2015年01月13日

And の意味をきちんと読むこと。

 しつこいようですが、毎日新聞の「誤訳」の背景を考えてみます。Dyab Abou Jahjah 氏の原文

  I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so. 

を、

  私はシャルリーでなくアハメド。殺された警官です。シャルリーエブド紙が私の神や文化をばかにしたために私は殺された。

と縮めて、メッセージとして違うものにしてしまった。これは、見えにくいけれども、ジャーナリズムにおいてあってはならないことが起こってしまった「事件」だと思いますよ。

 長年英語の答案を見てきた経験から、「 and の解釈が難しかったのかな」とも思いました。

「and は順接だ」と考えて、「ばかにした、だから私は死んだ……」というつながりにしてしまうと、defending his right to do so のつながりが分かりにくくなってしまう。

「だから」ではなく「なのに」と訳せばよかったのです。

 たとえば−−「私はあなたのためにやっているの、なのにあなたの言うことを聞いているとまるで……」という文は、英語では

  I am trying to help you, and you tell me as if ……

という発想になる。この and を強めたいときは、and yet とか and still となることは比較的よく知られていますね。

  You can’t have your cake and eat it too.

という文は、昔は学校の英文法──文法項目じゃないんですが──の時間にふつう教わったものです。矛盾する二つの項目を and でつないでいるわけですね。and は論理的な言葉で、AとBが同時に成り立つ状況を示す。この文は、「cake を保持すること」と「食べちゃうこと」は、同時に成り立ちようがない、と言っているわけです。

 ★逆に or は A かBか、どちらか一方だ、ということを示す論理的な言葉です。  Eat your cake, or I will eat it. というふうに。

 それにしても、andの後、defending his right …… の部分を訳し落としてしまっては残念でした。ここはヴォルテールの──実は彼の伝記作家が彼が言ったと誤記した──「名言」を踏まえた、実に巧みな表現になっているのですから。

  I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.

  あなたの言うことには反対だが、あなたがそれを言う権利は、死んでも護る。

なんか昔の英語の先生みたいな言い方になってますかね。たしかに、このごろの英語教育の劣化を見るにつけ、サトチョンも白髪がふえてしまう思いをするんですよ。

「グローバルなコミュニケーション力」とかいって、何をやろうとしているんでしょう。大衆のペラペラ願望の尻馬に乗って、政治を動かし、教育を破壊しているだけじゃないですか。

 外国語の講読や、外国の文化や歴史の授業に力点が置かれていた時代、日本の新聞記者は、欧米の世界に動きを、もっと細やかに表現する努力をしていたと断言して良いでしょう。Toeic の点数ばかり強調され「大意を聞き取って解ればいい」ということになって、なにか異文化に生きる人々に対する構えが、非常に自己中心的な、大雑把なものになってませんか。なってるでしょう。

「表現」には、もちろん「正確さ」が求められる。グローバルな時代では、外国語の読みに正確さが求められる。当たりまえです。しかるに、このごろのジャーナリズムには、問題を起こさず、波風を立てず、無難に進める智慧の方が優先されているように見える。テレビも、新聞さえも。

 いえ、誤解しないでください。西洋式の「表現の自由」は絶対に規制してはならない、なんてことをサトチョンは考えておりません。

 キリスト教文化にもイスラム教文化にも、コトバを神として信仰する習慣がありますが、日本にそれはなく、むしろ「沈黙は金」とされる。言いたい放題、書きたい放題は、コミュニケーションの生態系を破壊します。西欧は、200年以上前の革命の時代からの脱皮を求められていると思う。

 でも情報を正しく摂取し、思考することを閉ざしてたらいけません。異文化間の軋轢が、世界情勢を危うくしてしまうかもしれないこれからの時期に、それはだめ。いまヨーロッパで何が起こっているか、きちんと知って、日本的コミュニケーションに慣れた人間として、世界に発言していくことが大事なのではないか。

