2012年05月05日

諏訪部浩一『「マルタの鷹」講義』

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諏訪部浩一はあとがきで、
「外国文学研究者として極めて「普通」な手続きを重ねていく過程をそのまま見せる事は、私が何を学んできたかを(あるいは不勉強を)露呈させてしまうはず」
とし、
「研究者が「普通」のことをやればこの程度のことは可能なのだという点で、本書が一定の水準を示せていればと願わずにはいられない」
と謙虚に自負する。

このクォリティは普通でしょ、と言えるところがいい。

21世紀の東大英文科准教授、何でアピールしてくれるのかと思ったら、『マルタの鷹』の精読だった。語注つき、豊富な文献へのレファレンスつき。一章ずつ、飽きさせずに読ませていくフォーマット。大学には──特に外国文学の界隈には──あなたは何のプロですかと訊きたくなる人が多く住んでいるが、ここに読みのプロを自覚している人がいた。

諏訪部より上の世代に、普通でないことを言って注目を集めようとする風潮があった。「AはBである」という大胆なメタフォアを振りかざし、A=Bと信じるところから生じるロマンチックな誤読の中へ読者を引きこもうとするタイプの評論。この本は、それらとははっきりトーンを異にする。

第10章について諏訪部が語り出すのは、探偵サム・スペードが、みずから惹かれている女、ブリジットの部屋を捜査するシーンをいかに描いているかということだ。

 
長い引用となってしまったが、虚飾を省いた(副詞が一つもない)平易な英文であり、単調な文章とさえいい得るだろう。
 だがこの引用文のポイントは、まさにその「平易」で「単調」なところにある。つまり、スペードという「探偵」の仕事とは、一つ一つをとってみれば「平易」で「単調」しかない作業の積み重ねであることが、そうした文体によって表象されているわけだ。


最初に評者が注目した「普通」という言葉が、ここでは「平易」と言い換えられ、ある意味とても複雑な人物であるサムの、基盤をなす倫理性として提示されている。

『マルタの鷹』という、文学の授業としてはきわめて個性の強い作品を扱いながら、本書が、最大多数の学生への通じやすさということにこだわり、その意味すこぶる教育的な出来映えになっているのは、サムのプロフェショナリズムへの愛着と信頼が基にあるからなのだろう。

 普通に平易なもの──ストレートなもの──は、ヒップではない。普通以上を志向する優秀な若者の反発を招かずに「普通」を貫き「この程度のことは〈普通〉の守備範囲だよ」と言ってのける。これはあっぱれであると思う。

もっとも彼は「普通」を超えて「いささか大きな読み」もやっている。
いろいろあるが、一つだけ。シャーロック・ホームズに代表される古典的探偵小説に倦怠のムードが支配的であることに触れて、彼は言う:

探偵の「倦怠」は、警察が代表するようなモダンな合理性からの「逸脱」の証であり、「超越」のそれではない。だから探偵が警察を嘲笑するとき、その「笑い」はむしろ自嘲と考えるべきなのだ。[だが探偵の名推理が、単に胸を躍らせる娯楽としてだらしなく消費してしまうと]探偵小説は文学性を失い、通俗的なデカダンス通俗的なデカダンスに相応しい低度の、微温的なシニシズム/ポストモダニズムに覆われてしまう。
(中略)
「理性の時代」からの「ズレ」としてポーの探偵小説が生まれたのだとすれば、その「ズレ」自体が紋切り型となってしまった時代に、そこからの「ズレ」としてハメットの探偵が生まれたのではないか、ということだ。(109ページ)


さらに次のページで「ハードボイルド探偵小説は伝統的探偵小説の文学的嫡子」という言い方もしている。

明快だ。では、ハメットを愛し、チャンドラーを愛し、ハードボイルドとは一見逆向きの、「ラリラリ探偵」ドック・スポルテッロを造形したピンチョンは、ハメットの探偵からの、いかなるズラシをやってのけたのか。

 サトチョン自身にはまだよく考えがまとまっていない。だがこの本を読みながら、ピッピーとしてのヤワなところと、探偵としての有能さ、パラノイアックであろうともアメリカの暗部の機構をまるごと意識しているらしいこの探偵と、ハードボイルド・ヒーローとの連続/不連続を考えてみたくなった。
 諏訪部浩一は『Inherent Vice』をどう読むか。急がせたりはしないので、いつかゆっくり訊かせてほしい。

