2011年08月13日

脱SVO:心情の論理を追う翻訳術

英語は(ヨーロッパの言葉一般、というべきか)SVOの構文的支配力が強い言語だということは、このブログでも繰り返し強調してきた。
「誰が」したのか、しているのか、ということを曖昧にしにくい言語と、日本語のように、曖昧にしやすい言語があるということである。

 英語で間接話法と直接話法の区別がしっかりしていたり、一人称の語りと三人称の語りが日本語以上に明確である(ように思われる)のも、「誰が」「誰に対して」ものを言っているのかという意識が、構造的に、明確だからだろう。

 Mary is worried that if she called Jack on the phone, he might not recognize her.

 英語ではこれで非常にスッキリしているのだが、同じことを日本語で言うとき

 メリーは、もし彼女がジャックに電話をしたとして、彼が彼女のことを認識しないのではないかということを心配している。

というふうに「は」「が」「を」を連発しないだろう。そうではなく、こんなふうに言うはずだ。

 ジャックに電話をしても自分が誰なのか分かられないかもしれないのがメリーには心配だ。

 つまり、メリーの思い(内的なモノローグ)に寄り添うよう表現するのが日本語では自然だということ。日本語に内在する「統語的論理」というべきものが、そこには反映されている。

 さて、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』の冒頭の長い一文。

One summer afternoon Mrs. Oedipa Maas came home from a Tupperware party whose hostess had put perhaps too much kirsch in the fondue to find that she, Oedipa, had been named executor, or she supposed executrix, of the estate of one Pierce Inverarity, a California real estate mogul who had once lost two million dollars in his spare time but still had assets numerous and tangled enough to make the job of sorting it all out more than honorary.

 20世紀の小説の書き出しとしては異様な長さで、そのスタイルというか、特別なクール感をピンチョンが模索しているのはたしかなのだが、ここではとにかく訳文の「自然さ」という点に限って考えることにする。

 上の文をを、志村正雄氏は次のように訳された。標準的かつ正確な訳文、と感じられる人が多いだろう。

 ある夏の日の午後、エディパ・マース夫人はタッパーウェア宣伝製品のためのホーム・パーティから帰ってきたが、そのパーティのホステスがいささかフォンデュ料理にキルシュ酒を入れすぎたのではなかったかと思われた。家に帰ってみると自分−−エディパ−−が、カリフォルニア州不動産業界の大立物ピアス・インヴェラリティという男の遺産管理執行人に指名されたという通知が来ていた。死んだピアスは暇なときの道楽に二百万ドルをすってしまったこともあるような男だが、それでもなお遺産はおびただしい量で、錯綜としているものだから、そのすべてを整理するとなればとても名義だけの執行人というわけにはいくまい。

 全体に正確な訳文の、最後のところで、原文の型を少し外して日本語のすべりをよくしているのに注目したい。「わけにはいくまい」という推定の思いが表れているのだ。「資産が仕事を名義的なもの以上にする」というSVOを崩して、自発的な思いの表出に構造を切り替えている。そしてそれが、読みやすさに通じている。

 だが同じ処理を、もっと多くの箇所でできないか。たとえば最初の部分の

whose hostess had put perhaps too much kirsch in the fondue
 
というところ。この「ホステス」(パーティを主催した家の奥さん)は話に登場させる必要があるのか。もし彼女が、語られるべき「人」というよりむしろ、SVO構文で考える言語の、Sの位置にはめこまれた「記号」にすぎないのだとしたら、そもそもその構文を取る必要のない日本語では、消えてもらっていいのでは?
 このときのエディパ思いは「あのホステスがキルシュ酒を入れ過ぎた」でなくてはいけないのか? 「やーね、まだ口の中にアルコール分が残っている気がする」でも同じなのではないか?
「誰が何を何した」というSVO構造を廃して、エディパに跳ね返ってきた現在の状態を言葉にするというやり方にしたら、こんな訳文が生まれるかもしれない。

ある夏の午後、タッパウェア・パーティから帰宅したミセス・エディパ・マースは、フォンデュの中にたっぷり入ったキルシュ酒の酔いもまだ醒めやらぬ頭で、自分が、このエディパが、ピアス・インヴェラリティの……

 たしかに賛否の分かれるところだろう。「醒めやらぬ」とは書いてない。それは事実でないかもしれない。だが、そう訳しても、物語を傷つける(何か加えたり減らしたりする)ことにならないのなら、この賭けに出ることで、日本語としての構造的首尾一貫性(エディパの気持ちから離れない)が確証されるという利点を取る方が得ではないかと僕は思う。

原文を「脱SVO化」することによって日本語の流れを作っていくことも、それぞれの言葉を正しく置き換えるのと同じくらい重要な訳者の仕事である、と。

 もう一点、リテラルな訳文から意図的に外れたところを示しておきたい。
 原文で、one Pierce Inverarity という言い方がされている。
 英語では、相手の知らない人物について語るとき、その名前はご存じないでしょうがという含みをもたせるために one や a をつける習慣がある。固有名詞に「あるひとつの」という感触をもつ不定冠詞をそえて「いきなり感」を殺ぐわけだ。
 原文では、「語り手→読者」という語りの構造が堅固にできているので、この one に不都合は生じない。
 ところが日本語はもっと情念的な構造をしている。日本語の読者は主人公との距離を無化できる位置にいるのだ。だから語り手と主人公との隔絶を前提とする one Pierce Inverarity のような言い方を訳すときには注意が必要である。

  (Oedipa found that she) had been named executor . . . of the estate of one Pierce Inverarity,
を 
   エディパは自分がピアス・インヴェラリティという男の資産の遺産執行人に指名されたと知った。

