる人には意味がわかるんです。

 まず、シャーロック・ホームズはOsbie がdeerstalker cap を被っているのを見て出たコメント。Basil Rathborne とは、少し話が複雑になりますが、カッチェがさっき、とある戦時下の心理学研究所で、自分でフィルムを回して見てきた映画に出てくる役名です。「その Rathborne って、オズビー、あなたを表しているんでしょ」と言っている。 I was right. は「ほら、当たりでしょ」と言って、いかにも カッチェらしく胸を張っている。それを受けたオズビーの反応がすごい。ドラッグの恍惚の真っ最中に、あこがれの人カッチェが入ってきた自分に話しかけたわけです−−

The aura pulses, bows modestly. He is also steel, he is rawhide and sweat. "Good, good. There was the son of Frankenstein in it, too. I wish we could have been more direct, but−”
"Where's Prentice?"


オーラが脈打って、謙虚にお辞儀した? 彼は鋼でもあり、生皮で汗? どういうことでしょう。「オーラ」とは自分の体から出ている光ですね。それがパルスを刻んだ−−というのは、カッチェに「感じて」いる若いオズビーが、ドラッグの激しい影響下、心臓と股間をトクトクさせたということだろうと僕は読みます。

 みなさんにも伝わるでしょうか。幻覚トリップのなかで、勃起がきたときの体の強張り、かつ獣になった皮膚感覚と発汗の生理。"Good, good" はカッチェの問いに対する「ご名答」という返事でしょう。(フランケンシュタイの息子は飛ばして)more direct というのは、「あなたとの直な接触がしたい」という若い男の子の、純情なセクハラ発言なんだと思います。「もっと直に交われるといいんだけど−−」と訳しましょうか。現実には、自分の作る映像を通してメッセージを読み取ってもらうという、何ともまだるっこしい繋がりしか存在しません。
 そんなオズビーの純情を、カッチェはスルリとかわして、別な男の居場所をたずねる。−−けっこうドラマのあるシーン。僭越ながら、サトチョン訳をプレヴューします−−

「バズル・ラスボーンさんは、今度はシャーロック・ホームズなのね。当たり?」カッチェは息がハーハー。肩のバッグがドサリ、床に落ちる。
 体の周りのオーラが脈打ち、ひれ伏すように前傾した。体は鋼鉄、皮膚は獣の皮で覆われ汗だらけ。「おめでとう。フランケンシュタインの息子も入ってるんだ。あなたと、もっと直に交われたらいいんだけど−−」
 「プレンティスはどこ?」


 既訳ヴァージョンも語句レベルの対応は「きちんと」しています。でもいくら語句の意味を表現しようとしても、ドラマを伝えるのは難しい。そしてドラマはその場の人間関係がつくるもの。その関係は、口調によって表現されるので、翻訳者は常に戯曲作家を務める気持ちで臨まなくてはなりません。

「まるでシャーロック・ホームズじゃない、ベイジル・ラスボーンさん。わたしの思っていたとおりね」息を切らし、彼女はバッグをドスンと落とす。
 霊気が脈打ち、つつましやかにおじぎする。かれは鋼鉄でもあり、生皮でもあり、汗でもある。「結構、結構。フィルムの中にはフランケンシュタインの息子も出てくる。あれほど回りくどくなくてもよかったとは思うが−−」
「プレンティスはどこ」
(既訳版『重力の虹』下巻 pp. 189-190) 


きょうは「ピンチョンの文学性は行間にある」ということの一端を、お示しすることが目的でした。では、また。
posted by ys at 18:54| 『重力の虹』翻訳日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月04日

分かるんです、重力の虹。

Amazon.co.jp の『重力の虹』(上、国書刊行会、1993)のページ。その「最も参考になったカスタマーレビュー」に、こんなコメントが載っています。

 破壊的と言っても良いほどに難しい。特に後半は、小説の中で何が起こっているのかさっぱり分からないのです。

おやおや。では、原文に挑戦してみましょう。 オズビーはロンドンのチェルシーの一角、軍が借り上げた古い屋敷に住んでドラッグにのめり込んでいる若者。このシーンは1945年の盛夏で、対独終戦から三ヶ月近く経っています。(カッチェは、『重力の虹』の重要なヒロインの一人ですが、この章に、250ページぶりくらいに登場しました。)