 大事なのは「表現の自由」より、心配りも備えた「表現の技術」だと思うんです。それが足りずに、新聞まで「表現しない文化」に陥ってしまったら、もうそれ自体がカリカチュアではありませんか。

posted by ys at 13:00| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月21日

鳥飼玖美子『英語教育論争から考える』(みすず書房)を読んで

◎平泉-渡部論争

 今から40年ほど前に起こった〈英語教育大論争〉、それはどんなものだったか。

 外交官上がりで英語のできる政治家・平泉渉が、「平泉試案」というのをまとめて、日本の英語教育の改革を提唱した。

 それに対し当時上智大で英語を教えていた渡部昇一が、文藝春秋社のオピニオン誌『諸君!』で反論した。

 二人の論争は、日本の誌面論争では珍しく、双方が持論を粘り強く展開しながら半年の間継続し、共著『英語教育大論争』としてまとめられた。

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 平泉さんの改革案は正論で、日本に効果的な英語教育システムの定着を願う人の考えを代弁していた。日本の学校英語を〈外〉から見て、何とかしなくちゃ、と思う人は、だいたい、こんな提案に行きつくだろう。僕も共鳴する。すなわち:

 英語は、他の教科と違う。本格的に読書聴話ができるまでに、音楽家やスポーツ選手の育成に匹敵する鍛錬が必要だ。それを全員に教えようというのはそもそも無謀であって、やる気のある生徒が大変な努力をするというやり方にするしかない。その比較的少数の者に、教え込むべきたくさんのことをしっかり教え込みたい。国民の一部に対してでも、実のある教育が成立しなければ、今後日本は国際的に立ちゆかなくなるだろう。

 この「合理的」な視点に対し、渡辺さんの反論は、日本人の国民的プライドに訴えるものだった。彼は――

@外国語について知的に思考することが、知性の鍛錬にとってどれだけ効果があるかを指摘し、

Aその中で育まれた傑出した精神が、西洋の学知を吸収しながら、近代的な文化国家に日本を押し上げたことに誇りを持てと説き、

B教育の効果は、顕在化した量(テストのスコア)ではなく、今後に向けての潜在的な力をどれだけ蓄えたかで測るべきと主張した。

「英語学習は、他の学科では代えがたい、高級な精神修養」――という考えは、英語に傑出した日本人へのオマージュ(斎藤兆史『英語達人列伝』など)とともに、日本の英語教育界では、一定の人気を保持している。


◎すり替わった論点

 前置きが長くなりましたが、この本は、40年前の論争から語り起こして、「平泉-渡部論争」が、いつのまにか、当初の知的なぶつかりあいではなく、「オーラルな教育への転換」か「文法訳読でいい」のかを論じる論争にすり替わってしまってしまった過程を跡づけています。

 情報は豊かであって、いまだ健在である平泉・渡部両氏を始め関係者へのインタビューで事実を掘り起こし、当時の有識者の反応を拾い出しているので資料的な価値も高い。

 それよりも、物事を深く考える人たちの議論が、何というか、日本人が英語に関して無意識の中に抱え込んでいる「モヤモヤ」によって引き下ろされていった過程が描き込まれている点が痛切に興味深いのです。その「モヤモヤ」とは、理性化されていない、矛盾した感情のことですが、分かりにくいですかね。説明しましょう――

 たとえば日本人の「英語ペラペラ」願望って不条理だと思いませんか? どうしてラジオのDJは、ネイティブっぽくないとかっこ悪いのか。あるいは、日本人のDJだと、むしろカタカナ発音する方が好意的に受け止められるのか。

 ヘンなことはたくさんあります。「英語は聞き流すだけの方がいいんだ」とか「勉強するからできなくなるんだ」とかいうメチャクチャな宣伝文句がはびこっていますが、そのインチキにお金を出してしまう人たちが、優秀な日本人の間にどうしてこんなに多いのかということも、十分に解明されていません。

 昨今の改革のスローガンである「文法は教えるな」とか「英語は英語で」という文句も、冷静に考えると、同様にメチャクチャです。鳥飼さんはかねてから、「英文法」が忌み嫌われる非合理さと、「コミュニケーション」という言葉が、読み書きをすっとばした「会話」の意味だけで流通している無意味さについて、繰り返し発言してきました。この本でも、同じことを辛抱強く説いています。


◎病理解明の視点が必要

 でも、心に病を抱えた人に、「あなたの考えはここが間違っている」といっても、なかなか通じません。「ブンポー」と「カイワ」の頑固な二分思考を、一般の日本人は、どうして、こんなに心の深いところで身につけてしまったのか。私たちのコンプレックスと強がりのありさまを分析しながら、日本人の心の痛みの歴史を追っていくような視点が必要かな、と思うのです。