と訳したらまずい。「元恋人」である人について「〜という男」という言い方はされない。

さらにもう一点、
had assets numerous and tangled enough to make the job of sorting it all out more than honorary
というところを「それでもなお遺産はおびただしい量で、錯綜としているものだから」
と断定してしまっていいものだろうか。

原文では、語り手が読者に対して示している事実なのだから、この断定は論理的である。
ところが、日本語では次の「そのすべてを整理する」の主体がエディパである以上、遺産が「おびただしい量」だということも「錯綜としている」ということも、彼女の視点から、推断として示されるべである−−

ある夏の午後、タッパウェア・パーティから帰宅したミセス・エディパ・マースは、フォンデュの中にたっぷり入ったキルシュ酒の酔いもまだ醒めやらぬ頭で、自分が、このエディパが、ピアス・インヴェラリティの資産の遺言執行人[エグゼキュター]──女なら「エグゼキュトリクス」か、と彼女は思う──に指名されていたことを知った。インヴェラリティといえばカリフォルニア不動産業界の超大物。お楽しみの時間に二〇〇万ドル失ったこともあったけれど、それでも彼の遺産となれば、数量的にも複雑さにおいても圧倒的であるに違いなく、そのすべてを整理分配するとなれば、お飾りの執行人というわけにいかないのは明らかだ。


まとめ
英語教育において「SVOの千本ノック」が必要になとすれば、逆に英語小説の翻訳においては、脱SVOの処理がポイントの一つとなる。それと絡んで、間接話法/直接話法、三人称/一人称の差異構造を,日本語でいかに(部分的に)崩していくかが、物語を日本語フォーマットに移し替えるさいには重要だ。英文の構造を保ったままでは、三人称の語り手と主人公との視点とが、変に干渉しあってしまうことがある。それを避けるためには、できるだけ主人公のアクチュアルな思いにしたがってナラティブを組んでいくのが安全策。『競売ナンバー』のような複雑な小説も、それによって、訳文の吸引力を高めることができると思われる。

なおこれはあくまで安全策だ。原文の長くてポップな実験文体を創造的に移し替えるには、また別のチャレンジが必要とされるだろう。
posted by ys at 06:16| Comment(0) | 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

東大の愚走、予備校の力不足──2011東大入試リスニング問題Aへのコメント(保存版)

(updated, 10:00AM, 6/17)

2日間にわたって論じてきた、2011年2月施行の、東京大学前期課程入学試験問題の中の1問
 →こちら、PDFダウンロードもできます。
サトチョンの議論の保存版をまとめてみました。社会に向けてのメッセージは以下の通り。

1)問題作成者は、テクストは正しく読み、筆者の意図をねじ曲げることはやめてほしい。
2)それよりまず、ご自分が誰に対し、何をしているのか、よく考えてほしい。
3)東大をつついても何の反応も出てこないだろうからつつくことはしないが、ここにずっと掲載しておくので、来年の問題の改良に役立ててほしい。
4)予備校さんも、この問題で迷惑を被っていることと思う。何ごともなかったようなフリをするのはやめて、学生を不安に陥れるのも教育だと思い、東大に噛みついてほしい。

なお、この「保存版」の掲載とともに、「日本一権威があるかもしれないテスト」(6/15)と「あなた方はご自分が何をしたのか分かっていますか?」(6/16)は削除します。「東大入試の権威の内実」(6/15)は、「どうした、東大入試制作班」というタイトルで内容をまとめ直して残します。

 以下5つの設問と選択肢を並べます。そのうち、私がすんなり答えに至ることのできたものは、ほとんどありませんでした。それはなぜなのか、いったいこのテストの中で何が起こっているのか、分析していきたいと思います。

【これから放送する講義を聴き、(1)~(5)の各文が放送の内容と一致するように、それぞれ正しいものを一つ選び、その記号を記せ。】

(1) According to the dictionary, one meaning of the word "landscape" is
ア a visually attractive area of land.
イ a visual representation of an area of land.
ウ an area of land shaped by human activities.
エ a personal interpretation of an area of land.

 該当部分のスクリプト(予備校提供)
According to the dictionary, the word has two basic meanings. On the one hand, it refers to an area of land, usually but not always in the countryside, together with all its natural features; on the other, it can also refer to a picture of an area of land. The first meaning defines a landscape as being something natural, the second as being a work of art.

 大手予備校共通の正解 「イ」
 サトチョンの正解 「イ」および「エ」

 《解説》辞書には、
landscape: 1)風景(自然的特徴を備えた一定の土地); 2)風景画(芸術作品)
と定義されている、と言っている。よって
08-781865.jpg
このセザンヌの「モン・サント・ヴィクトワール山」のようなものは、辞書の定義する landscape である。その絵は、もちろん visual representation であるが、その土地の personal interpretation(個人的解釈)でもあるのは確かだ。

(2) For Kenneth Clark, a landscape is
ア any picture of a place.
イ an area of countryside.
ウ an artistically skillful painting of a place.
エ a transformation of country into a painted image.

