2011年01月27日

ああ、センター試験

今年度のセンター試験の問題の、とある解説

問題:以下の空所に入れるべきものを下記1〜4から選べ。

"Dad, if my grades improve by the end of the term, would you mind (   ) my allowance?"
1. raising 
2. rising 
3. to raise 
4. to rise

<解答の手順>A
1.まず、4つの選択肢に目をやること。
2.すると、この問題のポイントが見えてくる。
3.つまり、動名詞(raising, rising)を選ぶか
4.不定詞(to raise, to rise)を選ぶのかというのが設問の趣旨だ。
5.そこで、問題文の( )の前をみると mind という他動詞がある。
6.他動詞の後ろには通常目的語が来るはずだから、
7.( )内には目的語が入るだろうと推測できる。
8.動名詞も、不定詞も他動詞の目的語になることは可能だ。
9.ただし、mind という他動詞は、動名詞を目的語に取ると言うルールがある。
10.ここで、選択肢の3と4は消去できる。残るは1か2だ。
11.raisingは、raiseという他動詞を動名詞の形にしたものだ。
12.risingは、riseという自動詞を動名詞の形にしたものだ。
13.ここで、もう一度、問題文の( )の後ろを見ると、
14.my allowance と言う名詞句がある。
15.と言うことは、( )内の動詞は他動詞である必要がある。
16.ズバリ、1番のraisingが正解だ。

以上、とあるネットサイトからコピペさせていただきました。これを読まれる必要はありません。下のB案だけ、お読み下さい。

<解答の手順>B
1. Is it "raise your salary" or "rise your salary"? そう、raise.
2. Do we say "Would you mind opening the window?" or "Would you mind to open the window"? そうそう、Would you mind opening . . . 。
3. はい、正解は、1番の raising。

英語の習得に役立つのは、Bの説明を行き渡らせることが必要。Aの説明は、教師の威厳づくりには役立つかもしれないけれど、私たちの心と、英語との間に、余計な観念を挟みすぎです。Aの説明を廃し、Bの説明を教室にも予備校に導き入れるためには、どうしたらいいでしょう。
英語に対して特殊な知識をもって身構え、話を難しく複雑にすることで英語から国民を遠ざけている利権集団が、この国には百年以上も前から英語学習を仕切ってきました。
彼らがちゃんと歴史のステージから退場できるよう、私に、私たちに、何ができるのか、という問題。重大です。
posted by ys at 17:05| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月11日

英語を〈知る〉こと。

カコちゃんを知るように過去形を学ぶ。スミちゃんを知るように完了形を学ぶ。そんな英語学習の場を組み上げられたらいいなあ、と思うんですよ。

「学ぶ」「知る」というときに、フランス人はふたつの動詞を使い分けるようですね。「英語を知っている(英語ができる)」は
Je connais l’anglais.
connaître (コネトル)という動詞を使います。
 一方、「現在完了に yesterday が使えないことは知っているよ」というときは、
Je connais……ではなく、Je sais que …… という。sais は、別の動詞 savoir (サヴォワル)の活用形です。

 手元の『現代フランス語辞典』(白水社)にはこう書かれていました。
 (1)従属節及び不定詞を取ることができるのは savoir のみ
 (2)人・場所を目的語にできるのは、 connaître のみ

 知の対象としての外国語は、人や場所の仲間。「私は英語を知っている」は、「英語と知り合っている」「つきあいがある」「その顔や心を知っている」ということ。とすれば、英語学習も、つきあって、カコちゃんやスミちゃんの「味わい」や「こころ」を、だんだんに知っていくように学んでいくのでないとおかしいです。
 でも、生徒Aと生徒Bでは、どちらがよくカコちゃんを知っているか、ということを数値で表そうとすると、savoir で知ることに還元しないと無理。これも正しい理屈です。
 で、生徒が英語を connaître する方向ではなく、savoir する方向への導きが支配的になる。あることを、事実として知っているか、いないかによって、その人の知識の量を量るというという制度に、事を押し込めていく。
 そのような捕らわれの結果、わたしたちは、「受験英語」というやつに自ら入り込んでいく。このごろセンター試験がだいぶ洗練されてきて、かつての「受験英語」っぽくなくなりましたが、この国には過去百年、受験英語という、世界にも稀な知識体系を発達させました。あれは大学の先生が、生徒の力が見たくて、要求したものではありません。そのニーズは、もっと深いところになるのだと思います。(この点については、またいずれ。)