 じっさい鳥飼さんも、単に学者として知識を繰り出すだけでなく、一歩踏み込んだ書き方もしています。次の記述に注目――


 「言いたいことがあったも空気を読んで黙る」が日本社会で生き延びるための知恵ともいえる。「沈黙は金」なのだ。少なくとも大人の姿を見て育つ子どもは、そう学ぶであろう。そうなると「言いたいことを言う力を鍛える」英語教育などは、現実にはありえないことを練習させていることになる(p. 189)


ここ、大事なポイントでしょう。もう一点、これは僕の考えですが、こんな世間知も、日本の生徒たちはわきまえているのではないでしょうか――「英語らしい英語で答えちゃだめ。出る釘は打たれるから」。良い発音で、抑揚に注意して、英語の意味を英語で感じようとして、それに成功すると、まわりからいやーな目で見られがち。「日本人として、日本人らしく勉強して成績を上げる」のは構わないけれど、本物への同化を志し、それに成功すると「特別なこと」になる。「わーすごい、キコクみたい」となってしまう。

「あたしたち日本人だもの、英語がスラスラできるはずなんかない」という暗黙のメタ・メーセージが、教室内の規範として支配しているなかで、英語を学ぶとはどういうことか。状況はダブルバインディングです。

 「英語は大事だ、しっかりやれ」という教師から言葉も、教師本人がコンプレックスを抱えている中で発せられれば、メッセージとして淀んでしまうでしょう。英語は受験にいちばん響く科目だし、Toeic のスコアがよくないと就職にも支障するという脅しがかかっている一方で、「英語で突出する」ことが、なんだかよくわからないけれどタブー視される空気が、学校の教室には、しばしば見いだされるのではないでしょうか。不健康です。先生も生徒も、すごくわだかまっている。他のおけいこ事なら、学校で教わるレベルを越えて邁進するのは当然だし、友達にすごいバレリーナとかサッカー選手がいるのは誇らしくても、英語だと、なかなかそうはいかない。

 鳥飼さんが、中学校に講演に行ったとき、生徒達から「どうして英語を習わないといけないんですか」という質問が多発した、と書かれています。「英語は必要ないと思います」という主張も多く寄せられた。これは、ひょっとしたら、歪んだ環境で英語を学ばされることの苦痛の叫びなのではないかと僕は思いました。

 昔の学校であれば、英語は、教えられたことを憶えれば、そのぶん点数になりました。努力が点数に跳ね返るという構図のなかで、生徒も先生も自信を持つことができました。たしかにそこで行われていたのは真の英語が身に付く勉強ではなかったかもしれない。しかし、心の健康がおかされるようなものではありませんでした。そこに「コミュニケーション重視」の圧力がかかってから、なにかいろいろスッキリしない、雰囲気の悪い世界になってしまったことを、生徒達も感じているようです。

 辛いといえば、その辛さは先生たちの方が痛切であるにちがいありません。教師としての威厳を保つには「優秀な私から学べ」というメタメッセージを発するようにふるまわなくてはならない。しかし、この情報化社会で、それを装うのは辛い。


◎正直に向かい合おう

 このジレンマは、明治以来のものでした。明治の方がもちろん教員の資格不足は大きかったはずですから。そうした辛い日本の教室から、せめて、これができるようにみんな頑張ろうという形で編み出されてきたものが、「受験に役立つ」という大きな価値を背負った「文法」や「英文解釈術」だったわけです。日本語の論理によって、英語を精査し、規則をあまさず書き込んだ、とても精緻な知識体系を「受験英語」は抱え持っていました。

 ところが、それがダメだと言われる時代になってしまった。おまけに、口惜しかったら英語で授業をしてみろ、と追い打ちがかかる。

 英語で生徒を導ける日本人の先生もたしかにいますが、数が限られています。とてもマス教育の現場にまでは十分に回せません。

  深刻な現実に対して、もっと本質的な議論がもりあがるといい。英語を学ぶとは本来どういうことで、それがこれだけおかしなことになっている、改革、改革と叫ぶこと自体が症状の一部になってしまった深い文化の病理を暴くには、学者の理性的な言い聞かせ以上に、ドキュメンタリー作家による、もっと「えぐい」アプローチが必要になるような気がします。