Osbie is at home, anyway, chewing spices, smoking reefers, and shooting cocaine. The last of his wartime stash. One grand eruption. He's been up for three days. He beams at Katje, a sunburst in primary colors spiking out from his head, waves the needle he's just taken out of his vein, clamps between his teeth a pipe as big as a saxophone and puts on a deerstalker cap, which does not affect the sunburst a bit. (Penguin 版 p. 545)

chewing spices: 「スパイス類を噛む」、のことですけど、スパイスといっても、チョウセンアサガオ(jimson weed)などはその幻覚作用で知られています。
reefers: 紙巻きのマリワナを差す、ちょっと時代物の言葉
stash 「隠し物」という意味から、「個人で所持しているドラッグ」という意味に転用した語。
One grand eruption 「一回の大噴火」。マリワナ程度では経験できないかも。体から何が噴き上がるんでしょう。
beams at: 原イメージは「〜にビームを放つ」。「輝やくような笑顔を向ける」というときに使う表現ですが、このときのオズビーは、もう少し"文字通り"輝いているようです。
a sunburst in primary colors :「噴火」を受けています。体内の原色の渦巻きのようなものが、太陽が破裂するように飛び出たんでしょう
spiked out from his head: それが頭から、スパイク状に飛び散ったわけ。
waves . . . clamps . . . puts on;オズビーが注射針を抜いて振り、パイプを咥え、鹿追い帽をかぶった、ということですが、このパイプのサイズは、あくまでオズビーが感じるサイズです。パイプがサックスになるって、いい感じでしょ?
deerstalker cap:日本では「鳥打ち帽」というんですか、シャーロック・ホームズの定番の恰好。
does not affect the sunburst a bit;帽子を被ったら頭から出る原色の光に変化が出ると思ったら、少しも変化はなかった、ということです。

この文章を日本語化するとき、一番重要なのは、この Osbie Feel という若者の強烈な感覚世界を薄めないことでしょう。
少なくとも、オズビーの視点から見た世界だということが読者に伝わらないと、「小説の中で何が起こっているのか」わかりにくくなるでしょうね。たとえば He beams 以下を「カティエを見てニコッとする。原色の強烈な陽光が頭から放射されている」というスタイルで「客観的」に訳していったら、このパラグラフはかなりの部分、死んでしまいます。『重力の虹』を支える文学の要素が、崩れてしまいます。
 しかしそれを防ぐためには、こちらも、まがりなりに文学を試作しないといけない。「文学っぽい文章」くらいしか作れてなくても、感度の鋭い読者が、その背後に真の文学を幻視できるようにするのが訳者のつとめだ。

[(One grand eruption. 以下) 試訳]いま壮烈な噴火がきた。三日も目が醒めたままのオズビーの顔が、入ってきたカティエの姿を見て光り輝く。原色の渦巻く太陽が、彼の頭から破裂して飛び散った。静脈から注射針を抜いたままの手を振る。歯に咥えているのはサックスほどの大きさもあるパイプ。鳥打ち帽を被っても、破裂する太陽にまるで変化はない。
posted by ys at 08:33| 『重力の虹』翻訳日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月26日

泣いてください、ピンチョンで

小説家の保坂和志さんから久しぶりに便りをいただき、『文学界』連載の「カフカ式練習帳」(第17回=5月号)で、『逆光』への思いを書かれていることを知りました。それによると、別段読み終える気はなくて、だから夜寝る前にしか読まない、それで去年の10月以来ずっと読んでいるのだそうで−−