 さて、ここしばらくの間、some と any の違い、現在完了と単純過去の違いに考える時間を割いてきました。両者の間には、規則的な違いがあって、それは感じるのだけど、論理の言葉で捉えようしようとしても、なんかウソになる。当然でしょう。横浜と川崎の違いも歴然としていますが、それを定式化しようとしても、必ず反例がでてきます。
 心の深み(これを日常 mind に対して heart と呼びます。フランス語では cœur)は、規則づけられていて、なぜここでは「現在完了」や some でないとうまくないのかということには、「ハートの理由」がある。でもその理由を、理性(the reason, la raison)が理性の知り方で掌握しようとしても、できない。──このことを述べた名言を紹介しておきましょう。

 Le cœur a ses raisons que la raison ne connaît point.
 (The heart has its reasons which the reason is not at all familiar with.)

パスカルの「パンセ」(1669)のなかの有名な一文です。この種の知識と familiar であることは、英語を教える人にとって、とても役に立つのではないでしょうか。
posted by ys at 12:19| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月10日

カコちゃん、スミちゃん

過去と完了は、「思い(意味)」としては、英語でもハッキリ区別されていないのだ、ということを、二日にわたって書いてきました。

そのボンヤリとした区別を、時制として抱え込んでいる英語のような言葉もあれば、おおむね破棄してしまったフランス語、イタリア語、日本語のような言葉もある──というわけです。

Which have we chosen? と Which did we choose?

どっちも意味は同じなのに、英語には、二通りの言い方がどちらもよく使われている。どちらを選んでも大差ない。
こういう言語を、子供たちに教えるときの姿勢にも二通りあって、こちらの選択は重要きわまりない。どちらを選ぶかで、学習の成果にも、ひいてはこの国の将来にも、重要な違いが生まれると思うんです。

(あ)英語には、過去形と現在完了形があります。それぞれ、以下のような役割分担があるので、混同しないように。混同した人はペケです。
(い)英語には、過去形と現在完了形があります。どう違うか、一生懸命考えて論じている学者さんもいますが、本当にどう違うかは、先生もわからないし、実際に英語をペラペラしゃべっている人にもわからないらしい。だから、君たちは、気にしなくていいよ。I went to America two times. はい、よくできました。

(い)は「いい加減」の(い)です。(あ)は「ああだこうだうるさい」の(あ)。で、ぼくは絶対「いい加減」がいいと思う。なぜならそれが言葉の現実だから。言葉の生命だから。
 またですが、 Google の検索結果。

──"Have you ever been to"・・・3.560,000
──"Did you ever go to"・・・・・4,540,000

あれ?「経験」は「完了」の領域でなのに──と、「ああだこうだうるさい」人は嫌がるでしょうね。でも言葉というものは、自然の植生に似て、人為的な区分けを嫌って伸びていく強さをもっているんです。

ところで、唐突なたとえですが、妻が(あるいは夫が)二人いたとしたら、料理はこちら、アチラはこちらと、あなたは分担させたいですか? 言葉だって同じだと思うんですよ。「過去(かこ)」ちゃんにも「了(すみ)」ちゃんにも、それぞれの味わいがある(そう、違いは「味わい」としてある)。だから「これは使えない」とか「正しいのこちら」とか、差別の言葉はできるだけ口にしない。僕は女性が好きだし、言葉も好きなので、元気のいいお姉ちゃんに

"Did you ever drink this?"
 (これ、ときどき "Djever drink this?" みたいに聞こえるんですよね)

と聞かれるのも好きである一方、夕食に招いていただいた奥様から ハスキーな声で

"Have you had this wine before?"

と訪ねられるのも好きです。当然です。
 この種の節操のなさ(=生きる元気)を教育現場が失ってしまっては、いくら授業時間を増やしても、開始年齢を早めても、子供たちの心に英語を吹き込みのは、むずかしいのではないでしょうか。
posted by ys at 10:34| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月09日

What have we learned? ──What did we learn?