 大手予備校共通の正解 「イ」
 サトチョンの正解 強いていえば「イ」
だが、
  For Kenneth Clark, a landscape is an area of countryside.
 という言い方はあまりに舌足らずで、それが美術史の大家ケネス・クラーク卿(以下KC)の「考え」であるかのように捉えるのは、フェアではない。
 これがどのような意味で「舌足らず」なのか、論理的に分析してみよう。
スクリプトで言っていることは、KCの本のタイトルに、風景を土地そのもの(単なる素材)に擬えるような前提が読みとれる、ということ。(The title [Landscape into Art] assumed a fairly simple relationship between its two key words: "landscape" meant some actual countryside, while . . . )
 要するに筆者は、KC が前提とする関係性を問題にしている。
   KC にとっての Landscape:KC にとってのArt = 自然素材:想像力と技巧による加工品
 の関係になっていることをついているのであって、それ以上のことを言っていない。ここにあるのは「関係性(比)の思考」であって、それを「 landscape とは自然素材である」という実体的思考に転換するのは正しくない。
 (a : b = c : d だと言われると、人は「じゃあ、 a=c なのか」と考えてしまいがちだが、それは論理的な誤り。2 : 4 = 3: 6 が意味するのは、「2の4に対する関係は、3の6に対する関係と同じ」ということであって、「2=3」ではない。)

(3) According to the lecturer, landscape is created by a photographer when he or she
ア imagines a place before going there.
イ prints his or her picture of the place.
ウ looks through the viewfinder at a place.
エ presses the shutter button to take a picture of the place.

該当部分のスクリプト
Land, whether cultivated or wild, has already been shaped before it becomes the subject of a work of art. Even when we simply look at land and enjoy the beauty of what we see, we are already making interpretations, and converting land into landscape in our heads. We select and frame what we see, leaving out some visual information in favor of promoting other features. This is what we do as we look through the camera viewfinder at a countryside scene, and by doing so we are converting that place into an image long before we press the shutter button. Thus, although we may well follow an impulse to draw or photograph a particular piece of land and call the resulting picture a landscape," it is not the formal making of an artistic record of the scene that has made the land into landscape. The process is in fact twofold: not simply landscape into art, but first land into landscape, and landscape into art.

上の訳文
 人間の手が入ったものであれ野生のものであれ「土地」というものは、一枚のアートの主題になる前にすでに「形づけ」られている。われわれがどこかの土地を見てそれを美しいと思う、その単純な出来事が起こる前に、解釈という行為によって、「ランド」が「ランドスケープ」に変換されているのだ。われわれは周りを見るときに選択と枠づけを行っている。視覚情報のうちのあるものを排除しつつ他の特徴を拾い上げ際立たせているのだ。田舎の景色をカメラのビューファインダーを通して覗くときに我々がやっていることがそれなのだ。そのときシャッターを押すずっと前にわれわれは、その場所をイメージに変換している。であるからして、あるランドの一角を絵に描こう、写真に撮ろうという衝動にしたがった結果生み出されたものを「ランドスケープ」と呼ぶにしても、「ランド」を「ランドスケープ」に変えるのは、目に見えた光景(scene)のアーティスティックな記録を作成するという形式的過程(formal making)なのではない。この過程は実のところ、2つの段階からなっている。単に「ランド」から「アート」へというのではなく、まず「ランド」から「ランドスケープ」へ、しかるのちに「アート」へという過程である。


大手予備校共通の答え:ウ
サトチョンの解答:イ
 がベスト・アンサーだが答えとして適切ではない。
《説明》
「講師」が言っていることは単純。上記のケネス・クラークの風景論(が前提とする関係性)がなぜいけないか、その論拠を示している。長いスクリプト全体を通して言っていることは、つまるところ、これ:
 「景色」は「土地」とは違う、「景色」はすでに「土地」を edit(編集)し、frame(枠づけ)し、interpret (解釈)した representation (表象)である。 
 講師は写真家の仕事について何も言っていない。landscape とは、頭の中で、 edit and frame されたものだという考えを伝えるのに、写真撮影の比喩に頼っているだけ。すなわち、「まるでカメラで景色をフレームし、焦点を合わせるようなこと」を、我々は常日頃、頭の中でやっている、と。だから、

 (3) According to the lecturer, landscape is created by a photographer when he or she ……

というふうに、photographer の頭の中に landscape が形成される瞬間がいつかという設問は、そもそも成り立たない。そんな情報は、講義の中に出てこない。ところが文脈が摑めずに、

This is what we do as we look through the camera viewfinder at a countryside scene, and by doing so we are converting that place into an image long before we press the shutter button.

という一節だけを聞いて設問に答えようとすると、あたかも
ウ looks through the viewfinder at a place.

が正解であるかのように聞こえてしまう。しかし、筆者も "long before" という言い方で念を押している通り、カメラを覗く前に、撮影者の頭の中に「風景」になる構図とかがイメージづけられているという点を理解するのが大事なのだ。ウは正解ではない。
 選択肢を見ると、正解っぽいのは「ア」しかない。だが、この「正解」とされる文を読んでほしい。「講師」はこんなことを言っているだろうか。こんな変なことを言い出しそうな人だろうか。
 According to the lecturer, landscape is created by a photographer when he or she imagines a place before going there.

 彼が言っているのは、人は実際に景色を見る前に、景色になるイメージというものを携えている。だから人が土地を見るとき、それは自動的に風景化されてしまうのだ、と。まるでカメラのファインダーを覗くようなことを、カメラなしにやっているのだ、と。
 しかし実際、プロのカメラマンは、そのような自動的な動きと格闘する中からアートを創っていくのではないだろうか。そしてこの講師も、芸術が分かっている人なら(東大入試にレクチャラーとして登場するほどの人なら)、そのくらいのことは分かっているはず。
 サトチョン、結局 正解ナシ

(4) According to the lecturer, our ways of seeing landscape have been most strongly shaped by
ア the visual prejudices of artists.
イ the landscape images we have seen.
ウ our private experiences in art galleries.
エ our conscious knowledge of landscape art.