「ピンチョンは唐突に,泣き出しそうなほど病的といってもいいほど叙情的なセンテンスを書く。それを読む私は喜びに救われる」んだそうです。そういって、木原善彦さん訳の『逆光』から何カ所か引用しています。最初の2つを転写させてもらいましょう。

《しばらくの間、彼は焚き火の明かりの中に腰を下ろし、黙って読んでいたが、しばらくして気がつくと、眠る前の子供に読み聞かせるように−−ウェブが死という夢の国に安らかに移ることができるように−−父の亡骸に向かって声に出して読んでいた。》

《泣こうとしている傷ついた少女がいるのを感じた−−苦痛で泣くのではなく、さらに危害を加えようとする人物をなだめるために泣くのでもなく、貧者を見捨てる町の冬の通りに放り出されることを怖れるかのように泣くのだ。》

保坂さんは昔からピンチョン好きで、お勤めのころ、題は忘れたけれど「ピンチョンを読みほぐす」みたいなクラスをセットアップしていただいたことがありました。僕もまだ30代だった、ニューアカ・バブル期の池袋。

しかし「泣き」というテーマでピンチョンを語り出すと、年齢的に涙腺がゆるんできているサトチョンなどは止まらなくなってしまうでしょう。ヨダレのような文章をお見せしたくないので、やめときます。
 『重力の虹』も、みなさんに泣いていただくのが一つの目標です。ただの、闇や嵐や船や雲や夏草の描写などでも、胸にグサリとくるテンションなのに、それを背景に、狂気の歴史に使われる人間模様が、強制収容所の臭いやら何やらのリアリティとともにグイグイ語られていくのだからたまりません。
 でも、そういう箇所は、丸ごと訳してお伝えする以外ありません。それについて、キャジュアルに語ってしまうのは許されない。翻訳日記とか謳いながら、なかなかエントリーが増えていかない所以です、Gzzzzz。
posted by ys at 16:58| 『重力の虹』翻訳日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月20日

泥々とした放射の顕現

 中沢新一のエネルゴロジー、まだその一端を読んだだけだが、エネルギーの世界を二つに分かつ大きなラインが、「化学的(chemical)」事象と「核的(nuclear)」事象との間に設定されているのは、まあ当然といってよいだろう。

 ちなみに「ケミカル」は事象とは、原子の共有結合やイオン結合のありさまに関わる。物質の燃焼や、食物の分解吸収などから得られるエネルギーは、化学の時間に習ったように、「外殻軌道」を回る電子のやりとりを基盤とするのであって、こう捉えてみると、原子核レベルの変化から生じる核エネルギーの変化との「レベルの差」は歴然としている。そう、中沢さんの言うとおり、「地球の核やマントルで続けられている太陽圏的な活動の影響は、知覚の表層部につくられたささやかな生態圏には、めったに及んでこない」のだ。

 だがピンチョンの想像力は、もっと深く不気味である。chemical な営みと nuclear な営みの境界もとろけていくようである。
 ペンギン版482ページから4ページに渡って挿入される「モリツリ少尉の物語」。時は1945年7月末。モリツリは日本の諜報役人で、欧州終戦後のドイツに暇な滞在をし、バート・カルマ(Bad Karma)という冗談のような名前の鉱泉保養の街にいて、覗き見ることに多くの時間を費やしている。そこに、あからさまに神話的な女性が現れる。グレタ・エルトマン、Erdmann とは「地の人」の意味だ。V. 以来おとくいの、White Goddess の系譜の登場人物である。まだ仕事途中の訳文だが──

「・・・その日のバート・カルマの夕暮れは青ざめた暴力とともにやってきた。地平線は聖書的な破壊をたたえていた。グレタは黒を着込み、ヴェールの垂れる帽子で髪のほとんどを隠し、長いストラップのバッグを肩に下げていた。目指す先がだんだん一つに絞られていく。モリツリは〈夜〉が自分にしかけた罠にはまっていくような気がした。予言が川風となって彼を包んだ。いつもグレタが消えていく先、新聞が一面で書き立てた子供たちの──
 グレタが黒い泥溜りの縁に着いた。ふつふつと地下から湧き出ているのは地球と一緒に誕生した物質、その一部が囲い込まれ熱泥泉となって、名を与えられている・・・。それに捧げる供物が少年である。みんなか帰ってからも一人残っていた、冷たい雪のような髪をした子。会話は途切れ途切れにしか届いてこなかった。(……)」