 言葉は違っても、人間の中身(イメージや思考の形)はそんなには違わない、ことを教えるのは、たしかに高級なことかもしれない。

 群馬県に前橋市と高崎市の二つが隣接し合っていて、このふたつの市の住民は、同じアクセントで同じ言葉をしゃべっているくせに、なかなか「同じ」だという意識を持とうとしません。(あいつら/俺ら、という二分法、これはしつこいんですね。ひょっとしたら、それは社会集団をつくる哺乳動物の心に共通したもので、人間の思いの、いちばんの基盤をなすものなのかもしれません。)

 そんな具合だから、「英語をしゃべるやつら」と「俺ら」が同じ心をもつ、なんて言い方は、過去の日本に、あまり行き場がありませんでした。幕末に、アメリカの軍艦に屈従させられた「傷」を抱え、戦後は戦後で、「カッコいい」ことと「英語的である」ことが等価であるようなコンプレックスの中で生きてきた私たちが、いまなお、Toeic に苦しめられるという状況下で、「英語も日本語も、同じじゃないか」というリベラルな気持ちを持つことが、なかなか難しいだろうということはわかります。
 でも、だからこそ、そこに教育的な価値があるのだろうと思うんです。

 よりグローバルな視野で考えてみましょう。
 現在完了(What have you done? )と過去(What did you do?)の違いは微妙ですが、英語では保持されています。
 フランス語からは消えました。フランス語の日常語では、かつてあった単純過去と複合過去(avoir + 過去分詞の形)の使い分けが、複合過去が全体を統一する形で、なしくずしになりました。いわば「完了形で過去形を代用する」ようになったわけです。
 ドイツ語でも事情は似ていて、I saw に当たる日常語は、Ich sah よりも、Ich habe gesehen の形になるそうです。

 いまの自分を起点にして語る完了的な思いが、より客観的・観察的な「単純過去」を押しのけるというのは、人の心の自然なんでしょうか。日本語にも、かつては複数の完了の助動詞、過去の助動詞があって、こんな区別がされていました。

 夏は来ぬ──「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形: Summer has come.
 来し方──「し」は過去の助動詞「き」の連体形:the direction we came from

でもその区別をぼくらはもはや言葉の上ではしていません。「てあり」に由来する「たり」が「た」となって、「夏は来たよ」「おれたちが来た方」と、かつてあった区別をなしくずしにして、それで何の混乱もきたさず生活しています。英語だって、本当はどっちだっていいんです。

──Look what you've done to him. ・・・247,000
──Look what you did to him. ・・・・・・140,000

どちらを使っても意味内容は変わりません。もちろん、使い分けの習慣が残っているところは、多々あります。

──When did you do it?・・・8,170,000
──When have you done it?・・・17,500

後者も英語としてまちがっていませんが、「いつ済ませたの?」というニュアンスが出ます。人生には、済ませるべきことって、ありますもんね。

 そういう微妙なことは、学習者がその微妙な陰影を理解できる「母語」で教えてあげないと無理です。そもそも、ネイティブでそれを理解するって大変なんですよ。ふたつの実例をごらんください。最初のアメリカ人は、"I've read the article yesterday" という文が "Doesn't make any sense" だというウソを教えています。
http://www.youtube.com/watch?v=6IilS4SEqyA&NR=1&feature=fvwp
始まって 2分後くらいからご覧下さい。

 こんな哲学的ダイアグラムを浜辺に書いて苦心しているイギリスの若者もいました。
http://www.youtube.com/watch?v=PkknB-9DDiM
 こういうビデオを見ると、やはり、英語教育は、単に英語に堪能な人が英語でやってもだめ。日本語の英語教育の教科内容を刷新して、優れた日本語の思考力をもった日本人に英語教育をまかせないとだめ、という気になりませんか?