論理敵には答えを絞れる問題でしょう。このレベルの観念を耳で聞くのと同時に頭で処理するのには、受験生が言ったように「死ぬほど時間たりねえ」かもしれませんが。
ただ選択肢の並べ方が「プロ」ではありませんね。ウに private 、エに conscious という形容詞がついています。
形容詞で限定される選択肢と限定されない選択肢が混在するとき、答えはおのずと決まることが多いようです。
出題者には、「この一語を入れて限定しておけば、より確実に間違いになる」という心理が働くもの。
そこに目をつけると、選択肢を見ただけで、正解の予測がつきそう。まあそれには「ア」の意味(というか「芸術家の視覚的偏見によって我々の風景感は強く左右される」という文の無意味さ」が読み取れることが必要だけれども。

(5) The lecturer concludes by saying that the term "landscape" refers to:
ア an area of land enjoyed by a viewer.
イ a widely known image of an area of land.
ウ an area of land which has been mentally processed by a viewer
エ an area of land which different people interpret in a similar way.

予備校共通の正解 ウ
サトチョンの正解 解なし
(強いていえば「イ」と「ウ」の組み合わせ)

英語がいかにも苦しいので、設問と選択肢も日本語にしましょう。

(5)最終的に講師は「ランドスケープ」とは何だと言っているか
ア 観る者が喜びを感じる土地
イ ある土地について広く知られたイメージ
ウ だれか(単一の)観者が精神の内部で加工した土地
エ 違った人たちが同じように解釈する土地

とにかく最後のパラグラフを書き出してみよう。3つの文のうち、1番目と3番目で充分です。

A land, then, can be defined as what a viewer has selected from the land, modified according to certain conventional ideas about what makes a "good view."
ここで講師は、「風景」をつくる心理学的側面と、社会的側面を組み合わせようとしている。

landscape = personal editing of the land + socially conventional ideas

という公式。一番最後の文で、この公式は確認される。

This definition will cover both landscape as (1) a viewer's private interpretation of a piece of land, and landscape as (2) a publicly visible picture of a piece of land which has been created by an artist or a photographer.

(1) 前掲のセザンヌの絵はこの例。
(2) セザンヌの絵が、観光客にこういう写真をたくさん撮らせたという意味で 下の写真はこちらの例。
images.jpeg
最後に講師は、両方の意味を組み合わせた定義を模索しているので、アからエのうちどれか一つが正解だということはありえない。

☆コメントもどうぞ。(下の「コメント」をクリック)
posted by ys at 23:04| Comment(2) | 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月15日

どうした、東大入試制作班

6月10日のエントリーでぼくはプロの競争原理の働かない社会に生きる「学者」たちが、職業上の「スキル」を伸ばしていく上で障壁となる環境に言及しました。
 
 ◎研究することと、研究したような体裁をつくることが、同じであっていい環境
 ◎翻訳することと、訳文らしきものでページを埋めることが、同じであっていい環境

という言い方を選びました。皮肉の意図はありません。ふつうに観察できる事実だと思っています。
 しかし入試は、大学教員が関わる業務の中でも一番責任が重いとされていること。まさか

 ◎選抜試験問題を作ることと、それらしきものでページを埋めることが同じ

になってはいないと思いたい。

 先日ちょっと気になって、東大入試を終えた受験生がああだこうだ言い合うスレッドを覗いてみたら、こういうのが載っていました。

 英語リスニング意味不明すぎて笑ったわ。時間死ぬほどたりねーし。

実際どうなんでしょう。実物を見てみましょう。
東大の今年のリスニング試験は問題AからCまでの三部構成でした。そのうちBとCは内容的に連関しています。Bはレクチャーの文章、Cはそのレクチャーに基づいての口語的なディスカッションの文章で、19世紀アメリカの社会運動という題材がベストであるかはともかく、入試問題としての妥当性は充分ある問題だと思われます。

 問題はA。リスニングの最初の問題がいきなりこれで、上記の受験生は「意味不明すぎて笑ってしまった」んでしょう(本当は怒りをためてほしいのですが)。

問題はこちら

1)文章のスタイル:いま述べたように、これは論説文であって、講義の文章ではない。目で見て論旨を追う論説文のスタイルであって、文そのものも、オーラル・コンプリヘンションに適した構造をもっていない。

2)そもそも特定の読者層を想定したテクストである。
 この内容は、大学の美学や表象文化論等の「専門」で〈読む〉べき内容です。それもかなり抽象的。東大の専門課程で、この内容を英語で授業する人は、もっとかみくだき、冗長性をつけながら行うはずです。4段落目のように The question then of course arises などという高い目線の言い方はしないでしょう。

3)英語フレーズの難度が、耳で聞くには高すぎます。読解試験でも、註をつけたくなる単語も含みます。

 平均的受験生が分かる限界は、たぶん、work of art あたりです。これを文脈の中でネイティブ発音で聞いて「芸術作品」だと瞬間的に反応できるなら、受験生としていい線をいっていると思います。 an area of land になると、音での識別がつらくなるでしょう。refer to は音として聞けても、ネイティブの高校生も、気取ったときしか使わない単語です。耳で意味をすんなりとるのは難しいのではないでしょうか(少なくとも90年代の東大一年生のレベルはそうでした)。

このテクストの中から、ほとんどの受験生の耳に、そのまま聞いてどういうことか理解されるのはまず無理という難解フレーズ、いくつかを並べておきましょう。

難 assumed a fairly simple relationship between the two key words
難 raw material waiting to be processed
難 land, whether cultivated or wild
難 converting land into landscape in our heads(文末の heads は聞きにくい。in our minds だったら、まだ聞きやすかった)
難 mentally frame views(観念として難)
難 the process is powerfully─and almost always unconsciously─affected by (ダッシュのある文は、リスニングでは避けるのが賢明では?)
超難 'art" was what happened to landscape when it was translated into a painted image(happen という単語は文脈から予想だにしていないので、what happened が「ワラッペン」のような音で届くとき対応できないだろう。translate を翻訳以外の意味で使うのも受験生泣かせ)