 この街では少年の連続失踪事件が続いていた。この温泉が人気があったのは、その放射能に依るところが大きい。(日本の町でも、つい最近まで「ラジウム鉱泉」や「ゲルマニウム温泉」の看板があったが、あれは最近どうなったのだろう?)
 モリツリはスロースロップに語る。

「ここの人たちの放射能(radiation)に対する民間信仰はたいへんなものですな──季節を問わず鉱泉と渡り歩いているでしょう。神の恩寵、まさにルルドの聖水です。そこから発する神秘の radiation が、万病に効く、究極の治癒であるかもしれないということでね」

 英語で放射能 =radiation)は「光輝(radiance)」と同根のイメージだ。光輝とは、不可視の神がこの世に臨在するときの姿でもある。ユダヤ神秘主義には、神の花嫁が「シェキナー」が登場するが、モリツリは、先に目撃した恐るべきグレタを、シェキナーとして解釈する──

「わたしはあの放射の晩の縁に彼女と立っていたわけですから、このとき彼女が何を見たのかわかりました。子供たちの誰かが──泥と放射素(radium)に育まれ、だんだん大きく雄々しくなりつつ、ゆっくりと、粘っこい泥の中を、一年また一年と運ばれて、そして終に大人の男として川から現れる。彼女自身の黒々とした光輝(black radiance of herself)から這い上ってきて、ふたたび彼女のところへ還る。シェキナーですよ。花嫁であり后であり、娘であり、そして母であるところの。身を護る泥としての母、燃え輝くウラン鉱のような──」(ペンギン版 487 ページ)

 これまで 
大地→(死の回収)→化石燃料→ベンゼン環→有機化学 → 国際カルテル IGファルベルの暗躍 → 特殊性感プラスチック
という、ケミカルな連関網を進んできた『重力の虹』が、昭和20年8月6日まであと1、2週間という時点にきて、「核の神秘学」に踏み込んだ。その不気味さを紹介したくて、今日のエントリーとしました。
posted by ys at 14:32| 『重力の虹』翻訳日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月13日

満天の登場スタア

『重力の虹』に登場するのは、全体で300人を超えるキャストですが、エキストラが演じているようなチョイ役もずいぶん多いので、整理が必要です。

 星にたとえていうと、超新星が一つ:アメリカ軍大尉、マサチューセッツの西部山地出身の──

タイロン・スロースロップ。祖先をたどると、ピンチョンの親戚筋かと思われる、飄々としたヤンキーである。
 その彼が(ペニスの反応を伴う彼の身体的無意識が)ロンドンに降ってくるV2ロケットに特異な反応を示す。どうも子供の時に、魔術師的な化学者で、国際カルテルIGファルベンとの関係も深いラツロー・ヤンフに、自分の存在の奥深くに何かを仕掛けられたらしい。それめぐる謎を追いかけ、ほとんどパラノイアとなり、しかし最終的にはオルフェウスのように、その意識を解いて大地に散らばる──その彼を主人公にした物語が小説の半分近くを占めることになる。

 他にこの小説では、数十ページにわたって主人公の座を占める半ダースほどの「惑星」(謎の動きをとる可変的な男、女)と、けっこう多くの恒星〔執念に固まった、ぎらつく男達)が出てきます。

ヴァイスマン(通称ブリセロ):ナチスの将校。詩人リルケに傾倒し、ドイツの古い民話「ヘンゼルとグレーテル」をベースにしたSMゲームを演じながら、謎のケット00000を打ち上げる。『V.』にも9章「モンダウゲンの物語」に、20年前の若き将校として登場していた。