 英語の授業とは何だったのか。100年以上にわたって、日本の文化にしみついてきた、グローバルな視野からすると「へんなもの」を、どこからどう俎上に乗せていくのか−−考えるとクラクラしますが、とにかくたとえば学校にカメラを入れて徹底的なリアリズムで現実を撮るとか、そういう(フレドリック・ワイズマンのような)アーティストが、まず出てきてほしい。世の中が騒然とするようなことがないと、問題は可視化すらされない。ただ苦痛のみを積み上げているうちに、極端に単純化された解決法がファシスト的な力を持ってしまう社会になっていく−−というのが一番怖いシナリオです。


posted by ys at 16:25| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月21日

センター試験 2013

2013年の英語問題についてまず1点だけ。


◎一部に、おや、「梯子英語」が戻ってきたぞ、という印象が


 「ハシゴ英語」と僕が呼ぶのは、「飲み歩く英語」ではなく(笑)、教室で学習途上者に差しだす、日本語と日本文化に足のついた英語です。屋根に登ってしまえばハシゴは不要になるけれども、途上者の役には立つ。学習者にやさしい「ハシゴ英語」を、試験問題に使うのは、だからメリットはあるんですね。でも、英語を飲み歩いている人間からすると、あれ? って思うところもあるんですな。


第2問A


問9 When my younger brother and I were children, my mother often asked me to keep an eye on him so he wouldn’t get lost.

誤答選択肢:away from,    back from,   in time with

これは children から純真な子供をイメージできればいいんですが、僕は一瞬、ワルガキの兄貴に、「弟の道を踏み誤らせるな」と懇願する母親をイメージしてしまいました。(そうすると、away from が正解になってしまいますね。)


問8 I don’t enjoy going to Tokyo. It’s hard for me to put up with all the crowds.

誤答選択肢:away,  on,  up to

英語としても問題としても問題ないですが、I don't enjoy It's hard を逆にするともっと英語らしくなりませんかね。

It's hard for me to go to Tokyo now.  I don't enjoy the crowds. みたいに?


問2 Of the seven people here now, one is from China, three are from the US, and the others from France.

誤答選択肢:other, others, the other

「文法項目の知識」を試すのには悪くないのですが、英語として一番自然な単語を選択肢に入れるのが学習促進的、というルールからすれば、the rest を正解になった方がいいと思いました。それと、文章というものは、どんなに短くても、ある程度状況が見える方がいいわけで、その点、ひと工夫あっていいかな、と。

Of the group of people who lined up in the hall, some were from China, others from the US,  and the rest were all from France.

どうしてこの三国なのか、依然わかんないですけど。それ言い出すとジジイっぽくなるのでやめときましょう。いや、全体的には、ここ数年、とても洗練されてきていると思いますよ。

posted by ys at 08:00| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月12日

書き直そう、英語の文法

『English Journal』の連載「英語ができない病」(エイゴガデキナイビョー)の8月号と9月号の原稿を入れました。

ビョーキの症状として、こんな分裂した心のありようが観察されます。


             そと

   ウットリ              ↑ モノオジ

   憧れ(同化願望)   |   怖れと照れ(自己検閲)

おもて ←────────────────────→ うら

   ナニクソ                             |    テヤンデエ

    自負(征服願望)                 仲間外れ(異能の排除)

                   うち


  外(社会、ガイコク)向きの場合も、内向きの場合の、英語に対して積極的な〈おもて〉面の背後に、英語から引いたり英語を遠ざけたりする否定的な感情があるということを、上の図は示しています。

 まあ、どなたにもおなじみの話かもしれません。平成の時代でも、ふつうの心象風景ですね。


@ バイリンガルDJの声が流れるオシャレな空間でウットリしながら、

A ガイジンに道を教えるだけでモノオジし、

B ナニクソとTOEIC 900点突破にいきり立つくせに、

C キコク子女の口から流暢な発音が漏れたりするとテヤンデエという気持になる──


 この分裂が、日本人の近代体験と現代のイメージ資本主義の原理との噛み合いの悪さに由来するものだということを,僕なりに説明してみました。

 

 そして近代エリートたちが「ナニクソ」の意識で作り上げた、学校文法や学習参考書が、現代では根本的に弊害を呼ぶものになっている、

 にも関わらず、それ以外に、きちんと英語をしつけるための理解がこの国に欠けているために、「聞き流すだけで」というオカルト商法や、「英語で遊ぼう」という幼稚園化の流れによって、学習環境がどんどん劣化してしまう。