 その優れた日本人は、完了形を教えるのに、「経験」だとか「継続」だとか、むずかしい漢語を使って生徒を脅すことはしないでしょう。日本語で組み上がる生徒の思いを、英語に接続することを目指して教えるでしょう。What did you done? や What have you do? という文を生徒が作ったら、その場ですぐ直してあげても、ここは「現在完了じゃなければバツ」などとけっして言わないでしょう。
posted by ys at 12:35| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月08日

現在完了を正しく教える。

 中学校で教える文法は、some と any にしてもそうだし、冠詞の説明にしてそうだけれど、なかなか一筋縄ではいきません。ひとつの言語の基礎の部分というのは、半分無意識に沈んでいるもので、それを意識で引っ張り出そうとするのは、哲学者の仕事になります。その哲学者の仕事を、中学生相手にやれる人が、理想の英語教師であるとは、いえるでしょうが、実情は理想とほど遠いものがあります。いや混乱と頑迷の極みと言った方が近いかもしれない。

 「現在完了形の文では、yesterday など、過去を表す言葉は使えない」

この “きまり” の正しさを疑わず、子供たちに押しつけている先生の多いこと。
ふたたびGoogle 検索に頼ってみます。

──”did it years ago"・・・・424,000
──”done it years ago"・・・747,000

おや、過去を表す言葉がついているのに、完了形のヒット数の方が多い。
抗弁はできそうです。──"years ago" は "long ago" と同じで、「とっくに」という意味をなしているから、と。ふむふむ、では「10年前」でチェックしてみましょう。

──”did it 10 years ago"・・・・96,500
──”done it 10 years ago"・・・ 62,000

過去形が優りましたが、完了形も肉迫しています。どうしてでしょう──10年前というのは、アバウトな言い方で、これも「とっくに」というのとあまり変わらない? かもしれません。「11年前」なら、完了の文には出てこないだろう? チェックしてみましょう。

──”did it 11 years ago"・・・・8,260
──”done it 11 years ago"・・・2,200

たしかに差はつきましたが、振り切れません。いっそのこと、yesterday で調べてみましょう。

──”did it yesterday"・・・・1,650,000
──”done it yesterday"・・・・197,000

先生の多くが、反射的に x をつけたくなる「done it yesterday」が、用例全体の一割以上、20万件も。インターネットに書き込む人は、完了形のなんたるかを知らないのでしょうか。それとも僕たちがウソを習い、ウソの再生産をしているのでしょうか。

 日本語で、こんな文を考えみてください。「ぼく、いま遊べるよ。きのう宿題しちゃったもん」英語に直すと、

I can play now, because I’ve done my homework yesterday.

と、なりませんか? なるんです。「きのう宿題しちゃった」は「きのう宿題を完了した」ということ。完了の思いを示すのが完了形です。
 だって日本語で「x 年前にやった」と「x 年前に済ましてしまった」が両方自然であるのなら、英語だって、同じ人間(同じホモ・サピエンス)の精神からのアウトプットである以上、両方が自然であって当然でしょう。せっかく完了形があっても、「何年前に完了したと言ってはいけない」なんて、そんな窮屈な言語なんて、ありえません。上の検索結果は、その単純な事実を示しているのだと思います。

 では、次の検索結果はどう説明したらいいのか?

──”I saw her yesterday and":・・・・・・・120,000
──”I've [+ I have] seen her yesterday and"・・・・ 14
(末尾に and を付けたのは、 Google 検索では、パンクチュエーションを無視するので、こうしないと、”……since I’ve seen her. Yesterday she was……”のような例も含まれてしまうからです。)

 大差がでたのは、どうしてでしょう? それぞれを日本語に訳してあげれば、生徒たちにも納得してくれるはずです。──”I saw her yesterday”は、「きのう彼女を見かけたよ」という意味。一方、”I’ve seen her yesterday”は、「彼女ならきのう見ちゃったよ」という意味。「見ちゃった」ってヘンですよね。一度見れば済んでしまうんでしょうか。宿題をやるのと違って、彼女に会っても、なにも終わりません。(むしろ、何か始まってほしいですよね。人と人の出会いなんだし・・・)

 言葉は違っても、人間の中身(イメージや思考の形)はそんなには違わない──その「真実」を、英語学習を通して、生徒たちが学べるとしたら、その学習時間には、単なる言い回しの、機械的習得以上の価値があるのではないでしょうか。
posted by ys at 20:19| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月02日