エンツィアン:ヴァイスマンに愛された南西アフリカヘレロ族の少年(白人とのハーフ)。ドイツに連れてこられて軍人となる。敗戦直後のアナキックな〈ゾーン〉で、ヘレロ族系の仲間を組織し、ロケットの破片を集め、00001号の打上を計画する。

チチェーリン:ロシアの将校。実はエンツィアンを現地の女に孕ませたのは日露戦争に向かう途中で南西アフリカに寄港した彼の父だった。敗戦後のカオスにあるドイツ("the Zone" と呼ばれる)で彼は、諜報員として動いているが、私的には、自分のなかの「黒さ」を象徴する腹違いの弟エンツィアンを葬り去るという必要に憑かれている。

ポインツマン:「降伏促進のための心理学的諜報機構」なる連合国の研究組織で実権を握るイギリス人のパブロフ主義者。ロケットに対するスロースロップの異様な反応がいかなる「条件づけ」の結果なのか、その解明に意欲をもやす。

カッチェ・ボルヘシウス:内面のない、あらゆる男達のために機能する白いオランダ女。「多重スパイ」というのか、オランダのレジスタンスのために動いていたかと思うと、ロケット打ち上げの場で、ナチ将校ヴァイスマンとの「ゲーム」に加わり、かと思うとポインツマンに雇われてスロースロップを誘惑し、ロケット工学の家庭教師のような役も務める。

グレタ・エルトマン:ドイツの・ワーマール時代の映画女優。カッチェが白と光のイメージに包まれているとすれば、こちらは過去とデカダンス、大地や地中と結ばれている。

その他──
☆他人の幻想を掠奪する〃海賊〃、パイレート・プレンティス

☆☆若き統計学者ロジャー・メキシコとその不倫の恋の相手、ジェシカ。恋する二人は、狡猾で老練な〈戦争〉と対比させる、若さとイノセンスそのもの。

☆老准将:第一次大戦の泥と糞の塹壕パッシェンデールの戦いのトラウマをひきずる老役人。役職は上司だが、カッチェとのSMゲームを通して支配してポインツマンに支配されている。

☆IGファルベンのドラッグ売人、神出鬼没のゾイレ・ブマー(訂正2015,2月→ヴィンペ)(ゾイレ・ブマーは☆痛切に愛すべきマリワナ吸いの老悪党でした)

現実の種まきをする映画監督、ゲアハルト・フォン・ゲール:

☆アルゼンチンのアナキスト、エスクワリドーシとその仲間:19世紀アルゼンチンの国民詩『マルティン・フィエロ』の映画づくりをフォン・ゲールと進める。

☆ドウェイン・マーヴィ大佐と部下の下品なアメリカ兵:大酒を飲み、猥歌を歌いながら、Vロケットの資料とスロースロップを追う。

☆うら若き〈ゾーン〉の魔女、ゲリ・トリッピング。これがかわいいの。

☆ヴァイスマンの白き恋人、少年ゴットフリート

まだまだ、いっぱい出てきます。でもきょうはここまで。ちょっと混乱させました。あとでまた。
posted by ys at 15:25| 『重力の虹』翻訳日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

GR337|総天然色映像文学

『重力の虹』の文章は、小説として読解されるより、映画として感覚されるよう、意識して書かれている。
 してその「映画」は時に、総天然色(1945当時はまだまだ斬新でした)の映像を惜しみなく振りまく。スロースロップが気球家シュノルプの助けでハルツ山地を脱出するところは、中でも「美味しい」ビジュアル・シーンの一つ。緑に萌える初夏の丘、膨らんだ気球はイエローとスカーレットのツートンカラー。それが風を捉えて飛んでいくところ映像が、訳したあとも目にやきついて離れない。