 そろそろ対策を考えないといけません。

 いままでの英文法、これは「優れている」と思われていた「西欧の論理」にナニクソとしがみついている日本人がつくった産物で、自信をもって日本語の思考を続けている日本人には、時代遅れの弊害が大きくなっている。

 ヨーロッパとアジアの力関係が拮抗または逆転した現在、単語とセンテンスを単位とする厳密な文法ではなく、日本語の構造のゆるさを自覚しながら、英語もあまりセンテンスにとらわれず、「句の連続」としてとらえ、それが連なるパターンをみていく「ゆるい生成文法」で説明していくことが、中学でより健康な学習が進展するための道である──


 と、まあ、かような提言を、サトチョンとしては行っていきたいわけでありますが、

 しかし……文法を書き直す……? わたくしが? うん、できそうかも。



 なお、現在出ている6月号に掲載されている拙稿のタイトルは「スッポンからスッポンポンへ」

 スッポンのように英語に吸着して日本語へかみ砕いていくやりかたをやめて、

 もっとスッポンポンなこころで英語とお出会いしませんか、という提言です。はい、相変わらずオバカです。

posted by ys at 07:06| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月02日

連載「エイゴができないビョー」

日本の英語のダメなところを長年観察してきたものとして、どこがどうダメなのかを診断し、治療法を提示することをしなくてはいけないなあと思っています。

英語教育改革者として名を馳せた日本人って、いないんですよね。
議論したり、本を書いて売れたりする人は人はいるんですけどね。
英語教育問題を専門とする問題業界のスター・ライターとか、いやですよね。

はい、サトチョンは
『English Journal』 編集長の永井さんのお誘いで、4月号から連載エッセイを書いています。

連載タイトルが
英語ができない病
エ イ ゴ ガ デ キ ナ イ ビョー、
とフラットなアクセントで読みます。
その病気は、ほんとに英語ができないんじゃなくて、
「英語をする」ように見せかけて日本語の別なことばかりやっていたり、「英語をするぞ」と思い立った先生や生徒を、まわりからよってたかって阻止するようなネガティブな環境と、それを支えるわたしたちの思い込みの病理のことをいっています。

各回のタイトルは──
第1回「誤った思い込みを振り落とせ」

第2回「「日本人としてのふつう」から離陸する」

第3回「教室から「間違い」をなくそう」
 *本来、ことばに「間違い」はない。間違いを咎めるような学習空間を排除しよう、ということです。

そして、昨日入稿しました。
第4回「スッポンからスッポンポンへ」
 日本語はスッポンのように、英語に吸い付いて、どんどん日本語に吸収してしまう。その吸い付きをやめて、もっとスッポンポンな心で英語に接しようという提言です。どうぞ、よろしく。
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2011年12月18日

英語を学ぶのに学校は必要か?

 −−ニッポンの無機能システム(2)


今月号の『群像』の随筆でも紹介されてもらったが、このサイトごらんあれ。

http://elllo.org/

・1100以上のナチュラルな会話が、シナリオ付きで並んでいる。
ためしにここをクリック
そして 三角マークをつついて音声をスタートさせる。

 これのように少し考えさせるテーマだと、英米人間の英語でも、スピード的についていきやすい。ふつうの若者がふつうの会話をしていて、特別優れた考えを述べているわけではない。一番の練習は、とにかく口でついていけることを目指すこと。三分全体はきついが、これと思う発言を決めて、繰り返し、シンクロして発声してみると力になります。

 必ずしも適切なフレーズにではないが、フレーズの解説を英語で聞くことができるのも、このサイトの優れた点。→スクリプトの青地のフレーズをクリックしてみてください。

・ニュースの英語もよりどりみどり入っています。ちゃんと教材として読み直しているので、BBC や ABC より、外国人学習者にとって聞きやすいものとなっています。
http://elllo.org/english/NewsCenter/N01-OilSpill.htm
 ニュースとなると純粋聴解ですね。単語をコンテクストの中で覚えていくには、最初から音声とともに得ていくのが有用です。

・Video では、英語をしゃべっている外国人が、日本人も含めいっぱいでてくる。
外国人だから、刺激になるし、聞きやすい部分もある。動画で顔が見えるのもいい。
http://elllo.org/video/1101/V1144-Shipwreck.htm

・知ってる歌を、歌詞を見ながら一緒に歌うことができる。
http://elllo.org/english/Songs/M018-BlueMoon.htm

特筆すべきは、これだけの学習空間が、今では無料で開かれているということです。(15年前、10万円で売られていた英語教材CD-Rom よりも盛りだくさんですよね。)