超難 can, however, be seen in a more complex way than either the dictionary or Clark suggests.(しゃべる講義なら、2つか3つの文に区切って提示する内容です)
超難 follow an impulse to draw or photograph a particular piece of land and call the resulting picture "a landscape" (完全に文章語)
超難   the formal making of an artistic record of the scene (formal という語の意味は?)
極めつけ the visual prejudices that shape how we privately respond both to our natural environment and to pictures of that environment.
 「視覚的偏見」という言葉で日本の高校生がわからないとしたら、アメリカの高校生も visual prejudices でわかりませんよ。
もうひとつおまけに
超難 modified according to certain conventional ideas about what makes a "good view." (what 以下だけの意味をとるのも大変)
さらに

観念としては扱い切れても、ブレスなしで単語が続くとお手上げになるという部分もあります。もう少し聞きやすくなるように書き換えることはできなかったか。これは長いです。

not only paintings of the kind we can see in art galleries but also the numerous representations of land we see in photograph . . .

 この出題委員会は、試験を受けようとしている学生の身になって、その聞こえを想像したことがあるんでしょうか。ご自身たちは優秀だったのだろうと思いますが、受験生のときに、どこまで聞けたんでしょうか。

 このレベルの問題を入試で要求するということは、受かって入ってきた学生への何らかのメッセージになっているんでしょうか。それともその種の responsibility はしくみとして排除されているのでしょうか。

 入試問題に関しては一切のコミュニケーションが存在しません。正解も発表しなければ、疑問も持っていく先もありません(たぶんないのだと思います)。入試は絶対権力の世界です。それであるならば、専制君主は、みずからのクォリティを証明すべく、スキを見せずにいてほしい。
 
 長くなりましたが、この問題から見える問題は、テクニカルなものという以上にエシカルな(教員の人徳に関わる)ものだけに、とても気になります。

4)とはいえ、テクニカルにもうまくない。それは設問に関わることで──

 これについては書き込みを改めます。
posted by ys at 21:29| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月18日

SVOの千本ノックを

(5月19日、諸調整)

退職を前に『英語青年』に「Renovation Blues(改革憂話)」という連載を書かせてもらった。その中に、東大の一年生の授業で,英語でチャットさせる苦労話を入れたことがある(2007年1月号)。
 「苦労」というより実は「苦笑」に近い。高校までよく躾けられてきた彼らは「べき論」は得意なのだ。

  I make every effort;I am responsible for; I should try harder

これらの言い方は上手にこなす。ところが命令文や単純な現在形・過去形を操るのは得意でない。I do this, you do that; I went there, you came too……というよりな、シンプルな英語が、なかなかスラスラ出てこない。

 canや should は堂々と使うのに、それらを取り去った直説法の動詞によるハダカの物言いが苦手。そして具体的な名詞を知らず、それらが出てきたときにも、単数で発想するか複数で発想するかの感覚がほとんど鍛えられていない。
 要するに、世界を「物に対するアクションの場」としてみていない。さきに〈放射能に婉曲語は必要か〉のページで書いた言い方でいえば、「SVO感覚」が育っていない。その原因は、もちろん、日本の英語教育の伝統にもある。

 A sound mind lies in a sound body. (健全な精神は健全な身体に宿る)

みたいな言い方を、多くの日本人は憶えているのに、

 She tickled me, so I stuck my tongue at her.(彼女が僕をくすぐったので、僕は彼女にアカンベーをした)

みたいな内容は、みなさんもなかなか、英語で言えないことだろう。単語自体を教わらないので当然なのだが、では、なぜ教わらないのか。品格がないからか。もちろん、それもあるだろう。だが、個々の動詞の意味だけでなく、他動詞的な世界そのものを、僕ら日本人──特にその支配層──は、品格がないとして退ける傾向はないだろうか。

日本語の構造(構え)に目を向けよう。「スの動詞」と「ルの動詞」の対照に注意──

 「汚す」と「汚る」(現代では「汚れる」) 
 「隠す」と「隠る」(現代では「隠れる」)

「す」は 「する」であり、アクションを表す。
「る」は「なる」の系統で、自然の変化や状態を表す。
  (*「縫う」「書く」「放つ」……動詞の終止形は各段に及ぶけれど、これらの動詞にも「る」を被せることができて、「縫われる」「書かれる」「分かたれる」とすると、主体性が拭われ、受動性や「おのずと」という自然さが高まる。)
  (** 決める/決まる など 別系統の対照づけのカタチもあることは周知のとおり)

「す」と「る」の対照は、より意識的なレベルでも生きている。(使役の助動詞/受身自発尊敬可能の助動詞、との対照して伝統文法では認識されている)
 「これ、だぶません?」「そうだな、ダブらたくないな」
 「皇子がセクハラなさました」 (アクションの直接性を拭うことが敬語につながる)

 語法の細部に入り込むとたいへんなことになるから、いまは不精確ながら大まかに、次の傾向に注目しておこう。
「ス」の動詞が基本的に人為的な行為を表すのに対し、「ル」は一般に「自然に」または「本来」というニュアンスを持つ。後者は人間の意志を伴わず、自然のプロセスをいう傾向が強く、伝統的に日本では、自然化(脱行為化)することが相手を敬うことに通じるような心の枠組みを発達させてきた。
 もちろん自然だから神聖ということはないが、自然であれば、少なくとも「仕方がない」──かた(スの動詞で立ち向かう方法)がない、ということである。

 「津波で家が壊れ、瓦礫が散らかっている」

 ほんとうに「しかた」がない。こういう負けの感覚を、心を荒ませずに「ル、レルの動詞」(壊れる、散らかる)によってまとめあげるのであって、

 「津波が瓦礫を散らかした」
  ──とは日常的に言わない。「スの動詞」を使うと、その主語に人為的な意図がこもってしまうのだ。この言い方に走ることは、津波に敵対する構えを取ることだ。

 英語ではそういうことはない。

The earthquake crashed thousands of homes.
 Tsunami devastated the whole area.
That amout of radiation will make you seriously ill.