気球がわずかに地面から持ち上がった。吹いてきた風がそれをとらえる。出発だ。ゲリーと子供たちは、ぐるりとゴンドラの縁を掴んでいる。まだ完全には膨らみきっていないバルーンは、だが次第にスピードを上げ、笑い囃し立てながら全速力で足を動かしているみんなを引きずり丘の斜面をのぼっていく。(・・・)モッコリといまや垂直に立ったバルーンが太陽光と交叉する。球皮の内側で黄と鮮紅の熱が渦を巻きながら放縦に乱舞する。ひとりまたひとりと地上のクルーが離れ落ちる。さよならの手振り。最後までつかんでいたのはゲリーだ。耳のうしろに梳かした髪の先端は三つ編、柔らかな顎と口、大きな真剣な目がスロースロップの目を見つめ続ける。ついにバルーンに振り切られると、草の上に跪いたまま投げキッス。スロースロップのハートも、もう一杯にふくらんで、すーっと空を登っていくよう・・・


 ゲリー(Geli Tripping)は魔女と悪魔の祭典で有名なハルツ山に住む、まだ修行中のかわいい魔女。その「胸キュン」な容姿としぐさを記述する英語にどこも難解なところはない。シンプルな情感を素直な語順で書いているだけ:

The last to go is Geli in her white dress, hair brushed back over her ears into pigtails, her soft chin and mouth and big serious eyes looking into Slothrop's for as long as she can before she has to let go. She kneels in the grass, blows a kiss. Slothrop feels his heart, out of control, inflate with love and rise quick as a balloon.(ペンギン版 pp. 337-8)

 このあとカラフルな気球は高く舞い上がり、白い雲の中に入る。後を追ってきた偵察機とのおかしな戦闘シーンを含め、その立体映像が、またとても(ふたたびオヤジ言葉でいえば)胸キュンなのだが、この鮮明な感覚世界を綴っていく現在形の文章を、日本語でどう追いかけていったらいいのか。原則は立たない。その都度のインスピレーションが必要だ。
 ただ一点、鍵となるのは、日本語で「現在形」とはなにかという考察。たとえば、捜し物を見つけたときの「あった!」は過去形ではない。感覚の現在形だ。逆に「ある」は、往々にして、時間の流れを抜け出た「論理/事実形」。『重力の虹』のような、感覚にずっぼり濡れた描出法をとる作品では、現在形の英語に、語尾の「た」をどう織り込んでいくのかも鍵となるようである。
posted by ys at 09:20| 『重力の虹』翻訳日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月03日

GR315|春歌 周到

リメリック(limerick)という格調低い定型詩が英語にはあって、これはまあ、無理して和の伝統にひきつければ、小唄や都々逸のようなものだといっていい。
ミッテルヴェルクのトンネルの中では、酔っぱらった米兵たちが、「酔いどれリメリック」を次々歌っている。どれもV2ロケットの部品とのフェチィッシュな性愛をテーマにしたものだが、これを訳すのが一苦労である。


There once was a fellow named Slattery
Who was fond of the course-gyro battery.
With that 50-volt shock,
What was left of his cock
Was all slimy and sloppy and spattery.

3拍子で歌っているに違いないこれを、「タラッタ ラッタラッタ」の春歌のリズムに翻訳するのもわびしいが、何もしないよりはましだと思って、日本人ならすぐにノレるであろう、こんな訳詞をつくってみた。

 蓄電池に目のないスラッテリーってのが
 ネンネした相手がコースジャイロ・バッテリー
 五十ボルトにビリビリしたら
 お股ぐんにゃり、ベットリー

最初の「蓄電池」は「ドンブリ鉢」みたいに早口で入る。全体に「ステテコ、シャンシャン」のリズムである。
「ベットリー」はさすがに気分悪いが、英語の3つの形容詞に比べれば、これでも迫力たりません。

固有名詞をそのままに、脚韻だけはちゃんと踏まえて、テーマを変えず、下品さを保つ。それだけできればいいと割り切るしかない。
もう一作。こちら、原詞の後半3行は意味がない。venturi と韻をふむ jury をもってきたかったゆえのトリックでだから、日本語でも韻が楽しくきまる単語をもってくればいいと考え、超訳にさせてもらった。

There was a young fellow named Yuri,
Fucked the nozzle right up its venturi.
He had woes without cease
From his local police,
And a hell of a time with the jury.