来年、再来年と、さらにぼくらの役に立つ、実力養成サイトができていくことは間違いありません。
そんななかで、文科省がモノポリーとして運営している、でも実力養成の役を果たしていないことは誰でも知っている、全国民を巻き込んだ英語ビジネスはどうなっていくのでしょうか。

ひょっとして小学校への英語導入は、インターネットの自由な展開に怖れをなした政府=業界の打った、Get it while you can (しぼりとれるところから取っておこう)という策だったのでしょうか。

でも、つくづく、面白いです。日本の英語をめぐる資本の流れ。

耽溺をつくりだして資本を回すというのは、19世紀にアヘンを使ったどこかの国のやり方と、共通点があるみたいですしね。

こんなサイトも紹介しておきましょう。あなたがネイティブなら、ほとんど無条件に応募できる、日本で英語を教える仕事。
https://www.interacnetwork.com/recruit/
Apply Now → をクリックしてみてください。

だんだん、サトチョンの書くことも、陰謀論的になってきた? ピンチョンの読みすぎか?
それはともかく、ニッポンの無機能の例題として、英語学習の問題、考え続けていきたいと思います。
posted by ys at 20:21| Comment(0) | 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月07日

日本の「電気」と「英語」のまかない方

ようやくだ。これだけのことがあって、これだけ晒し者にされてようやくだ。東電が、そのモノポリーの支配をあきらめた。他の発電事業者から電力を買うという。

その動きがはじまるまで、これだけの、独占企業者だけに許される優雅な怠惰ぶりが、(政府/専門家集団とつるんだ)非プロフェショナルな相互の甘やかしの実態が、暴かれなければならなかったのか。

原発の被害は誰の心にも染みる。

一方で、僕らが英語を学ばされ、官僚エリート/お抱え業者/実力なき専門家のたるみきったモノポリー事業ゆえに、英語のできなさを学んでしまい、そこからなかなか出られずにいる、その国家的被害の惨状は、英語をできなくされた国民の心には届かない。

なぜ日本の英語教育が機能しないか、その根本的な構図を、今回の東電の事故とパラレルに考えてみることは、解決策の模索のためにも、有用である。

根本的な問題はここだ:
サッカーでも音楽でも、技能教育は政府モノポリーの教育下では体裁しか整えられないもの。ところが「英語」という実技は、「国語」「数学」と並ぶ−−受験の重要度ではそれ以上の−−主要な「学科」にされてしまい、たくさんの時間を投入され、あまりにもひどい学習環境のなかで、生徒の頭が、文字通り fucked up されている。(多くの場合、先生がたの善意と努力にもかかわらず、学校を通して行われる授業は、全体として見た場合、英語習得に害をもたらしている)そうなると、大人になって、いくら英語を勉強し直そうとしても、なかなか心がうけつけない。そこにまた別の業者が、甘いセリフでつけこんできて、媚薬ビジネスを栄えさせる。

この事態をシステムとして作りだしているのが、一群の「権益を守られた人たち」の惰眠である。彼らがどれほど緊張感を欠いた中で、いかにたるんだモノポリー・ビジネスを展開してきたか、その現状と長い歴史の集積が分析されなくてはならない。英語教育を専門とする者は、みずからその権益にあずかることばかり考えないで、未来の日本を作る仕事にかからなくてはならない。

そして、その力のある個人や団体が英語教育を「自家発電」し、「すべて自前で発送電」の構えを崩していない文科省/専門家/お抱え業者の低品質のマネージメントを打ち崩していかなくてはならない、イェイ。
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2011年11月08日

純愛に燃えるイタリア人、英語を話す日本人


 先月の日経新聞に「どの国にも身につかない教育がある」という話が載って、ちょっと話題になった。
 ギリシャ人に「金銭教育」が無駄だということを揶揄する金融界のジョークらしいのだが、無駄の例として一緒に挙げられていたのが

 米国人への反戦教育、
 イタリア人への純愛教育、
そして
 日本人への英語教育。
 
 こうして並べてられて、サトチョンは考えた。
 ひょっとしてこの3つの背後には、行われようとしている「学習」から自分たちを守る共通の防衛(自己保存)機構のはたらきがあるのかもしれない、と。
 つまり、国民的な耽溺というものが存在する。プライドを伴った、自己愛(&愛国)への耽溺の結果が、純愛を、反戦平和を、英語を学ばない国民をつくる。(この考えは、G・ベイトソンの「性格形成的学習論」を下敷きにしています。)