なんでも主語に立て、どんどん[SVO]で記述する。だからといって「あの地震野郎」という気持ちはこもらない。[SVO]の構えに情緒はない。
そういうニュートラルな構えを僕らは取らない。ぼくらがまず目を向けるのはアクションではなく事態や状態だ。世界のありさまを過去分詞で形容詞で情緒的に捉える。

  「放射能ですっかり汚染されちまったよ」──これが僕らにとって落ち着きのよい(事を荒立てない)思いである。

  「誰が汚したんだ」「東電だろ」「いや政府だっぺ」──と言い出すのは、次の段階ということになる。

日本語に主語があるか、という論争が長らくあるようだが、これも造りの問題より「構え」の問題として考えるべきであると僕は思う。

 「この村は汚れちまった」の「この村」は、何ら主体性をもっていないのだからとりたてて「主語」と呼ぶ必要はない。ところが、

 「東電が汚したんだ」の「東電」は、文字通り主語である。

この文においては、主語が、責任という厄介なものを携えて、立っている(立たされている)。

 本当は、そんな厄介な主語は立てたくない。事態の内部に埋め込んでおきたい。そして自然の脅威(驚異)と恵みの中で、みんな同じ人間として生きていきた。
 だがテクノロジーをもって、環境を意志の力に従わせようという近代人が、そのような没我の理想にこもることは許されないのだ。主語が目的語を掻き回すという騒がしい構造を、避けてばかりいられないのだ。すでに自然に対して、世界に対して、これだけアクションをなし、利益をせしめている。その責任を自覚した思考を、政治と外交の場で実践しなくてはならない。
 ここに英語教育の果たしうる役割がある。
 
 僕の立場は、往年のヒッピーのそれであって、SVOの思考は、個人的に好きではない。アクションではなく、美味しい知覚を好む。自我の突っ張ったアクションを、開発や金融の世界から減らしてもらいたいと常に願っているところがある。本当に「地球にやさしい」文明を実現しようとするなら、「受身」に価値を置く日本語的思考を、世界に紹介し、広めていくべきだとさえ思っている。

 だから小学校で英語を教えろとか、ネコも杓子も英語を学べ、みたいな言説には、大反対である。

 だが、ちゃんと英語を躾ける教育を、一部の人間に(たとえば全人口の1%)に施すことは必要だと考える。英語と日本語の両方をかなり自由に操れる人間がこれから世界に増えていくだろうが、その中に、たくさんの日本人がいたほうがよい(経済的にも文化的にも僕らの利益に叶う)と考える。そのためには、ある程度のスパルタ(無意識の構えの鍛錬)が必要である。

 まずは英語の時間に、「誰が誰に何をした」、ともっともっと言わせることに意義はあるだろう。
 Time flies. All roads lead to Rome. A sound mind lies …… の「静寂」にこもっていないで、具体的なアクションを、SVOの形にまとめる練習がもっと必要。将来の官僚をめざす輩には「SVOの千本ノック」をして、国際的な自我の感覚を鍛えてあげた方がいい。
posted by ys at 09:23| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月21日

その次には、こんないい文章が

今年の東大、英語の入試。
1(B)の問題は、16歳の高校生が、お爺さん、ひいお爺さんの写真を見ながら、過去の世界を──その悲惨と栄光を──想像し、自分たちの未来も、両親が心配するように単に悲惨なものではないという、明るい結論に達する内容です。
これは現実にアメリカの若者が書いて、出版されたものらしいです。

http://thisibelieve.org/essay/4205/

これなど、ウェブに朗読つきで載っています。
若々しく伸びやかですばらしい英文です。この朗読はちょっと、日本の高校生に聞かせるには速いけれども、こういう英語だけを聞かせ、書かせていたら、自然な英語の読解力、表現力はすごく伸びるなあ、良い時代になったなあ、と思いました。

この英文を入試に持ってこられる感覚の人がいるのに、さっきアップした非現実的英文が却下されることはなかったんだなあ。
残念、相互チェックの不備。全体のクォリティを考える立場の人が、うまく動けていない。大学教授が密室で集まると、そんな風になってしまうんでしょうかね。

入試とは神聖にして「知るべからざる」世界であるわけだけど、問題づくりが、ネットで探した文章を、ちょこちょこと加工して出来てしまう時代。その問題造りの過程も、一民間人が簡単に想像できてしまう時代です。
 マル秘委員会の権威もあぶなくなりつつあります。

試験当日まではもちろん徹底した秘匿性が守られるべきですが、試験後は透明性と品質をアピールするような体制に早く入っていかないと、近い将来、何かいやなことが起きそうですね。
大阪検察庁、日本相撲協会が自己保身できなくなったのも、フロッピーディスクや携帯電話がきっかけでした。
アラブの政治権力までつぶされようとしている今、情報社会の「権力側」に暢気に立っていることは不可能になりました。

入試問題づくりの先生方は何も後ろめたいことをしているわけではないけれど、日本の英語を引っぱっていく自覚がないと批判されます。善良な学者さんが嫌な目に遭わないよう、このサイトからも非力ながら警告を発していきたいです。
posted by ys at 13:58| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なんとかならぬか学者の愚走