 流体好きのユーリってのが
 つっこみました、ベンチュリ管
 パイプ、キュイっとすぼんだところが
 気持いい、いい、センズリ管
posted by ys at 08:43| Comment(0) | 『重力の虹』翻訳日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

GR318|春高楼の鳩の糞

つるりとした肌に楕円の眼をした貴婦人たちの、胸元のあいた絹のドレスが拡がり落ちて、部屋部屋の暗がりに舞う埃と翼の音に紛れている。そしていたるところ、鳩の白糞。

ladies with smooth faces and oval eyes in low-necked dresses whose yards of silk spill out into the dust and wingbeats of the dark rooms. There is dove shit all over the place. (ペンギン版 318ページ)

ノルトハウゼンの山中の、ロケット組み立て工場を出て、ベンツを一台失敬し、登っていった山道の先にふるいお城の廃墟があった。中へ入っていって、壁画の貴婦人を見た瞬間の印象を書き留めた一文である。貴婦人の豊かに垂れた絹のドレスは、見えない額縁を越えて暗がりと繋がっている。崩れ落ちそうな建物の壁の隙間から外の光が細くさしている、埃の舞は、ひっきりなしに入ってくる鳩の翼にかき混ぜられてて、波のようなうねりを永遠につづけている。

ピンチョンは、俳句的というのとは違うが、車窓の景色の記述や、貧しい街の一角、一人で入った建物の記述に、ことさら詩的で、じわんとさせられる。きっと一人でずいぶん旅して、印象を書き留めてきたのだろう。写実的であると同時に、シュールで、感覚高揚的だ。この古城の廃墟にしても、光と埃と過去と糞の絡みが鮮烈。「むかしの光いまいずこ」などとはぜったい書かない。薄暗がりの中で鋭敏化した視覚と聴覚は、鳩のバサバサと。大粒の涙のような鳥の糞に集中する。ちなみに「白糞」は「はくふん」と読んでも「しらくそ」と読んでもけっこうである。シチリア島にそんな街があったっけ。ありゃ「シラクサ」か。
posted by ys at 08:09| 『重力の虹』翻訳日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月27日

GR303| a crystal brown visa

 V2ロケットの製造の中枢(ミッテルヴェルク)はノルトハウゼンの山中のトンネル。隣りにドーラ強制収容所があり、そこのユダヤ人の残酷な奴隷労働によってロケットの組み立てが行われていたというのは有名な史実である。
 われらがスロースロップはそのトンネルにどうやって入っていくのか。闇市場をとびまわるゴッツイお兄さん Waxwing が作ってくれた身分証明書には、アイゼンハワー元帥の署名に加え、パリで「V2スペシャル・ミッション」を担当する架空の大佐のサインつき。それを見せると、検問所の兵隊たちは肩をすくめて通してくれる。
 その兵隊さんの風情の描写が的確だ。──とぼくがいっても何の保証にもならないが、海軍で、田舎出の、若い兵員と長らくつきあってきたピンチョンが書くと、自然とリアルな描写になるのだろう。はなみずが飛んで、固まって、琥珀のようになる。その詩情をジンと伝えることのできる力量に、ぼくはしびれる。

「検問所の兵士らはうろうろ、だらだら、田舎者の冗談を言い合ったりしている。中にはきっと鼻をほじっているものをいて、二日後、スロースロップの目にする証明書には、洟の固まったのがこびりついているだろう。その褐色の結晶が、ノルトハウゼンへの査証[ルビ ビザ]なのか。」

原文は、チェッ、こんなにスッキリしているのだ。

A couple of days later Slothrop will find a dried piece of snot on the card, a crystal brown visa for Nordhausen. (ペンギン版 p. 303)
posted by ys at 09:04| 『重力の虹』翻訳日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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