英語は日本語で、きめこまやかに教えよう

日本人の英語教育をなんとかしようと思って、それなりに取り組んできたサトチョンの教師人生、結果としては負け続けていますが、今年もあきらめません。みなさん、たたかいましょう。

闘う相手は「考え方」です。むずかしくいうと「思考の前提」。

たとえば、《英語を日本語で教えるから、へんな規則ばかり流通して、ちっとも練習にならない。英語は英語で教えるべきだ》という思い込み。これはひどい。〈英語が十分できない人〉が、その不十分な理解を日本語で説明しようとするからうまくないわけです。同じ〈英語が十分できない人〉が、彼/女の不十分な英語で生徒を指導したのでは、よけい可哀想なことになりませんか?

はい、サトチョンの提案は、
英語の基礎を、まず日本語でしっかり理解することです。以下に例を示します。

some と any
some を使うか、any を使うかの問題は、よく「文型」に沿って説明されます。典型的なものの一つとして、『小学館・ランダムハウス英和辞典』の some の項。そこに「some と any」という〈注記〉があって、

一般に any は否定文、疑問文、条件節に用いるが、疑問文でも勧誘を表したり、yes の答えを予期する場合、また条件節でも肯定的期待や予測を含む場合は some が用いられる。:Do you have some [or any]scratch paper? (some の方は Give me some scratch paper を含意)……

 本当でしょうか。まず「一般に any は否定文、疑問文に用いる」確率が高いかどうか。Google 検索のヒット件数はこんな感じです。「ヒット件数」というのが、どういう計算の上に弾き出されてくるのかは明確ではありませんが、「どちらの言い方が自然か」、「両方とも自然」なのか、「この言い方は間違い、というのは間違いではないか」ということのチェックには充分役を果たすでしょう。(2011年12月21日にチェックし直して数値変更)

"do you have some"・・・・365,000,000
"do you have any"・・ ・・・87,000,000
"don't you have some" ・・・124,000,000
"don't you have any"・・・・827,000,000

肯定の疑問文(do you have)では some で尋ねる用例が比較的多く、否定の疑問文(don't you have)では any で尋ねる用例が比較的多いようですね。でも、do you have . . . で聞くのと、 Is there . . . で聞くのとでは、結果に有意な差ができてしまうというのも、要チェックポイントです。

"is (+are) there some"・・・・・・176,000,000
"is (+are) there any"・・・・・・1,350,000,000
"isn't(+aren't) there some" ・・・ 154,000,000
"isn't (+aren't) there any"・・・・ 322,000,000

今度は、肯定でも否定でも、any の頻度が高まりました。肯定疑問文の場合より、否定疑問文の場合の方が、some が使われやすい傾向も見てとれるようです。

実際、この8つのケースから引き出しうる妥当な仮説は、このようなものではないでしょうか。

 (1) 〈some と any の出現頻度〉が、疑問文/平叙文、肯定文/否定文という文型の違い沿って分布するのではない。
 (2) むしろ、〈some と any が文型の違い沿って分布する様子〉が、主語(誰に関してものを言っているか)の違いに左右される。

複雑なことを言っているようですが、そんなことはありません。some を使うか any を使うかは、〈相手を気遣う話者の気持ち〉にしたがう──ということを言っているだけです。
 そんなこと、ネイティブでもなきゃ、わからないでしょう──という人がいます。いや、some や any のように無意識に出てくる言葉は、ネイティブもわからないのです。考えたことがない。こういうことは、他の国語をぶつけて苦労して学び取った人でないと、うまく表現できません。
 some と any の語感を習得した日本人なら、たとえば日本語の授業で、こんな教え方をすることができます。

 教師 次のなかで意味がちがうのはどれですか?
──a.「君のためなら、してあげない仕事なんてない」
──b. 「君のためなら、便所掃除でも何でもしてあげる」
──c. 「何か、手伝ってあげようか」