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2012年05月03日

みどりさん、ボクおひまです。


5月4日(金) 6:30 PM〜 「みどりの日のそよ風たち」
      RadioTAKASAKI FM 720 ”Air Place”

五月。みどり。はい、五月みどりです! といえば
「おひまなら来てね」
 この人を、40代、50代、60代(そして今は73歳)、でしか知らない方へ、
 21歳のみどりさんの歌声をお届けしましょう。



「みどり」の歌で僕がまず一番に思い出すのが「みどりのそよ風」
 これをレインブック(実質)山本容子さんの歌で。

 ところで「つまみなつむて」って、幼少のころ、ぼくは
 「つぶらなひとみ」と同じシンタクスで捉えていました。
 「つむて」って「オツムに乗せた手」のことかな?
 「つまみな」って、みどりのそよ風的に可愛い、という意味なのかな。
 遠くからお母さんの呼ぶ声が聞こえたり。't's Mommy!

GREEN DAYS by 槇原敬之
 スーザン・ボイルで騒ぐじゃないよ。
 日本にはマッキーがいた。平成のまっすぐな日本のビート。
 http://www.youtube.com/watch?v=WGU6jh_457Y

"Green Sleeves" 16世紀のイングランドの古謡を、『Great Songs of America』に入っている マギー・グリフィンの歌で。



お別れは
"Green Fields" を綾戸智恵のソウルフルなバージョンでいきましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=P2CvGulHa8s

2012年05月02日

連載「エイゴができないビョー」

日本の英語のダメなところを長年観察してきたものとして、どこがどうダメなのかを診断し、治療法を提示することをしなくてはいけないなあと思っています。

英語教育改革者として名を馳せた日本人って、いないんですよね。
議論したり、本を書いて売れたりする人は人はいるんですけどね。
英語教育問題を専門とする問題業界のスター・ライターとか、いやですよね。

はい、サトチョンは
『English Journal』 編集長の永井さんのお誘いで、4月号から連載エッセイを書いています。

連載タイトルが
英語ができない病
エ イ ゴ ガ デ キ ナ イ ビョー、
とフラットなアクセントで読みます。
その病気は、ほんとに英語ができないんじゃなくて、
「英語をする」ように見せかけて日本語の別なことばかりやっていたり、「英語をするぞ」と思い立った先生や生徒を、まわりからよってたかって阻止するようなネガティブな環境と、それを支えるわたしたちの思い込みの病理のことをいっています。

各回のタイトルは──
第1回「誤った思い込みを振り落とせ」

第2回「「日本人としてのふつう」から離陸する」

第3回「教室から「間違い」をなくそう」
 *本来、ことばに「間違い」はない。間違いを咎めるような学習空間を排除しよう、ということです。

そして、昨日入稿しました。
第4回「スッポンからスッポンポンへ」
 日本語はスッポンのように、英語に吸い付いて、どんどん日本語に吸収してしまう。その吸い付きをやめて、もっとスッポンポンな心で英語に接しようという提言です。どうぞ、よろしく。
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2012年05月01日

「昭和晩年、おんなの絶唱」──ラジオ高崎オンエアー

ラジタカ、紹介ができずいましたが、今年も、田野内明美さんと毎週やってきました。

初めての試みですが、番組自体を切り貼りしてみましたので、
ブツ切れでお聞き苦しいでしょうが、どうぞお楽しみください。

3月16日(金) 6:30 PM〜 「おんなの絶唱」
      RadioTAKASAKI FM 720 ”Air Place”