 イタリアはヨーロッパに五感に基づく人間性の再生(ルネサンス)をもたらした文明国。それが英独の無粋にピューリタンな−−論理によって感覚を抑え込むような−−文明の支配に甘んじるようになった。美味しい物を食べ、美味しい男女を愛でたり撫でたりすることが、彼らの、絶対にゆずれない、いわば自己存立のバックボーンになっていて不思議はない。

 野獣と〃蛮人〃のWildernessだった西部の開拓の歴史からまだ三,四世代しか経ていないアメリカ人、特にその内陸に住む人たちは、銃をそう易々と手放せない。銃が家族の中心にあり、銃が家族を守る父親と切り離せなかった時代のことは、僕らにも、『子鹿物語』のような映画を見ると、ヴィヴィットに理解できる。銃を持つ権利を奪われることは、彼らの自我のありようを崩されることなのだ。何ごとか起こるたびに常に gun control が叫ばれ続けるアメリカだが、彼らがガンの所持を実効的に抑止したことは一度もない。

 翻ってニッポン。ことあるたびに、コミュニケーション・イングリッシュの必要性が叫ばれる。だが実効的な教育が根付いたためしはない。必要だという掛け声は、できの悪い英語教師の雇用を拡げる役に立つだけ。意識の高い施政者と能力の高い教師とが、悪貨を駆逐する形で、学習者の身につく英語プログラムを起ち上げたことは、国家レベルでは一度もない。なぜだろう。僕らが「心から」はそれを望んでいないからじゃないか。日本語でのつきあいに、日本語を通しての笑いと泣きと思考とに、自己を埋もれさせている僕らにとって、英語を「知識」または「かっこつけ」以上のものとして吸収する欲望は、もとよりない。そのことは認める必要がある。

 日本語の包容力。その母親的・靖国的やさしさについては、僕も知っている。1年間、完全に英語漬けの暮らしから、日本へ帰ってきたのは18歳のときで、まだラジオ深夜放送は、愛川欽也や糸居五郎の時代だった。番組を聴いて大笑いしているうちに涙が出てきた。

 イタリアで純愛教育が根付かないのは、熱愛に耽ってもバランスが崩れないような形で、社会の均衡がとれているからだし、日本で英語教育が根付かないのも、一億超の人間が、(翻訳不能とされる)日本語を通してのつながりに、心の安定をゆだめているからだろう。だからこそ、英語を学ぶとき、それを「知識」のレベルに追い返す動きが、英語教育現場で、常に活性化されるのだろう。

 無邪気な母親は、「英語を使いこなす日本人」のイメージを我が子に託す。自分では受け付けていないのに、子供なら吸収してくれると思う。その不合理な夢想を、一部の企業家や政治屋が、煽っている。

 僕らは、自分でも意識しないところで、英語を受け入れない構えを敷いているのだ。
 それを知らずに、英語教育の重要性を訴えたところで、ハンフリー・ボガートの映画の中で禁煙運動をするみたいな話にしかならない。

 とはいえ、アメリカでも、ボガートの映画から一世代後には、けっこうマジな嫌煙運動が展開されていた。歴史も、人の心も、可動的であるのは事実。
 さあて、どうする、教え直すのか、日本の英語。
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2011年10月26日

「17歳のこの胸に」

プロフィールに「1968年に17歳でアメリカの高校に留学」と書いたが、その時の出来事を、人前で語ったことはほとんどなかった。

僕の場合はAFS-15期。この夏、40年以上ぶりに、59歳から61歳までの同期の仲間が多数集まった。誰かがMLを組んだら、すごい量のメールが飛び交って。一気にそういう展開になったのだ。そして、いかにも昭和の子らしい「文集を作ろう」という話が出てきた。

「文集」といえば「ガリを切る」(ガリ版の上に原紙を置いて鉄筆でガリガリ書くこと)という言葉が出てきそうな世代の者が、でも、どうやって作るんだ? という話を始める。「まずブログを組むといいと思うよ」と僕が持ちかけ、みずから係となった。

というわけで、みんなの原稿をアップしていくうち(現リビア大使の西ヶ廣君もちゃんと投稿してきた)、封印していた僕の過去が溶け出してきたみたいで、僕ののめって書いてしまった。すでにネットにアップしたものだから、内緒にしてもしょうがない。一部をここにも乗っけます。

