『重力の虹』は、全体で訳文が100万字くらいになる長さですが(Mason & Dixon より長く、Against the Day ほどではないが、どちらの小説よりも複雑)、先日、75万字ほどプリントアウトして新潮社の北本さんにお渡ししました。まだデータを渡せる状態には至っていません。
第一部をパラパラと振り返っていたら、こんな美しいシーンがあったので紹介します。人間の物語から、不意にカメラをシフトして、虫の世界に入り込む。以下全体でワン・パラグラフ。章の一番最後のところです。
その後夕暮れ時に、巨大ゴキブリが数匹、すごくダークな赤褐色の生き物が羽目板の隙間から妖精のように登場し、ガサガサと食糧貯蔵室の方へ向かっていった――ひとはらの子を宿した母ゴキブリの、前と周りを進む半透明の赤ん坊ゴキブリが付添いの護衛隊のようだ。
Later, toward dusk, several enormous water bugs, a very dark reddish brown, emerge like elves from the wainscoting, and go lumbering toward the larder−pregnant mother bugs too, with baby translucent outrider bugs flowing along like a convoy escort.
夜も更けて、爆撃機と高射砲と落下するロケットの爆音の合間の深夜の静寂に彼らは、ネズミのような大きな物音をたてながら、グウェンヒドウィの紙袋の中を食べ進み、その体色と同じ色の排泄物を踏みつけ這いずり回った跡を残していくだろう。
At night, in the very late silences between bombers, ack-ack fire and falling rockets, they can be heard, loud as mice, munching through Gwenhidwy's paper sacks, leaving streaks and footprints of shit the color of themselves behind.
ソフトな食感の果物野菜の類は好物ではなさそうで、ずしんと存在感のあるヒラマメやインゲンみたいな物をガリガリやるのがいいらしい、紙や漆喰でできた障壁にも穴を開ける、堅いインターフェイスは食い破る、だってこいつらは合一のエージェントなのだ。まさにクリスマスの虫。
They don't seem to go in much for soft things, fruits, vegetables, and such, it's more the solid lentils and beans they're into, stuff they can gnaw at, paper and plaster barriers, hard interfaces to be pierced, for they are agents of unification, you see. Christmas bugs.
ベツレヘムの飼葉桶の藁の中の奥深くにも彼らはいたのさ、黄金の藁が格子状に織りなす中をヨロヨロ進み、登っていっては、赤肌を煌めかせてヒラリと落下していた、何マイルにも思えただろう距離を――
They were deep in the straw of the manger at Bethlehem, they stumbled, climbed, fell glistening red among a golden lattice of straw that must have seemed to extend miles up and downward−
食べられる居住世界、ときどき咬み切った拍子に、その神秘のヴェクトルの束が崩れて近くにいる虫がひっくり返り、まっさかさまに転がり落ちるが、きみは踏みとどまった、六本の足すべてを震え続ける金色の茎に差し入れて。
an edible tenement-world, now and then gnawed through to disrupt some mysterious sheaf of vectors that would send neighbor bugs tumbling ass-OVer-antennas down past you as you held on with all legs in that constant tremble of golden stalks.
平穏な世界だった。温度も湿度もほぼ一定、一日のサイクルは柔らかで、ゆるやかな光の移ろい、金色の昼からアンティークゴールドの夕方へ、影が濃くなりもう一度金色の夜明けが始まる。
A tranquil world: the temperature and humidity staying nearly steady, the day's cycle damped to only a soft easy sway of light, gold to antique-gold to shadows, and back again.
赤ん坊の泣き声がきみに届く、目に見えない距離を渡ってくるエネルギーのバーストのようなものとして――感じられるとしてもごく仄かだ、気づくことは多くない。きみの救世主だってよ、ほら。
The crying of the infant reached you, perhaps, as bursts of energy from the invisible distance, nearly unsensed, often ignored. Your savior, you see. . . .
この you はゴキブリを差している。ゴキブリに共感し一体化している読者の前で、藁の中、足を踏ん張っているゴキブリです。そのゴキブリ君は、このベツレヘムの厩で御子が誕生したその産声を、どのように聴いたのか。ほとんど聞こえはしないわけでしょう。強い空気の振動は伝わるにしても。彼らの一日は、藁に差し込む柔らかな黄金色の光と、楽しげなアクションに満ちています、イェイ。