@八代亜紀 「おんな港町」(1977) w. 二条冬詩夫 m. 伊藤雪彦
A都はるみ 「雨やどり」 (1977) w. 阿久悠 m. 小林亜星

八代、都.m4a

B石川さゆり「沈丁花」  (1978)w. 東海林良 m. 大野克夫

石川.m4a

C研ナオコ 「かもめはかもめ」(1978) w&m 中島みゆき

研.m4a

D美空ひばり「みだれ髪」 (1988)w. 星野哲郎 m. 船村徹

美空.m4a

2012年04月29日

大学教育の「FD」って知ってますか? 「SD」ってんもあるんですよ。

人間社会はある部分、簡略化を好むところがあるので、「実」が「名」によって置き換えられるというのはよく起こることだ。「有名無実」というフレーズがあるが、
有名大学に入学して与えられる教育に、こんなに実が無いのか、
という無念は、あたりまえすぎて誰も語りもしないニッポンの常識なのだった。

「教育する」を「教育したことにする」に置換し、その「楽」と「無責任」が、既得権として継承されてきた。
そしてその既得権を持つ人間が「偉い人間」として権力をふるってきた。その非民主的な構図は、21世紀の現在でも崩れてはいない。半期15回やれ、学生アンケートを実施せよ、という消費者の論理は組み込まれるようになったけれども、どちらの対処法も量や率の問題として教育を見ているだけ。現場の教師に拘束をかけるだけで、本質的な問題提起が始まったといえる状況にはない。

清水亮さん(三重中京大学現代法経学部で日米関係等を講じつつ、教育コミュニケーションのあり方に強い関心をもつ)がエンジンとなり、岡山大学の人気教育メソッド開発者、橋本勝さんらを巻き込みつつ、大学教育に「実」をとりもどす制度づくりをめざした人の輪が形成されつつあることを、京都市のナカニシヤ出版(編集担当・米谷龍幸さん)による2冊の書物が示してくれる。

『学生と変える大学教育──FDを楽しむという発想』清水・橋本・松本美奈編著、2009
『学生・職員と創る大学教育──大学を変えるFDとSDの発想』清水・橋本編、2012

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まるでハウツー本のようにして、大学教育の質的向上のティップス(ヒント)を掲げる本というのは、まだそのニーズが十分に開拓されていない。僕が『これが東大の授業ですか。』という本を、研究社の金子靖さんの編集で作ったのは2004年のことだったが、あの本は、どの棚に置くべきか、書店員さんを混乱させたようだった。

さて大学という「名」に教育の場としての「実」を注ぎ込むにはそのための能力の育成が図られなくてはならない。これをFD(faculty development)という。未だに大学の会議室以外では、あまり頻繁に使われない言葉のようだ。

その本質的な理由は、前述の「しない既得権」に基づく権力構造がしぶとく生き延びようとしていることに関係する。

そんな中で今回の企画では、三重中京大、岡山大の編者のほか、国際基督教大、立命館、同志社、関西大、亜細亜大、名城大、日本福祉大、早稲田、愛媛大、山形大、富山大、金沢大、大分大、和歌山大、名大、北大。東京外語大(留学生センター)の人たちが書いています。

詳しくはこちらを
http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=825&cid=14

ほとんど何の指導も受けずに教壇に立ち、学生たちと対面せざるを得ない若手教員にとっては、数少ない、実践的ガイド本のひとつだ。

なにより、人間と人間との関わりに関する率直な問いがボロボロ出てくるところがいい。──大学生たちは大学教育の研究の話に付き合わされる義務はあるのか、とか。

すでに多くの大学に「教育開発センター」というような名前の機構が活動しており、そこで尽力されている先生方からのオフィシャルな説明で埋められがちな企画ではあるわけで、この本にもそういう印象を与えるページがないとはいえない。

しかし、20章や 21章を読むと、("事務"と呼ばれている)職員が、教育環境の改善に果たす枢要な役割が顕在化されてきて、パースペクティヴを広げてくれる。

清水さんたちの仕事は、現実にまみれているだけに、理論本と違って「ぐんぐん突き進む興奮」みたいなものは得難い世界だが、これは持続するところ価値がある領域。さっそく「次」を期待させていただきます。
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2012年04月28日

計算が合わないのも、ピンチョンの計算のうち?