"Aki, get a date for Friday night. We're going to . . . " これが毎週、火曜日くらいになると降り掛かってきた宿題だった。最初は「もの珍しさ」も味方したのか、ガールズの反応は悪くなかった。でも、結局、僕にふりまくべきどんな魅力があっただろう――自分がアメリカナイズされている証拠がほしくて、戸口のキスをねだるような子に。それならむしろ、引っ込み思案の読書家みたいな方が、女の子から見てマシだったかもしれない。それでも僕は、体育会系少年の根性で毎週電話にしがみつき、エリアコードの違うフレージャー家の電話請求書の額を跳ね上げた。"Bob, you go out have your fun. I'll stay home and do my thing, OK?" ――これが言えなかった。そういう「知恵」は〈アメリカ〉からの「逃げ」のような気がしていた。不合理で、ちょっと破壊的でもあるけれど、熱気と葛藤に覆われたその不合理こそが青春なのだと、今は思える。

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2011年08月18日

ニッポンの無機能システム(1)

 先日『英文学者 夏目漱石』の紹介かたがた、英文科の無機能について考えを述べた。「無機能」と断言するのは言い過ぎだろうが、英文学の学習が、英文学を味わうに一番必要な、英語的な思いのコミュニケーションの習得を伴わずに進み、それゆえに、本当の意味での文学者としてやっていくのに必要な素養のない人たちが、おずおずと大学教授その他の専門的な役職に就いている(「英語教育の専門家」はマシだと言っているわけではない。)。
 その仕組みでも、世の中は回っていく。英語に関してはおずおずしながらも、先生として敬われ、学生に対しそれなりの権威を保ち、よい人間として善をなす−−そんな大学の日常も一方で営まれていることを僕はよく知っている。そんななかで、頑張った学生が、院にいって論文を書き、システムを再生産している過程にも長年接してきた。
 だけども違うのである。退職し、キャリアを終えた今でも釈然としない。そのシステムは「フォークナーの専門家」と、システム内で呼ばれる人間は作れても、またピンチョンで博論を書かせ学位を与えることはできても、「テクストを英語で感じる力」はなかなかもって身につけさせることができない。何十年も高度な英語に関わっていながら、ちゃんとバイリンガルとしてやっていける人の数がいかに少ないか−−そういう人間を日本の専門教育システム内部から生み出せない、そしてそれが常識化していることは−−驚くべきである。

 この問題を社会のシステム論として考えてみる。
 和をもって尊しとなし、出る釘を打ち、郷に入ってきたキコクシジョを郷に従わせる――それと基本的に同じ力が働いて、「専門家」の集団であるはずの社会でも、能力の低いところに標準ラインを設けるような力が働きがちなのだ。標準を事務的な単純過程の処理に設定し、「それ以上の能力がある人は特別なんで、そういう特別な人は、外で能力を発揮してください」という了解が成り立ってきたのが、大学社会。
 学生はそれで不自由しなかった。大学は名前が肝腎であって、すでにその名にあやかっている者たちは、ニッポンの無教育をエンジョイしていれば,基本的にはよかった。教員と同じで、それに飽き足らない一部の学生は「大学の外」で勉強をしたわけだ。

 たぶん大学だけではないのだろう。原子力委員会でも、東電の内部でも、政府自体にも、似たような「能力の下揃え」の構図がはたらいているに違いない。これだけの危機になって、能力あるリーダーの下でまとまれない、というのは、構造的にそれが避けられているとしか考えようがない。

 いやあまり話しを広げるつもりはない。僕が追究したく思っているのは、最終的に、「日本では、なぜ英語習得にあれほどの努力がなされているにも関わらず、学習の定着がみられないのか」という問題である。これは、まだ誰も答えに近づいてもいないように思える、近現代日本の重要な課題だと考えている。
 一気に論じようとしてもだめだ。問題の射程はきわめて大きい。
 たとえば、受験英語という「国風英語」がいかに形成され、維持されてきたが、それは我々の心の奥のいかなる必要に根ざすものか−−この問題を部分的に論じるだけでも、一冊の書物を書く気構えが必要かもしれない。
 このブログで、ときどき、徐々に、具体的に、問題点のあぶりだしを図っていくことにしたい。きょうはこれまで。
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