意味が違うのは、c ですね。英語では、a や b は
I'll do any work for you. といいます。(even cleaning the toilet、なんてね)
これに対して c. は
I'll do some work for you. です。「やるといっても、何でもじゃないよ」という抑えの気持が some にはあるんです。

any を使うと「抑えの気持ち」は吹っ飛びます。無制限。何から何までオーケー。any を使った文の練習は、けっこう授業を楽しくしますよ。


Can you eat anything? Even a worm?
Can you go anywhere? Even to the moon?
Will you do anything for me? Even . . . オットット

こうして、まず any の意味を納得させたところで、次の Google 検索の結果を、クラスで見たらいかがでしょうか。

 "do you have some work to do"・・・・18,100,000
 "do you have any work to do"・・・・・・1,160,000
 "don't you have any work to do"・・・・・3,070,000
"don't you have some work to do" ・・・9,910,000

一番使われないのが "Do you have any . . . ?"
それはなぜかを説明するのにも、日本語の訳文が重要でしょう。暇そうにしている人に言うべき言葉は日本語でも「あんた、やることないの?」ですよね。「あんた、やることあるの?」というのは、状況によっては、ずいぶん失礼な言い方になってしまう−−それは生徒もわかってくれることでしょう。
posted by ys at 14:25| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

英語と音楽、こんなところも似ていたのか。

ミュージシャンの菊地成孔が高崎にきて、シネマテークという近所の映画館で、公開の対談をしました。第2部45分があっという間でした。

菊地さんは、ここ数年、ぺぺ・トルメント・アスカラールというグループを率いていますが、アフロのポリリズムと、マイルズ由来のジャズの計算と、記憶の彼方から来るようなあまい映画音楽のメロディを取り混ぜて、ハラハラ・ドキドキさせる、そんな21世紀の音楽家です。

バークレイ・スクールで学んできた理論を私塾で、大学で、テレビ番組(フジテレビ系有料チャンネル・ネクスト)で指南する教育家でもあります。
その菊地さんが言っていました。「音楽について言葉で語ることに、みんなすごい抵抗をもってるんですよ。なんか、音楽って、ただやるもんで、言葉にするのが禁止されてるみたいな。プロレスなんかは、とても豊かな言説の世界に開かれているのにね」

そうか、Shut up and play your guitar. というあれか。

プロレスばかりじゃない。野球もむかしからすごい。自分では打つことも投げることもできない人たちが、セオリーについては、ものすごい知識体系を持っていたりする。歴史や統計資料にすごく詳しい人たちもいる。

そんな話になったときに、急に気がついた。英語教育。これですよ。身体と知識の分離が制度化されている最たるもの。

かつての教室は、「権威による実践の制止とセオリーのはびこり」を特徴とした。英語の球を投げるのがあまり得意でない先生もまじって、すばらしい辞書をつくり、英語史の本を書いた。

その制度が時代的にたちゆかなくなって、どうなったかといえば、逆向きの信仰が盛り上がっただけ。「理屈をいうから英語は習得できないのだ。とにかく黙ってこれを聞き流せ」。ただ英語の入った教材を聴かせるだけが「スピード・ラーニング」なら、こんないい商売はない。生徒もラクだし、先生もロボットで十分である。

英語をたのしく聞いている人たちは、英語について言葉でガチャガチャいうな、と言い出すのだろうか。すでに言い出していそうである。

いや、ほんとうに怖いのは、人間の精神全体のうち、感覚に関わるものを、知性から切り離すイデオロギーである。感覚から切り離された知性は、AかBかを選択し、マニュアル通りに事を進めることしかできない。そういう人間を、誰が必要としているのか?

一方で、知性をオフにして感覚に流れることを推奨させる大衆は、マス・エンターテインメントの受動的な消費者になって、国際資本を回転させる役を果たす。なにか、うんといやらしい力が世の中を動かしているような気がする。

音楽をちゃんと語り、英語をちゃんと教えることは、21世紀初頭の世界のまがまがしさから、人間性を守る手立てとなるか。

音楽の知、身体の知は微細であり、簡単に言葉には乗らない。よほどのレベルに達しないと、正しい感覚を言葉に乗せることは無理がある。言葉の知もしかり。自国語でもそうだ。助詞について、まともな説明ができたらそれは言葉のアートである。