『LAヴァイス』066ページに、およそこんなことが書いてある。

スコットはザ・コルヴェアーズというバンドの一員を組んでいけれども、メンバーの半数は北のヴァインランド郡方面へ移住し、残ったのが、スコット(『ヴァインランド』によれば、リードギター兼ボーカル)とドラマーのエルフモントだけだった。

これと、『ヴァインランド』の記述を足すと、ザ・コルヴェアーズは、こんなイメージになります。

スコット・ウーフ(lead guitar, vocal)
ゾイド・ホィーラー(明記されないが多分 side guitar、ときどき vocal)
ヴァン・ミータ (bass)
エルフモント (drums)

「メンバーの半数」というのをどのくらい字句通りに取るかはともかくとして、自然に読めば4人のうち、2人が北へ行ってしまった、と取れる。

その二人とは、『ヴァインランド』によれば、ヴァン・ミータとゾイド。ソイドは片言をしゃべるプレイリーを連れて北への移住を敢行した。

『LAヴァイス』の物語の現在は、どこにも日にちが明記されていないが、背景情報におすべてが。1970年3月~5月であることを示している。

つまり、1970年3月には、ザ・コルヴェアーズの、スコットとエフルモントを残したメンバー半分は、すでにヴァインランドへ去っている。


だが『ヴァインランド』を覗いてみると
1969年1月 ニクソン政権誕生後、
同年5月 バークレイで「ピープルズ・パーク」闘争
その後、
「ロックンロール共和国」建国宣言、24fps がサーフ大学の闘争に参加
闘争崩壊→ フレネシの収容所連行 
→ DLによるフレネシ奪回→ふたりのけんか別れ→ゾイドとの出会い、妊娠、結婚という出来事が60年代崩壊の文脈で描かれ、
これと1984年夏にプレイリーが14歳というサイド情報を合わせると、
5月生まれの牡牛座と明記されているプレイリーの誕生は、1970年5月というふうに画定される。

このズレまたはズラシは何なのか。ピンチョンは、ドック同様、マリワナ性健忘症なのか?

サトチョンの解釈は次の通り──
 フィクションに描かれる出来事を何月何日か、探査できるようにしておきながら、ピンチョンはいつのまにか、それとなく「時空の歪み」をつくるイタズラに凝っている。

Vineland と Inherent Vice 2つの作品の「日付づけ」に凝る者は、あたかもエッシャーの階段を上らされるごとき思いを味わうということか。

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2012年04月25日

次回配本『重力の虹』について

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『LAヴァイス』のピンクの帯に、
 2013年秋刊行予定 [最終配本]『重力の虹』[上・下]佐藤良明 訳

と書いてあります。
 2012年のミスプリでしょ? と言われそうですが、間違いありません。日本語版『重力の虹』の入稿が 2013年3月になることは不可避であります。大きな企画になりますので、それから本になって並ぶまでが半年。

 読者のみなさんにも、出版元にも、申し訳ないと思う部分もありますが、自分の力と作品とのバランス(正しくはアンバランス)を考えれば、いたしかたありません。

〈全小説〉シリーズへの懲役をあと一年ほど延長すると、おそれながら『ユリシーズ』(丸谷・永川・高松訳)に匹敵するくらいのレベルの『重力の虹』ができるのではないかと、そんな夢想に引っぱられて仕事を進めていくことができます。そのわがまま、お許し願いたく。

なお、サトチョンの翻訳日記を組み替えて、私的な日記と、日本語版『重力の虹』への情報&知識の提供を目的とするものの二つに分離する予定です。とりあえず、以前書いた記事一本を添付して、

『重力の虹』翻訳日記
http://gravitysrainbow.seesaa.net/

に貼り付けました。プログデザインがちと『メイスン&ディクスン』のようですが、いずれ変更を考えます。いつになるかはわかりません。

以上、ごあいさつまで。
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2012年04月24日

人々のうた、大研究。

民謡からみた世界音楽──うたの地脈を探る
Folk Song as World Music
ミネルヴァ書房2012年3月刊行

この本は日本のポピュラー音楽研究の拡がりを示す画期的な業績だと思うので、
その内容を以下に詳しく紹介します。

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序章  うたに脈あり…………………………………………………………………………細川周平 
    1 民謡、この面妖なもの
    2 もうひとつのあらすじ 