むかし、といっても、20世紀が終わるくらいまでそうだったが、入試問題に文学研究の専門家くらいにしか関心をもてないような文章が載ることがあった。「メルヴィルのテクストにあっては超越主義的傾向がなんたらかんたら……」みたいな内容。だめだよ、19世紀のテキストばっか読んで、それで現実から閉じこもっている人に言葉の教育をまかせちゃ……という議論は、政治家や官僚の支持もとりつけて、「コミュニケーション英語」を合言葉に、「文学」の看板を掲げない学科への改組が進んだのが1990年代になってからのこと。

東大駒場の場合、「大学院重点化」で新たに立ちあがった「専攻」に文学の名がつくものはひとつもなかった。(ほぼ100名の語学専任──過半数は文学研究者──がいたにもかかわらず)。

文学系の先生は多くが「言語情報」という専攻にはりついた。かねてから言語学の専門家はスタッフの中にもいて(本郷の文学部にも)、その「最前線」だった認知科学系の若手研究者を「言語情報」に迎え入れる動きも強くあった。

それから15年ほどして、入試問題はどうなったでしょう。

さきの東大前期入試問題の1番(A)にこういう問題が登場したのは、認知科学の「重点化」と無関係ではないと思われます。で、そのクオリティは?
http://nyushi.yomiuri.co.jp/11/sokuho/tokyo/zenki/eigo/mon1.html

原文はこちらです。著者のスティーブン・ピンカーは「言語を生み出す本能」「思考する言語」といった著作で一般読者も多い、ハーバード大の先鋭的言語学者/認知発達心理学の専門家。
http://www.slate.com/id/2130334/

啓蒙書を数多く書いているピンカーから英文を引いてくるというのは、文章によっては悪くないと思います。しかし今回の内容は?

Cognitive psychology has shown that the mind best understands facts when they are woven into a conceptual fabric, such as a narrative, mental map, or intuitive theory. Disconnected facts in the mind are like unlinked pages on the Web: They might as well not exist. Science has to be taught in a way that knowledge is organized, one hopes permanently, in the minds of students.

これが(二段落目の、編集前の)原文です。
専門的な響きを避けて、入試問題文では、Cognitive(認知)をカットし、a narrative を a story にしていますが、"woven into a conceptual fabric" なんていう発想は、ネイティブでも大学院生以下はまずしません、できません。「マインドの中で、相互連結していない事実は、リンクなしのウェブページのようなもの」という比喩を直感的に把握できる非専門家がどのくらいいるでしょう。

英語自体が「ふつう」から遠いというだけではありません。その主張内容は、あまり説得力もなければ、実現可能性もないに等しい学者談議になっています。少なくとも学生が「うん、うん、そういうカリキュラムが組まれたら楽しいかも」と合意できるようなものではありません。

「科学教育のあり方について、各科目をバラバラに教えたのでは効果が少ない。認知心理学の成果からいうと、相互関連が必要だ。たとえば一つの提案だが、一本のタイムラインを設定したらどうだろう。ビックバンの物理学から始めて、地球形成の地学に移り、生物学をやってから、人類の誕生を迎え、それから世界史、哲学史を教える……」

採点していらっしゃる先生方は、まさに現在、東京大学という場で教養教育を実践されているわけで、この、受け止めようもない提案について、どのように感じてらっしゃるのかお聞きしたいものです。書いてある内容に反応ができないテキストについて、学生が不十分な理解をもとにああだこうだ書いてくる、それを「よく理解し表現できている」答案と、「中の上くらいに出来ている」答案と、「あまりわかっていないようだが全然読めていないわけでもない」答案に、段階的に差別化するというのは、相当な苦行でしょうね。

ピンカーの原文と比較してみると、問題は問題文にもありそうです。原文は、当然ながら、情報が密で、学者としてしっかり考えているということは伝わってきます。一方入試問題文の方は、言わせていただけば、原文の形式的な要約にしかなっておらず、これだけ読むとアホは提案だな、としか思えません。

ある人間の生きた思考の軌跡である文章を、短くし、薄め、弱めた文章を読ませて、それをさらに日本語で短く表現する──これは何の訓練になるのでしょう。人の思いを汲まない官吏になっていく訓練ですか?
全国の優秀な高校生、予備校生の勉学への熱意を、どういう訓練に向けさせるのか。入試問題づくりというのは、大きな責任を伴う仕事です。現状の要約問題、日本の将来にとってけっして望ましくないと思います。なんとかならないか、これ。なんとかしたいぜ。
posted by ys at 09:51| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月16日

Humor helps.

群馬県高崎市の我が家に被害はありませんが、フロア・トゥ・シーリング(といっても日曜大工のしょぼい品)の本棚から落ちた本に、仕事場は膝の高さまで埋まっています。ぼくは愛書家ではありませんが、大学退職時に研究室からみな引き取ってきたので、余震を警戒してそのままにしているこの部屋には、けっこう瓦礫感があります。

心配する海外の友達に写真を送ったら、

I see you're a professor,
but is the picture before or after?

という返事が来ました。
いくら私でも、地震の前はもうちっと片付いてましたぜ。
サンディコ州立大の児童文学の専門家ジェリー・グリスウォルドからです。

テレビを見ると胃が痛くなり、一日をやりすごすにはユーモアだけが頼り。
世界の目は、きのう放射能(radioactivity) の感染の拡がりに集中しました。

明日、ご近所のラジオ高崎で収録してきます。毎週15分だけ dj っぽいことをやらしてもらってるので。

I'm going to dj at FM Takasaki tomorrow.
I'm radio-active.

よし、このジョーク、ジェリーに返そう。
posted by ys at 07:43| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月14日

So awful to watch.