それでもsome や any 、that や one や it や 定冠詞、不定冠詞について、英語を習得する過程でなにかしらの「感覚」を語ることはできるだろう。それは、○×式の知性ではなく、むしろオーソドックスなコード展開のパターンのようなものとして語られるのではないかと思う。なぜD の調では、 Em7 のつぎに A7 が続くとエンディングの流れがいいのか、それをイメージとフィーリングの問題として説明し、それが通じるような学習空間が、英語教育にも作れたらいい。

もちろん英語を聴かせ、英語を弾かせながら、それをやる。目指すは英語の創作だ。憂鬱や官能をテーマにしたイングリッシュ・スクール。
posted by ys at 08:41| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月14日

英語習得は案外、軍隊式がいいのかも

9月2日の『朝日』に千田潤一氏の記事がのって、なにかと話題になった。計算方式を示していないのでどのように事実なのかわからないが、とにかく「中学教員 560点」「高校教員 620点」という点数が暴露されていた。こんな点数でやっていられる英語関係の仕事は英語教師くらいだろうという皮肉や、大学の体制が今のままであってくれると、われわれToeic 推進者はハッピーです、みたいな嫌みに満ちた文章だったが、まあ、この種の論調は一部で強まっていくことだろう。「まじに鍛えなくては英語を学んだことにならない」という精神には、ぼくは賛成である。

 千田さんのような考えに反発する人も多くて、たとえば
英語教育史の専門家、江利川春雄研究室のブログの文章は、これが「英語教育の哲学的探求をする人?」と思えるくらい感情的な言葉が使われている。
http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/18948548.html

 僕の立場はこうだ。以下おおまかな概要を記す。誤解されやすいテーマなので、心配だが、だんだんとくわしく展開していきたい。

・19世紀の60年代、70年代は、帝国主義の圧迫の中で、日本語が危機に立たされた時代だったが、その危機を日本は克服し、「役に立たない」と言われる英語教育を通して、世界のすぐれた知性や発想に敏感に反応できる進化した日本語を発達させてきた。

・そのすばらしく柔軟な言葉をもつ国民は、誇りをもって、日本語の教育を続けるべし。われわれの伝統的な日本語オリエンティッドな英語学習は、義務教育として(国語のなかに取り入れて?)続けていけばいいのであって、それを教える先生には英語を使いこなせる必要はない。それよりしなやかな表現力、思考力を求める。

・ただし、企業の弱体化を防ぎ、結果国力を保つには、この国にも英語で論戦を張れる戦力が必要である。そのための訓練施設の設立と維持のために、税金と知性をどんどん投入すべし。

苦しんでまで英語を身につけたい日本人の若者の数はかぎられているが、いることはいる。経済や文化でトップになろうという人に、英語ができないのは大きなマイナスだ。若い時期にできれば3年の集中訓練をほどこしたいし、成人にも、短期中期の合宿トレーニングの便宜は与えたい。

藝術大学や音楽大学と同じような組織では数的に足らないと思う。スーパーイングリッシュランゲージハイスクールの発想も甘い(その種の、カタカナ英語を施策の合い言葉としているうちはダメだ)。外国語の習得は辛い。学校という明るく文化的なイメージにしておくより、軍隊のような、ほんとはおれたちだって日本語の青春を謳歌したいんだが、お国のために頑張ってるんだという悲壮感とプライドをもたせた方が成功する。

読売新聞(9月6日)のディベートにぼくは「早期に10万人、いずれは100万人」英語のちゃんとできる若者を鍛えたいと書いたが、100万人というのは、国の人口の1パーセント弱でたいした数ではない。これでは足らないかもしれない。(ちなみに日本の自衛隊員は、現在26万人いるだそうだ。) 

ぼくがまだ漠然と想像している訓練施設は、モティベーションが高いものに限定し(たりないものは、一般の学校に帰していけばいい)、高校生、大学生、一般企業問わす、入隊者を受け入れ、メンタルケアも考えながら、イメージングと思考の英語化から始める合宿をほどこす。誰を運営のヘッドに据えるか、教員の質をどのようにして確保するかは、サッカーのナショナル・チームの監督を決めるにも似た、最重要課題となる。