第I部 民謡を考える──ー概念の形成史

第1章 黎明期の民謡収集・研究とヘルダ──の「民」の概念…………………………阪井葉子
    1 ヘルダーの民謡論と「民」の概念
        「無学で感覚的な民」──古い歌謡へのまなざし
        「野生の民」──はるかな土地へのまなざし
        社会的な距離からみた民
    2 批判者ニコライ
    3 ロマン主義化された「民」の概念──アルニム、ブレンターノとグリム兄弟
    4 「民」概念の変容と第二次大戦後のヘルダー評価

第2章 インドにおける「フォーク」概念の変遷と特徴………………………………井上貴子 
    1 インドの言語政策と「フォーク」概念
    2 サンスクリット語の音楽理論書の記述
    3 英領期における「フォーク」概念の導入
    4 独立後の「フォーク」概念と対応する現地語
        ヒンディー語の場合  タミル語の場合
    5 独立後の「フォーク」の定義と芸能の分類
    6 「フォーク」概念の地域性と政治性

第3章 憂鬱の系譜…………………………………………………………………………大和田俊之
      ──黒人コミュニティ向けの定期刊行物にみる「ブルース」の変遷
    1 憂鬱の研究史
    2 憂鬱の病理学
    3 憂鬱の音楽学
    4 憂鬱のモダ子アイ

第4章 ローマックス父子の活動…………………………………………………………柿沼敏江
       ──「民謡」から「歌唱様式」へ
    1 初期の民謡研究における「民謡」概念
    2 カウボーイ・ソングと黒人の歌
    3 ニューディール時代と『我らが歌の国』
    4 歌唱様式へ
    5 「オーセンティシティ」再考に向けて

第5章 柳田民謡論の可能性……………………………………………………………武田俊輔
       ──歌の発生とその伝承の「場」をめぐって
    1 メディア論としての柳田民謡論
    2 一九二〇〜三〇年代における「民謡」とメディアの位相
    3 「流行眼」と「民謡」と──民謡の「新しさ」と表現の自発性
    4 「民謡」生成の「場」──発生のメカニズムとオーディエンス論
    5 メディアの重層性と「場」への考察

第6章 兼常清佐の民謡論を読む………………………………………………………藤田隆則 
    1 日本音楽研究者としての兼常滑佐
    2 兼常の民謡研究
        兼常の生涯  第二期  第四期  民謡研究の最終地点
        博士論文の概要
    3 民謡旋律のモデル化
        民謡の旋律  基本の三音  基本の三音からの下行と上行
        無造作かつ冗長?  基本の三音から展開するパターン
        曲としての形式  第二効目類別の含意  基本の三音の射程
    4 シラブル間緩急処理
        立論への自己規制  言葉と歌の調和
        言葉の意味がわからなくなる原因  シラブル間緩急処理
        具体的観察と対照の方法
    5 兼常の民謡観
        言語の一種としての民謡  名もない草花としての民謡

第7章 『日本民謡大観』前夜…………………………………………………………島添貴美子
       ──町田嘉章の初期の民謡調査
    1 町田嘉章と民謡
    2 町田の民謡調査
        民謡の「採集」  採集手帳にみる現地調査
    3 『日本民謡集成』にみる資料の整理と分析
        『集成』の目的  柳田民謡分類案の修正  名称の付け替え
        面としての仕事歌の分布

第8章 統合する「民謡」、抵抗する「民謡」……………………………………林 慶花
       ──南北朝鮮における「民謡」概念の相違をめぐって
    1 民族を結ぶ「民謡」という幻想
    2 「民謡」概念の導入
    3 新しい「民謡」創出をめぐる南北朝鮮の歩み
    4 抵抗の記憶を蘇らせる──一九八〇年代の韓国における民衆歌謡運動


第 II 部 民謡を伝える──メディアの役割

第9章 ホールでうたう………………………………………………………………長尾洋子 
       ?大正期における演唱空間の拡大と民謡の位置
    1 はじめての全国民謡大会…
    2 ホールヘの視座
    3 寄席から劇場ヘ──安来節
    4 神田の青年会館、錦輝館、和強楽堂
        追分節の東京進出
        後藤桃水による「準備工作」──追分節から民謡の普及へ
    5 ホールの効用

