2011年05月30日

アメリカを視る目が変わる

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(5/31 文章を少し調整しました)
原題が White Guilt. 
「白人の罪悪感」を、時代を駆動する力として捉えた本ですが、『白い罪』とは、径(こみち)さん、いいタイトルを考えました。
 ただどうかな、「公民権運動はなぜ敗北したのか」という副題は、本書のスコープを、やや矮小化してはいませんか。原副題は「白人と黒人が一致して公民権運動の希望を打ち砕いた経緯」というような意味で、このアイロニーの味わいこそが、副題をつける意味だったのかも。

 それはともかく、クリントンのモニカ・ルインスキー・スキャンダルから書き起こすこの論考のスケールは、60年代の意識変革(フリーセックスからカウンターカルチャーすべてに及んだブーマー世代の「若者革命」)が、その後の時代に、どんな権力、どんな制度を呼び込んだのかという、重要な洞察を含んでいます。

 僕がときどき口にする「《時》の研究」の、ひとつの、意義の大きな実践だと思われます。

 ビル・クリントンやニール・ヤングと同年齢のシェルビー・スティールは、20世紀なかば以降に起きた黒人解放の時代を「白い罪悪感」が支配する時代と捉えます。
──1950年代にアイゼンハワーは私生活で「ニガー」という言葉を使って許されたろうが、愛人のフェラチオがバレで職に留まることは許されなかったはず。それと正反対の時代が到来している、と。
 要するに「ホワイト・ギルト」が道徳的権威として社会に居すわっているということです。
 この新しい心の制度は、社会のさまざまな領域に広く深く影響するわけですが、わけても、白人の罪悪感ゆえに、競争社会のなかで保護される黒人同胞の「人間的脆弱化」を著者は突いていきます。次の等式に、僕はうなりました。

 マイノリティ + 責任 = 人種主義
 マイノリティ ー 責任 = 道徳的権威

マルコムXは責任を引き受けた結果、人種主義に走った。その責任を放棄するところに、個人の生の輝きを犠牲にする「権威」が成立する。
「責任を失って権威になる」という言い方、深いじゃないですか。日本とアメリカ、個と社会との関係は対照的なところがありますが、制度による「甘やかし」がどのような問題を生んでいくのか、という点に、違いがあるわけではありません。
 原発事故でもあらわになる「専門家」という名の無責任集団。
 
「責任」って、やさしい言葉のようだけど、単なる組織の「職責」ではない、組織であれ個人であれ「主体が担う責任」というのが、忘れられてますよね。
 たとえば、いま日本の英語教育界で、誰が、どのような「責任」を口にしているでしょう。

 責任(responsibility)とは、コネクトし、相手の求めに対応(respond)する能力をいうわけです。
 いま、日本で教えられている英語は、何にコネクトし、何の求めに対応した姿をしているのでしょうか。
 大学の教育現場にかぎってみても、

 エリート ー 責任 = 権威

 という(アメリカとは違う日本的な)構造を支える営みが日々演じられていないでしょうか。少し、この点に関して、このブログでも具体的に踏み込んでいきたいと思います。

 なおこの訳書でも、きわめて的確な注釈を書いている藤永康政さんは、佐藤良明監修として出ている『マルカムXワールド』(1993)の、実際の主要監修者です。径書房の渡邊さん、原田さんたちとみんなでワッと一気にに造った、あれは楽しい本だったね。
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