胸いたむ惨事を、世界が見ています。こんな email が来ました。

Aki,
It's so awful to watch the scenes on tv........it seems unfair. I sent $$ to the relief efforts for food and water....if there's something else one can do, please let us know. We said prayers today for all the people in your country. Take Care, Sheila

ワシントン在住の Sheila. 1969年の夏(ウッドストックの直前、アポロ月着陸の最中)、世界20カ国くらいの高校生と一緒に3週間、アメリカ東部を回ったとき、「シャペロン」として一緒にバスに乗った、当時の大学生のお姉さんです。(今は60代なかばでしょう)

同じバス仲間のスエーデン人 Göran が、苦労して集めた email adresses. そのメールリストを通じて、多くの人から安否の問い合わせが届いたので、ぼくからも、こんなメッセージを送ってみた返事です。

Good to hear from Sheila, Marco, Anne, Alvaro, Johan and Robin. Good to be "talking together" after so many . . . gee, half a century?

I'm like the rest of us who are on the safe side, trying to be helpful, hoping for the dreadful-deadful nightmare to calm down some.

The crust of the earth keeps moving regularly, and calamities like this M8.9 earthquake are perhaps unavoidable every now and then. What do seem avoidable are human-caused killings. I'm also praying for the best for people of Libya and other embattled regions of the earth.
Aki

原爆、B29、ドレスデン、アウシュヴィッツ……のことは今日は触れないでおきましょ。

人間は、自然が起こせない規模の殺戮も起こしますが、でも、これから日本にはたくさんの愛が注がれるでしょう。
そういうときの英語が、多くの日本人に伝わるといいですね。

保安院の人の、よくわからない日本語を訳してくれた人はたいへんでした。残念なことに、"A meltdown may have occurred." という情報が海外に伝わったため、CNNのリポーターが、日本政府は一方でsafe, contained, と言いながら矛盾している、といって騒いでいました。 "may or may not have occurred" という英語で海外に伝わっていたら、controdictory(矛盾する) とは言われなかったでしょうに。このあたりのニュアンス、中学ではむずかしくても、高校生には教えておいたほうがいいと思いました。

それにしても聞いていてイライラする原子力の専門家。CNNにチャンネルを回すと、こちらの説明は端的で要領を得ていますよ。
posted by ys at 17:02| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月08日

カダフィになりたい。

ej40kinen01s.gif
このカテゴリーに、しばらく書き込みをしていませんでした。
アルクの ENGLISH JOURNAL が創刊40周年だそうで、40年前を知っている世代としてインタビューを受けたのが発売されています(4月号)。過去より前を見たいと思って、こんな話を混ぜさせてもらいました。(以下、印刷された文章とは少々異なります)

佐藤:「ここ10年くらい、データベース革命が進行しています。これは語学学習にすごいインパクトを持ちますよ。僕たちは90年代に、東大の統一授業用のビデオ教材の製作に多大の時間を費やしたのだけど、もっとリアルな教材が、世界中から毎日たくさん投稿されてくるんですから。教材として適した楽しい動画を探して、解説つきでサイトにリンクを張るだけで、100万人の英語教室ができてしまう。僕自身が創った動画だって、自由にアップできるわけだし、演習のページもデザインできる。これ、みんな年金生活者の趣味でできちゃうわけですよね。いつまでも機能できずにいる学校の英語教育に対してテロを仕掛けることで、みなさんのお役に立てるという──これって、サイコウの老後ですよね(笑)。
EJ:ENGLISH JOURNAL も、精選した素材を、学び方と共に提供し続けてきました。
佐藤:はいはい。協力できるならテロは慎みます(笑)。

テロというより、実は、それを必要としている国民に向けて、英語の爆撃をしたいのだ。カダフィになりたい。
posted by ys at 14:02| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月27日

ようこそ21世紀へ。

数年前から、センター試験が様変わりしていることに、みなさんお気づきでしょうか。これが全然、受験英語っぽくないんですよ。英語に自然に親しんでいる人たちが問題を作るようになった。──これ、わりと最近の変化です。

今年の第 V 問など、ごらんください。
http://web.me.com/masatoasada/center/11center.pdf

家族で町に行って、あれとこれをした。それを父ちゃんと、姉ちゃんが、あとからすんげえフツーの言葉で振り返っています。(ところどころ、文句タラタラに)

Um, let's see . . . getting the autographs from the baseball players wasn't as boring as I thought it was going to be, even though it took up the whole morining.

そう、たとえばこれが、読め、だいたい書け、聞いてわかり、自分で言える。これは高校の三年間、ちゃんとした環境でやれば、どこの国の、どんな成績の子でも、できるはずのこと。

そのために必要なのは、
getting the autographs from the baseball players
wasn't as boring as I thought it was (going to be)
even though it took up the whole morining

この3つのフレーズが口をつくような練習です。そして

It was a really big deal for my brother.

みないな文に親しむことです。受験英語と英会話、誰が分けたのかしらないけど、今のセンター試験で点数を上げるとすれば、余計な導きは不要。素直な英語を、そうでない英語から分けて、そうでない英語から子供たちを遠ざけるのが、最も効率的な受験対策となります。

以前のセンター試験問題では、会話文の中の、どの語がもっとも強く読まれるか、などという問題がありましたね。おかしいですね。これって、日本語の勉強になりますかね? どうして続いたんでしょうね。

どうして 君は 傘なんか もって いるんだ
だって雨が 降ると 言ったんですよ天気予報で

どこを強く言ったって、言う人の勝手じゃん!

もっともらしい「解説」ができることが重要で、「英語に慣れていなくても、それらしい言葉をみんなで編んで、理屈を言う」ことができれば、英語を教えて飯を食う人たちの仲間に入ることができた時代よ、さようなら。

子供たち、親御さん、先生、および業界のみなさん、ようこそ21世紀へ。
posted by ys at 18:10| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。