第10章 沖縄音楽レコードにおける〈媒介者〉の機能…………………………高橋美樹
       ──一九三〇年代・日本コロムビア制作のSP盤を対象として
    1 近代沖縄音楽の録音と〈媒介者〉
    2 レコード会社との媒介
        沖縄音楽レコード制作の経緯  録音された沖縄音楽の主なジャンル
    3 歌手・演有家との媒介
    4 日本コロムビアのレコード制作
        一九三〇年代〜四○年代における制作活動  レコード制作システム
    5 媒介者としての喜舎場永c
    6 沖縄音楽レコードの歴史的意義

第11章 かっぽれ百態………………………………………………………………竹内有一
    1 「かっぽれ」への視座
    2 「かっぽれ」の原拠は何か
        和歌山民謡との関連性  近世の俗謡(はやり歌)との関連性
    3 「かっぽれ」の完成まで
        大道芸で「暢気社会を驚かせてやらう」  大道芸から大芝居へ
        九代目團十郎の「かっぽれ」──歌舞伎台本からわかること
        レコード吹き込み──梅坊主の十八番から伝承芸へ
    4 流転する「かっぽれ」
        陸軍による編曲と吹奏楽  国葬の「かっぽれ」──選曲は正しかった!?
        さらなる越境へ  五線譜出版
        もうひとつの「かっぽれ」──シーボルトの Boo-su-ni kappore
    5 「かっぽれ」の精神──「フラメンコかっぽれ」に継承されたもの

第12章 ハワイの盆踊り歌…………………………………………………………早稲田みな子
       ──日系ディアスポラ文化としての民謡の形成
    1 ハワイの盆踊りの歴史
    2 ハワイ「福島音頭」の変容
       ホノルルの「福島音頭」=「相馬盆唄」=シティー・スタイル
       エヴァとマウイの「福島音頭」=プランテーション・スタイル=「福島盆踊り唄」(?)
    3 ハワイ「岩国音頭」の変容
        日本の「岩国音頭」のレパートリー
        ハワイの「岩国音頭」のレパートリー
        ハワイの「岩国音頭」に残る古い特徴
    4 ホームとつながりつつ変化するディアスポラ文化

第13章 ハワイ日系人の「ホレホレ節」…………………………………………中原ゆかり
       ──ハリー・ウラタの取り組みと影響
    1 「ホレホレ節」の復活とハリー・ウラタ
    2 「ホレホレ節」との出会い
    3 旋律への興味と保存への意欲
    4 正調「ホレホレ節」へ
    5 うたわれる「ホレホレ節」
    6 「ホレホレ節」復活の意味

第14章 歌の実践にみられる「田舎」の創造……………………………………倉田量介
       ──キューバのプント・グァヒーロをめぐって
    1 キューバの民謡
    2 「農民音楽」とは
       種類  楽器  演奏の目的  録音メディアおよび放送メディア
    3 「農民音楽」の実践者
    4 現地の民俗学者による「農民音楽」の解釈をめぐる考察
    5 「農民音楽」を取り巻く今日の環境

第15章 ベネズエラ民謡「ホローポ」の創造……………………………………石橋 純
       ──知識人と民衆知
    1 「民謡」以前──ファンダンゴヘのまなざし
    2 「ベネズエラ民謡」ホローポの誕生
    3 ホローポの民衆知
       楽器編成  和声循環の型と即興演奏  ノリの裏表とその転換
    4 「本物」のホローポ発見と大衆音楽化
       大衆音楽ジャンルとしての「民謡」の成立  民謡ブームの寵児たち
       都市教養層とホローポ
    5 民衆文化をめぐる価値転換
       新しい歌と都市弦楽  ノリの客体化
    6 民衆文化と都会人

第16章 「ダニー・ボーイ」は戦争に行った……………………………………森 博史
        ──歌から立ちあがってくる物語
    1 曲名不詳のメロディから「ロンドンデリー・エア」へ
        「曲名小計」のメロディ
        アイルランド系文化人と「ロンドンデリー・エア」
        イギリス音楽界における「ロンドンデリー・エア」
        曲の出自に対する疑問と探究
    2 「ダニー・ボーイ」とその作詞者ウェザリー
        「ダニー・ボーイ」という詩作品  歌詞に見られるふたつの要素
        失われた第三スタンザ?  バラッドの継承者
    3 合衆国における「ダニー・ボーイ」
        歌手のシューマン=ハインク
        自由公債販促キャンペーン (Liberty Bond Campaign)
        「兵士の母」(Soldier's Mother)
    4 映画『ダニー・ボーイ』と戦争がつくりあげる物語