ぼくは大学の内部改革をあきらめた身だが、そういう場所の設立のためにならまだご奉公したい気持があるのを、これを書きながら知った。われながら、ちょっとびっくり。

(c佐藤良明:「引用」や「リンク張り」はご自由に)
posted by ys at 10:38| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

科挙官僚を過去完了に(早口言葉)

 前述(9月6日のタイトル「負の英語教育、清算を」)の読売紙上ディベートで、猪口孝さんがこう言っていた。──企業の英語公用化を云々しようにも、そんなのは企業の勝手。問題は中央官庁だ、「単純に国家公務員試験に〈TOEFL何点以上〉といった受験資格を儲け、日本語と英語のちゃんとできる人間だけが受験できるようにすればいい」。

 ふむふむ、たしかに。だが、それより先に、英語を教える先生方(大学を含めて)の TOEFL スコアが awful では、わたしたちみんな woeful になるしかありません。

 だけと先生にランキングをつけるのがむずかしい。それは先生がプレイヤーではなく、官吏だから。

 公務員になるにも英語の試験はあるんです。いろいろあります。公務員のいろいろな試験に付随する「英語」の問題は、なんらかのルートを通して個人的に依頼された先生が片手間に作っている。その資格は大学の英語の先生であればよいようで、東大駒場で相部屋だった先生も、年長の先生からある筋の問題作成を譲り受けて作っていた。

 ぼくは一度、助手か講師時代に、海外派遣の国費留学生の試験を担当したことがある。まじめな私は、海外へいく人たちの適性試験なのだからと、自由英作文の問題を出したら、英語の試験→採点→専門の面接をすべてを半日強で終わらせるシステムだったらしく、答案を読むのに時間が掛かって、本来の試験官(中根千枝さんが来ていた、もう30年も前のはなし)をずいぶん待たせてしまった。例年は「カッコの中に前置詞を入れよ」程度の問題だったとあとから聞いた。

 要するに、この国のパブリックな仕事はいろいろすべて、官僚主義のもとでまわっているのである。官僚主義のいいところは、内部の人間がお互い傷つけ合わずにすむところだ。仕事ができる人もできない人もみんな平等。官僚主義というのは、封建主義を修正したものにすぎず、結局は身分制度であるから、競走原理は排除される。江戸時代は「生まれ」が競走を排除したが、近代日本は士農工商を廃止した。その代わり、子供たちに、過去の「科挙」に相当する東大入試以下の諸入試をくぐらせることで、大人が、特に役人が、安定を享受できるしくみを整えた。

 官僚主義とは、「やる」ことと「やったことにする」ことを等価とする生き方/考え方である。
 その結果「ちゃんとした仕事」と「いい加減な仕事」との間に差ができるが、その場合は「下に揃える」ことが要求される。官僚はひとつの仕事に3年以上いないのが原則だが、それは「仕事に長ける」ことが、システムにとってマイナスになるからだ。「あんたががんばると次の人がたいへんになる、世の中ローテーションで動いているんだから」という理屈である。

 中学校・高等学校の英語の先生を生み出す制度は、また違っているのだが、ここでも英語力の競走には実際上なっていないことが、いままではそれで通ってきたものの、だんだんそれではすまない時代になってきた。

 年金問題や、戸籍の仕事のいいかげんさとは、ちょっと比べものにならない「なあなあ」を放置してきたことの国家的損益を、国民はともかく、産業界が理解してしまう日は近いように思う。

 英語のできない先生にはぼくも教わった。文法のできない国語の先生もいた。それでもみんな幸せだったShowa(笑話)の時代に、ぼくもノスタルジーは感じる。40になっても50になっても、キリキリ努力・切磋琢磨、というのもなにかとたいへんだから、文化というものは、そうしなくてもすむのであれば、安易な方向で収まるのが摂理。科挙による官僚制度というのは、なかなか過去完了になりそうもない、人間社会の本質にからむものなのであろう。(c佐藤良明:「引用」や「リンク張り」はご自由に)

posted by ys at 10:30| 教え直そう、日本の英語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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