第 III 部 民謡をつくる──創作と編曲

第17章 一九世紀ブダペストの「民謡」……………………………………………横井雅子
    1 ”まちがって民謡とみなされていた” 歌
    2 当時の ”民謡” をめぐって──一九世紀における民謡集を手がかりに
    3 多様な都市住民のための娯楽と ”民謡” …
       ブダペストの市民たち  新たな市民が欲した ”民謡”
    4 人々が ”民謡” に求めたもの

第18章 バルトーク『子供のために』をめぐって…………………………………伊東信宏
    1 『子供のために』の位置
    2 『子供のために』の成立と版
    3 以前の編曲との比較
    4 第II巻第34番「葬送」
    5 その後の民謡編曲作品

第19章 どうして沖縄ふうなんだろう………………………………………………三井 徹
       ──英系米民謡の旋律変形
    1 沖縄的音階版「プリティ・ポリ−」の譜面
    2 沖縄的音階版の間接音源…
    3 一九二七年のB・F・シェルトン版
    4 一九三七年のE・C・ボール版
    5 シェルトン版とボール版の比較


第20章 〈民謡〉から流行歌へ………………………………………………………松村 洋
       ──タイのラムウォン歌を中心に
    1 タイ歌謡
        王都の歌・地方の歌  プレーン・タイ・サーコン
    2 ラムウォンの誕生
        ラムトーンからラムウォンヘ
        ピブーンソンクラーム政権のワッタナタム政策  ラムウォンの近代性
    3 流行歌とラムウォン
        広報局洋楽団  ルークトゥン歌謡に流れ込んだラムウォン
    4 近代化と伝統歌謡

第21章 ジャズ民謡の系譜……………………………………………………………細川周平
       ──忘れられた雑種音楽
    1 いつもの、それとも新奇な組み合わせ?
    2 鳥取春陽──道頓堀でジャズる
    3 服部良一と門下生──スウィング編曲の完成
    4 杉井幸一──ジャズもタンゴも乗り越えて
    5 ジャズ民謡をめぐって
    6 戦後の流れ──海外のジャズ界との接触
    7 民族性と陳腐性
    8 間歌的・発展的継承
    9 ジャズと民謡の収斂と離散

第22章 三橋美智也とうたごえ運動…………………………………………………輪島裕介
       ──昭和三〇年代における「民謡」の地位
    1 民謡は戦後に隆盛した?   
    2 三橋美智也の民謡調流行歌
       民謡的歌唱法・「望郷」モチーフ・「勤労学生」イメージ
    3 左派・進歩派による流行歌批判と肯定的民謡観
       「俗悪文化」としての「日本調」歌謡  左派・進歩派の「民謡」概念
    4 三橋三智也の民謡観
    5 「民謡」の拡散
       ジャズ/ポピュラーのレパートリーとしての「民謡」
       三橋美智也「達者でナ」(一九六〇年)
       「民謡の時代」としての昭和三〇年代

第23章 三輪眞弘「東の唄」と「ありえたかもしれない民謡」の虚実……………岡田暁生
    1 三輪眞弘と「フィクション」
    2 柴田理論とアルゴリズム
    3 「束の唄」と「日本民謡」の換骨奪胎
    4 「ありえたかもしれない」から「ある」へ
posted by ys at 18:44| Comment(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

音楽マガジンの進化について

 携帯端末の向こうはいつも音楽ライブラリー……という魔法のユートピアが実現して、音楽雑誌が変わりつつある。

 ▽最新のムーブメントを盛り上げる(だいたいムーヴメントというのが盛り上がってないでしょ)
 ▽最新の音盤を紹介する(それなら別に紙媒体で読まなくてよい)

という機能はあまりどうでもよくなり、それに変わって、

 ◎誰でもアクセスできる数十万曲(かな?)を整理したり知識を与えたりすることが、音楽誌の役割となってきたか──というのが僕の私感。

 まあ各人各様の感想があるでしょうけど、共に創刊第二号を迎えた『アルテス』と『音盤時代』の、意義ある存続を応援していきたいと思います。

 『アルテス Vol.2』(Spring 2012)の特集は「アップルと音楽」で、アップル歴17年の鈴木さんとアップル歴16年の木村さんによる編集。二人とも若いなあ──と、「歴」と言えるかどうか知らないが、26年前のマックプラスなどで日本語を書いていたサトチョンは思う)
 その『アルテス』で、

 輪島祐介〈連載〉「カタコト歌謡の近代」
に続いて
 大和田俊之〈新連載〉「倍音と幽霊」が始まった。
 
 細川周平編著『民謡からみた世界音楽──うたの地脈を探る』(ミネルヴァ書房、2012年3月刊行)
(これ、目次を載せているサイトが見つからない。あとでこのブログに載せよう)

という24人の共同大著では、「ブルース」という言葉の使用を19世紀黒人社会に追い求めた大和田君。こちらでは当面、アメリカン・ルーツミュージックの宝庫 Anthology of American Folk Music で有名なハリー・スミスに焦点を絞っていくらしい。


『音盤時代 no.2』は鳥取の浜田さんが、想像するに孤軍奮闘、がんばって編集しておられる。
 中特集「音盤遊び」のお題が、メロディー道
 
細川周平が「ゲリー・ゴフィン/キャロル・キングを聞きながら」
というのを書いて、モンキーズについて語ったりしています。

小西康陽の「メロディ・メーカーについて」は、イギリスの雑誌のことじゃなく、小西康陽をポール・マッカートニーやかまやつひろしと比較対照しながら論じているエッセイ。

僕自身は、お題の語呂「メロディ道」の語呂が気に入って、ダジャレ的に「メロディー度」なるものを、いろんな音楽について考え考えてみました。アフリカ系の非メロディ系、引きちぎりリズム・ミュージックが音楽革命をもたらしたはずの20世紀を超えてなお健在なメロディってものついて、サトチョン的パラノイア思考が始まる、
 佐藤良明「メロディはなぜいつまでも強いのだろう」
も、よろしければどうぞ。

この雑誌、レコードガイドも、オタクに走らず手頃です。
中特集ではない、本来の特集で、サトチョン的にツボは、
 湯浅学「不穏讃歌──ニューマンとニルソン」
でありました。
 
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2012年04月23日

彼の、僕の、あなたのベイトソン

ひとからいただいた著書をできるだけ紹介しようと思って、そのカテゴリーを作りましたが──おとなのように、サッサッと適切に事を進めることができなくて、いただいたままになってしまう本もあって、すみません──その最初に載せたのが、野村直樹さんの『やさしいベイトソン』。このたび新著『みんなのベイトソン』をいただきました。

ゼロ学習 → 学習I → 学習 II  → 学習 III

ベイトソンの思考した「学習」(learning)とは、人間(と動物と、時に機械)の変化(と一定性)についての階層的カテゴリーのことですが、ぼくも『精神の生態学』を学習し翻訳しながら、ああだ、こうだ、ずいぶん考えました。(拙著『ラバーソウルの弾みかた』で展開した「時の地層図」は、いうまでもなくベイトソンの論理階型論をしたじきにしています)

この本で、野村さんは、ぼく以上に、ああだこうだ考え、それだけでなく、その考えを本にまとめるために、ああだこうだ、トリッキーな工夫をしています。

探偵フィリップ・マーロウがサンセット・ブルバードの角を曲がると
ポンコツのマーキュリー・コンバーティブルに乗った「パパ」と「キャシー」がメタローグしているという始まり。

最後のほう、ベイトソンの死にまつわるいろんなエピソードも、聞きかじってはいましたが、あ、そうだったんだ、と直接知っている野村さんのこの本で教えてもらいました。

ベイトソン関係の書物、日本では増えていかないなかで──やりっぱなしにしている自分もわるい──キャジュアル&パーソナルなスタイルではあっても、貴重な思考の記録だと思います。

金剛出版ホームページ
http://kongoshuppan.co.jp/dm/dm.php?cd=1248
posted by ys at 08:51| Comment(0) | いただいた本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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